「山へ登ろうというような人は、山が楽しくてしかたがない人に違いない」と想像する人もいるだろう。でも、私はそうじゃない。辛くてしかたがないのだ。それなのに行く。自分でもわけがわからない。「そこに山があるからだ」と言うが、いろいろ理由をつけても、結局その言葉に帰する。いろいろ言っても語り尽くせないからではないか。
「いつになったら行けるだろう」と日程を練っていた2001年の登山第1段は(第1段で終わるかも知れないが)、紆余曲折を経て、8月16日に出発することになった。
8月16日といえば、京都五山の送り火。お盆の締めくくりの日である。8月初旬から始まった盆の棚経がようやく終わり、送り火に掌を合わせながら、長かった夏の“苦行”をしめくくって一息つける夜である。しかし、今年は掌を合わせながらも、心はもうここにない。ザックの中身を再点検し、列車の発車時刻から逆算した出発の時を、落ち着きなく待っていた。
京都駅は深夜にもかかわらず人でごった返していた。乗車券を買おうと、緑の窓口を探したが、すでに閉まっている。改札で聞くと、指定券は9時までしか発券しないらしい。遠距離の乗車券は券売機でも買えず、改札で乗車駅を証明する紙切れをもらった。
17日の零時1分発 寝台急行日本海。寝台は満席と改札で告げられていたので、自由席の札の下に列ぶ。送り火見物から帰るような人も含め、すでにたくさんの人が列んでいた。「さほど混んでいないだろう」と高をくくっていたことを悔いた。
「座れなければ床で寝ていこう」と覚悟を決めていたが、なんとか座れた。ほとんど100%の乗車率である。リクライニングもしない4人掛け向かい合わせの座席は、まったく不自由だ。夜中といえど、車内灯は煌々と点いたままで、乗客も異様に元気で騒がしかった。かと思うと、通路の床の真ん中で胎児のような姿勢で眠っている大男がいる。なんとも奇妙な車中の4時間半、まったく眠れなかった。
富山に着くと、50人ほどの人が改札前にいた。何かの壮行会の群のようだ。朝の4時半の群衆の元気さは、寝不足の私には負担に感じられた。
5時10分富山駅発、登山口の折立まで2時間10分、バスに乗る。乗車の時、ザックの重量を量り、それに応じて荷物料を払う。16キロの私の荷物の料金は360円だった。
昨年、南アルプスに行った時は、バスが満員で、2時間ほどをバスの床で芋虫のように寝転がって行った。今回も、JRの混み具合から考えて嫌な予感がしたが、ちょうど満席程度の乗車率だった。
バスは立山方面に向かって進み、途中で立山行きや折立行きに分かれるようだ。分岐点にドライブウェイがあり、トイレ休憩を取る。ずいぶん早朝から開いているが、これから登山に行こうという人ばかりなので、荷物を増やすような買い物をする人はいない。初老の婦人たちが定刻にバスに戻らず、出発が遅れた。
しばらく行くと、料金所があった。この先は有料道路のようだが、ほとんど地道である。どうやら工事中のためらしいが、それにしてもひどい揺れで寝ていられない。道の脇には道路と平行してコンクリート製のトンネルのようなものがずっとある。これは冬季の歩道なのだろうか、初めて見るものだ。
いきなり道が開けて、芝生の広場が目前に広がった。「有峰県立自然公園」という、キャンプ場やテニスコート、合宿所などがある施設だが、走ってきた悪路にはまったくもって不釣り合いな立派さである。
ダムによって堰き止められてできた有峰湖を下に見ながら、バスはどんどん高度を稼いでいく。月見草や枯れ尾花がきれいだ。まもなく、終点 折立である。終点に到る前の道路の両側には、自家用車がいっぱい止まっている。「こんなに人がいるのか…」と、静かな山を求めていた私は少々うんざりした。
バスの最後部の座席に詰め込まれた乗客全員のザックを降ろすのには時間がかかる。私のザックは最後から2番目だった。登山前の、何となく気が急く時には、こんな間さえも焦れったく感じるものだ。
登山道前の休憩所回りの広場には、多くの人がいた。30人ほどもある団体のリーダーは、「いろいろな花が咲いているので…」という説明をパーティーにしている。背中にゼッケンをつけている人が多い。後からわかったが、これは高校生を中心としたパーティだった。
3〜4人の50才を過ぎた婦人グループがいくつか、夫婦連れ、男女混合の5〜6人のグループ。私のような単独行の人も何人か。その中には、大きなザックの若い女性もいた。
「ゆっくり行こう」 そう自分に言い聞かせて、ザックの中から昨日コンビニで買ったおにぎりを取りだし頬張った。
5メートルほど向かいで、単独行の若い女性が、自分で作った弁当を食べている。となりでは、私より少し年上の男女混成グループが、ザックの重さをめぐって、「私は、シュラフまで家に置いて軽量化したのに、17キロもあるのよ!」「あなたの小さいけれど重たいわね」と騒いでいる。重量からすると、テント泊なんだろう。昨今、登山を始めたような風貌ではない。
困った、食欲がない。2つ食べるつもりのおにぎりだが、1つ目がなかなか終わらない。寝るのが何より好きな私には、寝不足が明らかに堪えている。なかなか小さくならないおにぎりを片手に、休憩所に行って荒っぽい字で登山届を書き、水を1リットルとポカリを溶いて入れる小さい水筒を満たし、その上、準備体操をした。最後はお茶で流し込み、温室ミカンを一気に口に放り込んで、ようやく出発前の腹ごしらえをした。
そうこうしているうちに大きな団体や小グループなどは出発し、人影がまばらになった広場には、ようやく清涼な空気が漂いだした。あの団体の後を行くと、道が詰まって歩きづらい。できるだけ距離が空くように待つことにしたが、手持ちぶさたで落ち着かない。トイレに行ったり、また体操を始めたりして、8時前、これからの山行に多少の不安を抱きながら、独りっきりの時間を楽しみに出発した。
歩き始めの30分、1時間は、体が歩くことにまだ慣れていないため、一番辛い。いざ出発と勇んでアップテンポで歩き出すと、すぐにばててしまう。
大学で登山をやったというわけでもない私にとって、山の知識は登山のマニュアル本とたまに同行する元登山部員から得ることがほとんどだ。元登山部員は、端から飛ばす。一緒に行くと、まずそこで私がばててしまう。年が私より少し上の彼も、往年のように元気は続かず、そのうち2人でばててしまう。
単独行の今回は、私のペースだ。マニュアルの知識と経験則から、この時間の処し方は非常に大切だと思っている。我慢してでも歩幅を小さくして、一歩一歩登っていった。
「今が一番しんどいのだ。我慢しよう…今日は調子がいいんじゃないかなぁ…なんでこんなしんどい思いをしに来ているんやろ…」
風の抜けない樹林帯は暑く、汗が頭や顔から流れ落ちる。地面は少しぬかるんでいるところもあり、そこから上がる湿気が暑さを増す。
私のように髪がない場合、頭の汗の流れるスピードを緩和するものは何もない。また、頭と顔の境目は見かけ上はあるが、汗にとっては大差ない。頭と顔、その境目辺りから湧いてくる汗がボタボタと落ちる。バンダナを出して頭にかぶるが、すぐに汗を目一杯吸って絞れるほどにもなる。はちまきにしたり、また広げて頭にかぶったりしながら、1時間近く歩く。次第にからだが慣れてきた。食欲のなさから今日の体調を案じていたが、思ったほど悪くはない。
今回の山行は、久しぶりで体力も自信がないことや、昨年以来、膝や足首の故障が続いていること、いつも目一杯歩く欲張り登山が多いということなどを反省して、ゆっくり山を楽しみながら散策できるコースを選んだ。
登山雑誌の夏の特集には、夏山をメインとする人向けの、比較的緩いコースが載っている。そんな登山誌を数年分読み返して、今回のコースを決めたのだ。記事のタイトルは、「のびやかな平原を抜けて 清流ほとばしるカールを訪れる」。富山側の折立から登って、太郎山へ登り、北ノ俣〜黒部五郎〜三俣蓮華〜双六と稜線を歩いて新穂高に降りる。雑誌の写真を見ていると、山上のお花畑や清流の写真が美しい。コース自体はごくポピュラーで、難易度の低いものだ。
京都から3000メートル級の山に登る場合、どうしても北・中央・南アルプスあたりの山塊を目指さなければいけない。前泊する時間的余裕があるならいいが、無いのなら、一番足の便がいいのは北アルプスである。上高地や白馬あたりなら、夏のシーズンには、京都からの直通バスがある。寝台車はないが、夜行列車などを乗り継いで行っても、朝には麓に着ける。今回のコースも、富山回りではあるが、朝には登山口に立てる。それもコース選びの大きなポイントになる。ただ、眠れない夜行で行って、朝から慣れない体で登山するのは辛い。
女性のグループは、状況を選ぶことなく、賑やかことはお定まりである。しばらく歩くと、女性たちの声がする。あまり近づかないようにゆっくり進むが、いずれ追いついてしまう。少し広くなった山道の大きな岩のところで、出発前の広場で荷物比べをしていた6〜7人の男女混成グループが、どっかり腰を下ろして、ザックを広げている。
「これも重いから食べちゃおうよ」「エネルゲンはいいわよ。元気が出るわ」「今日は調子が悪いなぁ」と、山上の井戸端談義である。歩き出してからまださほど時間は経っていないが、大休憩をとって、目方の重い食料を減らそうということらしい。いかにも楽しそうである。
私のようにテント泊の単独行と違って、グループの場合は荷物を分け合って持つことができる。例えば、テントを誰かが持てば、調理器具や食材は誰かが持つとか。それでも私より荷物が重いのは不思議なのだが、どうもレシピに一工夫があるらしい。お酒もたくさん持ってきたように言っていた。普段から鍛えた人たちの一つの楽しみ方なのだと、羨ましく感じた。
今回の出会う登山者の中に、さすがにハイキングへ行くような身なりの人はいない。一番近い太郎小屋まで、コースタイムで5時間。太郎小屋まで行くだけでは一つも頂上を踏めないから、そのまま降りてしまう人はまずいないだろう。最低1泊はするだろうから、装備もそれなりになる。やっとの思いで頂上に着いたら、ハイヒールの女性がミニスカートでいたなんていうのは、興ざめ以上である。体中の力が全部抜ける。ハイヒールにミニスカートは極端だが、木曽駒とか乗鞍などがそれに近い。
それにしても、女性はよくしゃべる。息を切らしてでも、まだしゃべっている。自分の後先に女性のグループがいることはすぐにわかる。熊除けにはいいだろう、というと失礼か。本当に辛いとしゃべるどころではないから、まだ元気な証拠でもある。
独りで歩いていると、自分としゃべるよりない。「1時間、今が一番辛いときだ!」「よし、あと20分は休憩しないで歩こう!」「クッソォー! なんで山なんかに来たんだ!」と、たいてい叫んでる。
しかし、思考は続かない。「山道を登りながら考えた。知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住み難い」 漱石もそれ以上は考えなかったのではないか。
「ゆっくり登ろう」と思いつつ、何グループかを後にするペースで、いつも通り歩いた。性分だから仕方ないと、諦めつつ。
休憩地の景色。剣岳がかなたに見える |
1時間半ほど歩いたところで、少しひらけた場所に出た。数人が景色を見ながら休憩をしている。私も大休憩をとることにした。
ポカリで喉を潤し、干しバナナと温室ミカンを食べた。干しバナナを食するのは初めてだったが、何となく力が湧きそうなので、荷物に入れた。少々苦かったが、甘さが程良かった。
標高1870m。折立から標高差で500mほど登った。剣岳が遠くに見えていたが、雲が上がってきて、次第に隠れてしまった。
歩き始めてまたすぐに樹林帯の中へ入ったが、次第に視界が開けて辺りの雰囲気も変わり、ようやく日常を脱出した実感が湧いてきた。
自宅の近くにある山は、樹の生い茂った山だ。森林限界を超えて樹がなくなる、這い松が生えている、ゴツゴツした岩が露出している。高山植物が咲いている。そういう光景が、私を日常の世界から連れ出してくれるのだ。これが私が登山をする大きな理由の一つだろう。
日常の光景から抜け出しつつあることに浮かれていたのだろうか、帰ってから地図を見ると、休憩したところからコースタームで1時間半ほどのところに「五光岩」があると書いてあるのだが、覚えていない。
視界を遮る木はもうない。ハイジに出てくるような、一面の草原である。その中の木道や、岩をしっかりと敷き詰めた道を進む。整備が行き届いていて歩きやすい道を行くのは、まるでハイキングだ。「こういう仕事は誰がしてくれるんだろう。気の遠くなるような作業だなぁ」と感心し、感謝するが、難を言えば歩き易す過ぎる。
まだ秋の花のシーズンには少し早いが、花を終えて羽毛のようになったチングルマの実、イワギキョウなどが咲いている。写真を撮ったり、腰掛けて景色を眺めたりしながら、もう一度初心を取り戻して、ゆっくり進む。
歩いている人たちは、それぞれのペースで休憩を取る。わずか5分ほど休憩している間に、今抜いてきた人に抜かれる。歩くペースが似通った人たちとは、向こうが休憩している間にこっちが抜き、こっちが休憩している間に向こうが抜くということを繰り返す。目的地に着く時間はほとんど変わらない。
出発から3時間ほど高校生の団体と距離を保ちながら来たが、中に1人、バテている生徒がいて、引率者が付いて3人ほどで遅れて歩いている。そのグループに追いつかないように歩いていると、こちらのペースが乱れてくる。そのうち、教師らしい引率者まで、「おまえと一緒に歩いていたら、こっちが疲れる」と言って、次第に前の一団と一緒に行ってしまった。
私は、彼を追いかけて段々近づき、追いつき、そのうち追い抜いてしまった。追い抜くときに言葉をかけようかとも思ったが、彼はそれどころじゃない様子なのでやめた。
向こうから来た人が、「大会ですか?」と声をかけてきた。私を団体の引率者と間違えているらしい。違うと説明すると、この時期に高校生の登山の大会があるのだというようなことを言って、通り過ぎていった。そういえば、夜行列車の高校生たちは、富山駅から貸し切りバスで立山に向かった。彼らもそうなのかも知れないと納得したが、登山部にしては行儀が悪かったと、寝不足も手伝って腹が立った。
そのうち、今度は高校生の団体の後尾に追いついてしまった。後ろに数人の教師が固まっているようで、遅れている彼のことを少し気にしていた。私が、「ずっと後ろですよ」というと、彼らは立ち止まって、彼を待とうとした。ちょうど丘を挟んだこっちと向こうに両者が立ったため、丘を越えてくるまで彼の姿は見えない。人影が見えるたびに、「あっ、あれか? 違う…」と数回繰り返し、「来なかったら、先生の責任ですよ」などとお互い冗談を交わしながら待っていると、ようやく大きな生徒の姿が見えた。彼が近づくのを待つこともなく、教師たちと私は歩き始めた。
団体と一緒に歩いていると、やはりペースが合わなくて辛い。何とか抜こうと思ったけれど、100mほどにも延びた一群を抜くのは大変だ。そうこうしているうちに、太郎平小屋の屋根が見えてきた。着くまでにまだ30分以上はかかるだろうが、追い抜こうという考えはもうやめた。
太郎平小屋前。背景は薬師岳 |
先が見えたこともあって、もう急ぐ必要はない。またカメラを取り出して、花などを撮りながら、11時過ぎ、小屋に着いた。コースタイムでは5時間だが、4時間かからずに着いたことになる。
小屋の前には、高校生の団体、女性のグループなど、たくさんの人がいた。
槍ヶ岳が小さく見える。もちろん、薬師岳も間近に見える。太陽は遮るもののない広場に照りつけている。
小屋の前のベンチに座り、売店でビールを買って、朝のおにぎりの残りを片手に呑む。実に美味い。うまさが体に染みこみ、ほろ酔いも手伝ってくると、次第にもうこれ以上歩こうという気が失せてくる。
これから薬師に向かおうという人は早々に出発していくが、薬師まで往復すると5時間ほどかかる。高校生たちもここでテントを張ってから、て薬師を往復するようだ。
今日は寝ようと決め込んでいた上に、ビールまで呑んだ私に、薬師に行く気はもうない。また別の機会に薬師に行こうとすれば、立山から縦走するか、今日の道をもう一度登らねければならない。せっかくの好機を逃すようで、もったいない気もするが、「とにかく眠りたい」気持は揺るぎない。
小屋からテント場までは離れていて、木道を20分ほど歩かなければならない。家にいるときなら缶ビール1本などなんでもないが、今日はアルコールが効率よく効いている。狭い木道を踏み外しそうになりながら、太郎山と薬師の鞍部にあるテント場に着いた。
色とりどりのテントがすでに20張りほどあった。空いている空間から平坦な場所を探して、テントを張る。
私の1人用のテントはわずか1畳分ほどしかない。テントを張ってすぐ、シュラフ(寝袋)とマットを用意し、方針通り、一眠りすることにした。
テントの中で安堵してから後悔したのだが、私が一夜の居を構えた場所は、ほぼ平坦ではあったが、結果として通り道の脇になってしまった。始終ではないが、水をくみに行く人、トイレに行く人が私のテントの横を通り、時折安眠を妨げられることになった。また、テントを地面に固定するための紐に引っかかる人もいた。そうならないように、大きな石をわざわざ目印に置いておいたのだが…。
12時過ぎからガスが発生し、そのうち小雨も降り出した。薬師に行く人たちは、合羽を着て出かけていった。
2時間ほど寝ただろうか、テントを細く開けて外を見ると、本格的に小雨が降っている。少し離れたテントから、「夕食は何時にする? 4時頃から準備するか」という声が聞こえてきた。「そうだなぁ、ボクもそうしよう」と、また居眠りした。前日までお盆で家々を回っていたことが嘘のように、ゆったりした時間だった。
テントの外の足音で目が覚めた。そろそろ夕食を作り出そうとする人が、活動し始めたようだ。「じゃぁ、そろそろやるか」と独り言を言って、テントの出入り口から顔を出した。雨は上がっているが、天気は良くない。寒い。フリースを持ってくるのを忘れたこと悔やみながら、一枚重ね着をして、テントの外へ出た。
5メートルほど離れた隣は、高校生の団体と行動を共にしている20才ぐらいのアメリカ人女性と日本人男性ののテントだ。男性は高校生たちと薬師に行ってまだ帰ってこない。女性は話す相手もなく、テントの外で寒さに身をすくめていた。
携帯コンロやナベなどをテントから出し、夕食の準備をしていると、彼女と目があったが、英語を話せない私は気後れして声が掛けられなかった。
テント場が小屋から離れているため、係員がテント場のプレハブ小屋に出張して、テントの所場代500円を徴収したり、ビールなどを販売している。寒いから日本酒かワインはないかと尋ねたが、さすがにここは街の酒屋ではない。冷たい山水で冷やしたビールを買って、飲みながら調理することにした。
太郎平小屋のテント場。向こうの山は黒部五郎岳? |
今日の夕食は、トマトソース・ベースのリゾットとハンバーグ、わかめスープで、いずれもインスタントだ。食料はあらかじめ1食分ずつ袋に分けてあり、食欲に変化がなければ、いちいち考えるのも面倒だから。その通り食べようと思っていた。
いろいろな食材を持参しているグループもあった。グループで担ぎ手が人が多ければ、食に凝ることも一興だ。
朝のおにぎりがまだ1つ残っていたので、それをリゾットに使った。リゾットとハンバーグは合うだろうと思ってあらかじめセットしていたのだが、ハンバーグと思って買ったのが、実は大きなソーセージだった。
この“ハンバーグ”は家の近くのスーパーで山と積んで売ってあり、100円だった。ずいぶん安いなぁと思って買ったのだが、数日おいてそのスーパーに行っても、まだ売っている。どうしてこんなに安いのが売れないんだろうと不思議に思っていたが、ここへ来て理由がわかった。石鹸2つ分ほどもある魚肉ソーセージだった。気圧の関係で膨らんだパッケージを開けてみると、色も悪い。はたと困った。どうして食べよう…。ソースは付いていない。仕方がないので、薄く切ってステーキのように焼くことにした。その前に、まずリゾットを作り、それを食べながら、ソーセージを焼きつつおかずにし、仕上げにわかめスープという手順だ。
今回の山行の食料で大いに役立ったのは、自作の梅干しだった。今年自宅の庭になった梅を、8%程度の減塩漬けにした。今年は夕立もほとんどなく、土用干しも楽だった。手塩にかけた梅干しを5つほど小さな容器に入れ、持参した。食欲はあまりなかったが、食べておかないと明日に響くと思い、調理をしながら梅干しをチビチビと舐めた。自作の減塩梅干しは、梅の持つ酸味が際だち、美味い。
リゾットは、まったく期待はずれだった。もっと不味かったのは、例のソーセージだった。大きいから、食べても減らない。しまいに吐きそうになったが、最後まで食べた。
もうあたりは薄暗くなってきていた。隣のテントの男性が帰ってきて、アメリカ人の女性に笑顔が戻った。話の内容はちっともわからないが、何となくキザな話し方をする男性だと思った。
コッヘルなどの汚れを紙で拭き取った上で、少し離れた水場に行って洗った。水は手を刺すように冷たく、長くは洗っていられなかった。すぐそばには立派なトイレもあった。こんな設備の整った山上のテント場は少なく、なかなか感動的だった。
テントに戻り、頭にヘッドライトをつけて、荷物の整理をサッサと済ませ、そそくさと寝袋に入った。「寝るのが一番。あー、気持ちいい」と、独り言。何を聞くでもないが、ラジオのチューナーをどうにか合わせ、イヤホンで聞きながら、すぐ居眠り体制から本格的な眠りに入った。騒がしかった回りも、まもなく静かになった。
夜中に寒さで目が覚めた。テントの内側は結露で濡れている。テント入口のジッパーを少し開けて空を見たが、星はほとんど出ていなかった。
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