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2007年2月の日記

マサラチャイ
 1日4〜5杯は飲んでいたコーヒーでしたが、インド旅行の時はお腹の調子を最優先にしてほとんど飲まず、「Coffee or Tea?」と聞かれたら、もっぱら「チィー プリーズ」と紅茶もしくはチャイを所望していました。

 ただ、インドで紅茶を飲んで美味しいと思ったこと1度もはありませんでした。本場なのに、どうしてでしょう。
 チャイは、植民地時代、いい茶葉はイギリスに送られ、残った細かいほこりのような紅茶の葉を美味しく飲む方法として作られたといいます。水牛のミルクでないと本当のおいしさは出ないとも聞きました。

 帰国してからも、コーヒーよりも紅茶を飲むことが多くなりました。胃の負担が違う気がします。

 今のお気に入りは、12月にインドに行った人からもらった「マサラティー」。チャイに、ショウガ、カルダモン、シナモン、胡椒、クローブなどの香辛料を加えたもので、いただいたものはあらかじめそれらがセットされていました。

 もらって飲んだ時は「マズイ!」と思ってそのままになっていたのですが、インドで作り方を教えてもらい、その通りやってみたら美味しく、体はあたたまるし、疲れが取れるような気がするし、胃にもやさしく、すっかりマイブームになってしまいました。

 心配なのはカロリーの取りすぎ。コーヒーをブラックで飲んでいたのと違って、ミルクや砂糖を入れたマサラティーは、かなりカロリーが高いでしょうねぇ。

 チャイを飲み続けたら、デブになっチャイます!

〜 マサラチャイを飲んでほっと一息 〜
2007年2月28日(水)  No.1325

格式高そうに・・・
 法要後の浄斎の席に、とある料理旅館にお招きいただきました。

 近いこともあって、今までに何度も訪れたことがありますが、どうもボクにはイマイチの印象ばかり。
 友人とお昼を食べに行った時も値段が張るだけ、上品ぶっているだけで、料理の味はイマイチ、サービスは×でした。その後、知人の結婚披露宴の会場としてはと電話で仮予約をしたのに、受け付けられていなかったという冷や汗をかくようなこともありました。

 格式の高さを全面に出してPRし、お値段はかなり高め。それにしては、女将を除いて、お給仕をする人は作務衣に5本指の軍足姿。「‘九ノ一’みたい・・・足袋はきなよ」と唖然としました。

 これが京都の由緒ある料亭の接待、味だと標榜されては、他の料亭がお気の毒。また、京都の味を求めて高いお金を払って期待に胸を高鳴らせてお越しになる方がかわいそう。今日のようにお招きくださった方にも失礼というもの。

 建物も庭も立派で、もっともっとよくなる可能性があるのに、ちょっと残念。いろいろなグッズを作ったり、古い建物をカフェーに改装したりしていますが、「まずは‘基本’だな」という気がしました。


 今日お勤めをした故人は、ボクが子供の時からお世話になった方。写真を見ていても、その静かで優しい所作がいろいろ思い出されました。
 ありがとうございました。どうか安らかに・・・。
2007年2月27日(火)  No.1318

インド嫌いもそこまでとは
 今年初めての大津・坂本での会議。新しい委員も2人加わって、議論が活発になっていきそう。

 坂本に来る時はいつも琵琶湖の景色に期待します。晴れているのに琵琶湖が見渡せない日もあれば、諦めていたのに案外よく見える日もあります。

 今日は、期待したほどはスッキリと見えませんでしたが、まぁ、75点というところでしょうか。琵琶湖が綺麗に見える日は、心がうきうきします。


 インドへ一緒に行った坂本在住のスタッフに、行ったついでに会えればと電話してみたのですが、音沙汰なし。夜になって、携帯にメッセージが入っていたことに気がつきました。

 「15日にインドから帰って以来、ずっーと寝ています」と。

 ボクよりも2日遅く帰国し、その帰りの電車の中から電話をもらったっきり何の連絡もないので気になっていたのですが・・・ずっと寝ているとは・・・。インドにいる時から、「早く帰りたい」と力なく連呼されていましたが、そこまで苦手だったのですね。


 土曜日の「メダカの学校」に備えて、毎日インドのことを調べているボクは、「次はここへ行きたいなぁ」「今度はゆっくりまわる旅にしたいなぁ」などと、「次」に意欲を燃やしています。もともとインドは好きな国なので。

 「好きか嫌いかはっきり分かれる」と言われるインドですが、彼は「嫌い」が「体に出た」のでしょう。

 単身での生活、食事はどうしているでしょう。カレーでも作って持っていってあげましょうか・・・拷問ですね。

〜 スミレも満開 〜
2007年2月26日(月)  No.1317

多産を阻むのは?
 今日お参りに行ったお宅の兄妹には、今時珍しく、それぞれ4人、5人の子供さんがおられます。9人の中で一番の年上は20歳、一番若い子は5歳。ついこの前、お産に帰っておられたように思う子が、もう5歳にもなっておられました。

 少ない子供を大事に大事に育てる弊害は、日本のみならず、中国や韓国でも言われていますが、‘芋の子を洗う’ように育つ方が、子供はたくましくなるに違いありません。

 多産を阻む理由が日本には多いのかも知れませんが、家計をやりくりしながら多くの子供を育てて苦労して育てるよりも、少ない子供を育て、自分たちも豊かに暮らしたいという親の欲が一番大きいのかも知れないと思います。

 「決して豊かではないのに、どうしてこの兄妹はたくさんの子供が欲かったんだろう」と思いながら、その亡父の五七日逮夜の読経しました。


 今日は日曜日なのに自坊での法要はなし。昨日は2座。日曜よりも土曜日が忙しくなってきたのも最近の傾向です。

 この先しばらくは、土日、ウィークデイに関わらず、多くの法要予定が入っています。土日はわかるけど、ウィークデイはどうして? 親戚などには声を掛けず、夫婦だけ、家族だけ、お年寄りだけなど、ごく少人数で法要をされることが増えてきたからかも知れません。

 いろいろ変わっていきますねぇ。
2007年2月25日(日)  No.1316

敵も然る者
 「今日の散歩道」の写真を撮りに境内をブラブラしてみたら、思っていた以上に花が咲いていて感激!
 ボクだけお気楽に「冬眠中!」なんて言ってられないという気になってきました。

 更新や原稿書きの合間の息抜きに、インドの土産売りから買い叩いたつもりでGETした菩提樹の葉っぱのラミネート加工をすることにしました。

 ブダガヤでは多くの土産物売りに囲まれ、他の人の買い物の交渉まで請け負いました。最初1枚千円と提示されたショールの言い値を、バスの発車寸前に5枚千円まで値切り、買われた方にはずいぶん感謝されました。それからボクはすっかりツアーの値切り交渉役。「安くするように言ってくださいよ」と、引く手数多でした。

 菩提樹の葉っぱも相当値切りました。損をしてまでも彼らは売りません。売るからには儲かるのです。言い値で買ってしまう人もいますが、それは現地の人たちにとっても決していいことではないでしょう。

 菩提樹はどこにでも生えていて、その葉っぱはタダ。それを水に入れて腐らせ、干してパッキングする。その手間だけ。手はいくらでもあるわけですから、向こうにしたら元手なしに近いものでしょう。

 値切って得をしたつもりで買ってきて、加工をしようと開けてみると、「あっ、やられた・・・敵も然る者やなぁ」と駆け引きの相手を称える気にさえなりました。

 買ってきたものは、菩提樹の葉を10枚重ねて糸で括り、ビニールにパッキングしてあります。見た目には表裏とも綺麗な葉脈が出ている葉っぱでした。ところが、中を開けていると、黒ずんでいたり、虫が食っていたり、切れていたりと、使えそうなものは半分とありません。

 ちょうど、見えるところには赤みの肉を綺麗に並べ、見えないところは脂身が多い、トレイに入って売っているスーパーの肉のようなものです。

 怒る気にはなりません。「あっ、やられたぁ。ヘヘヘ」。それでおしまい。

 京都のお店でも似たようなことがあります。観光客相手の飲食店などは、「よくこんなものを出すなぁ」と思う店があります。‘一見さん’だから、毎日来る客ではないから、それでやっていけるのです。彼らも然り。

 中国の土産物売りは狡猾で腹が立ちますが、インド人は明るいし、根が正直。交渉していても何だか愉快です。

 葉っぱを買うよりラミネート加工するほうが費用がいります。何しろ、そのために機械まで買ったのですから。時間もかなりかかります。でも、オリジナルのお土産ができますから。葉っぱが少々欠けていても汚れていても、許してくださ〜い。

〜 綺麗に見えるパッキングしたままの菩提樹の葉 〜
2007年2月24日(土)  No.1315

冬眠中
 午前中は雨。午後から一転晴れたかと思いましたが、夕方まで時雨がちのお天気でした。

 風は強いけれど、あたたかい日でした。

 所用のため、「今日の散歩道」の更新を順延。‘生む苦しみ’を先延ばししただけかも知れません。

 昨年末に漬けた白菜の漬け物も今日あげたもので終わり。沢庵は1週間ほど前に食べきりました。

 漬ける頃、禅寺の和尚と「今年の冬はあたたかいから、心配だなぁ」と漬け物談義をし、例年よりも塩を効かせて漬けましたが、まめに糠床の手入れをするわけではなかったので、今では各色のカビが生えてしまいました。

 市販の漬け物は、どうも‘ひと味’余計な気がします。漬け物は自分で漬けるのが一番。胡瓜が美味しくなる頃までに、糠床を整えておかなければ。

 あと1ヶ月もすれば春のお彼岸。だんだん忙しくなってきます。冬眠から覚めなければ。

〜 塩抜き中の白菜の漬け物 〜
2007年2月23日(金)  No.1314

3日短いのがキツイなぁ。
 気がついたら、2月もあと1週間。「2月は逃げる」といいますが、あっという間。特に今年は月の1/3をインドで過ごしたので、その感じもなおさらです。

 インド旅行のことを思い出しつつ「閑話」に書いていましたが、来週は自坊の「メダカの学校」で、「インド納経報告〜仏跡参拝」と題して話を聞いていただかなければなりません。

 「インドから帰って20日ほどではしんどいかなぁ」と思って、4月にしようかとも思いましたが、タイミングを外すので、少々キツイのを承知で3月にしました。やっぱりキツイ! 2月が3日短いのが恨まれます。

 インドのことを調べていたら、「へぇ〜」と思うようなことがいっぱい。行く前に知っていれば、また旅の深みも増しただろうにと悔やまれました。

 先日、サンガ師の著書『波瀾万丈! インドの大地に仏教復興 日本の心を持つインド人仏教僧・奮闘記』が送られてきたので、それも読み始めました。

 日本にいる時の師の様子はある程度知っていましたが、インドに帰国して、母国語もよくわからないままに苦労を重ねたことがよくわかり、「サンガ師の禅定林に行く前に読みたかったなぁ」と、これも残念に思いました。

 日本の天台宗の中でも、彼のことを、「日本でお金を集めて苦労なく事業をしている」「どうしてインドに支援する必要があるのだ」とささやく声があります。ボクも、インドの活動拠点に行って、そしてこの本を読んで、彼の苦労がようやくわかるようになった気がしました。非好意的にささやく人には、「彼のやっていることは大切なことです。身命をかけてやっているのですよ」と説明したいと思います。

 それにしても、インドって計り知れない国です。その奥深さ、幅広さ、そしてサンガ師の活動、お釈迦さまのことが、どこまでお伝えできるでしょう。欲張りすぎかなぁ。ともかく、頑張らないと。

〜 付箋だらけのサンガ師の本 〜
2007年2月22日(木)  No.1313

春よ来い!
 静岡から、早春の香りのする土筆を送っていただきました。

 まだ2月。少し早過ぎる気もしますが、今日のようなポカポカした日にはピッタリ。

 早速、爪の間を黒くしながら、袴取りに専念。頭の部分からふぁーっと花粉が飛んできたり、袴の間に緑色の花粉が固まっていたり、花粉症発症後日の浅いボクにとってはコワイ作業でした。

 袴を取った後に土筆を洗った水は、まるでお抹茶色。「こんなに花粉が付いていたの!」とビックリするほど。

 季節の物をいただくと、それだけで気持ちが豊かになる気がします。野に生えていた、人間のはからいを超えた自然からの‘プレゼント’ですから、それもひとしお。幸せを分けてあげたいと、下茹でしたものを知人に差し上げました。

 次は蕗の薹かな。春の動きを実感しました。

〜 掃除を終えた土筆 〜
2007年2月21日(水)  No.1312

やっぱり花粉症
 セーターを着て車を運転していると暑く感じられるほどの昼間でした。まだ2月だというのにこの暑さ。どうなってしまうのでしょう。

 ボクは風邪ではなくて、やっぱり花粉症みたい。頭がボーッとする、鼻が出るという症状以外、熱も咳も出ません。去年は3月頃に喉をやられましたが、今年はちょっと症状が違うみたいです。

 鼻の中にティシューを突っ込んで掃除していたら、鼻の粘膜が痛くなって、余計に悪化してきました。

 去年と先月に切り倒した杉の祟りかなぁ。
2007年2月20日(火)  No.1311

葬儀文化の一面
 大阪での葬儀と初七日の繰り上げ法要で、1日過ごしました。

 エアコンの効いているところで声を出すのは辛い。だんだんと声が割れてきたり、予告なく裏返ったりしてしまいます。僧侶席の前に加湿器を置いてくれないかと、真剣に考えてしまいます。

 今日初めて行った大阪市の北斎場は、1999年に完成した大阪市内で最も新しい火葬場。町のど真ん中にあります。2階に炉があり、旧来と同じように炉の入り口がずらっと並んでいました。ボクが行った時には他の組はおられませんでしたが、混んでいるときは何組もが一緒になるのでしょう。

 京都は、5つぐらいの炉が1部屋に並んでいて、それが4ブロックぐらいに別れています。受付順に各ブロックに割り振っていくので、火葬の際に遺族同士が顔を合わせることはありません。

 こんなところにも、大阪と京都の文化の違いを感じます。

 帰りの京阪電車では、サラ・ブライトマンを聞きながら爆睡。若者のようにオーディオプレーヤーのイヤホンを付けている坊さんはいないだろうと、ちょっと気恥ずかしかったです。

 9時就寝。熱もないのに、この風邪っぽさはなんだろう・・・まさか花粉症?

〜 冷蔵庫の上に仮置きした糠袋の上でまどろむさくら 〜
2007年2月19日(月)  No.1309

大阪での通夜
 月参り、法要、大阪でのお通夜と、風邪気味の体にはちょっと堪えます。

 大阪の葬儀は、正直なところ性に合いません。土地柄なのでしょうか、葬儀に重みがなく、雑然としているように感じます。

 今日の葬儀社との打ち合わせでも、通夜や葬儀の読経は30分程度でお願いしたいとのこと。「えらい簡単なお葬式やなぁ」と思いましたが、「郷に入っては郷に従え」、大阪流でするよりしかたありません。

 京都の火葬場に慣れていると、どこの火葬場を見てもよくは見えません。中でも大阪市の某火葬場は、入ってすぐのところに炉の入り口がずらっと並び、あちこちでいろいろな宗教の葬儀を司る人の声が入り乱れていて、あまりにも騒然とした様子に唖然とします。

 葬儀の際も、参列者がいなくなったら、「お経をやめて」と言わんばかりに、何度も「お焼香が終わりました」と言いにくることが、大阪では以前よくありました。途中でお経は止められん! お経は焼香のBGMではないのですから。

 言い方はよくありませんが、「一丁上がり!」というような雰囲気を感じてしまうことが、大阪の葬儀には多いのです。京都の大手の某冠婚葬祭業者にもそれは感じられ、多くの僧侶は「あそこで葬儀をするのは嫌やなぁ」と言います。

 そんなことと懇ろに弔うことは別ですので、ボクはボクの勤めを果たすのみ。風邪気味な割には声が出て助かったなぁ。

〜 帰りに撮った何の変哲もない大阪の街角 〜
2007年2月18日(日)  No.1308

旅行記、‘渋滞中’
 やっとトランクを片付けました。でも、細々としたものをとりあえずトランクから出してぶちまけただけ。トランクは片付いたものの、まわりが散らかりました。

 旅行中の「閑話」を思い出しつつ書き進めています。1日かかってやっと1日分。なかなか進みません。

 出来るだけメモをしたつもりですが、頭の中では日付の境界が曖昧。何がいつの出来事だったか、少々混乱気味です。

 3月の「メダカの学校」は、ボクが講師になって、今回の旅行のことやお釈迦さまの仏跡巡りのことをご報告する予定になっています。そのためにも、ひとまず旅行のことを記録し書いておきたいと思っているのですが。

 10日間も訪印していた割には写真が多くありません。後半はほとんどが移動時間で、バスの車窓からは撮れるものも限られています。ホテルに着くのはたいてい夜遅く。まわりを散歩するわけにもいきません。

 たくさん写真を撮るつもりで、データーを吸い上げたりするためにノートPCまで持っていったのに、拍子抜けです。

 来年はゆっくりしたインド旅行がしたいなぁ・・・来年も行くの?

〜 農家の親子 〜
2007年2月17日(土)  No.1307

去勢の猫と去勢せぬ僧
去 勢 の 猫 と 去 勢 せ ぬ 僧  春 の 日 に  金子兜太

 更新に使う俳句を探していたら、こんな句に目がとまり、思わずニンマリしてしまいました。去勢した猫=さくら 去勢せぬ僧=ボク。

 春になって猫が騒がしくなる頃にもかかわらず、去勢した猫は静かにしている。去勢せぬ僧は、はたして何をしていたのでしょう?

 夕べ、うちの‘去勢した猫’は、1時間おきぐらいにボクの布団を出たり入ったりを繰り返し、入ってくるとベッタリと身を寄せて、ボクは身動きが取れませんでした。まるでインドから帰ってきた時に冷たかった分を補うかのようなベッタリ振り。

 ‘去勢の猫と去勢せぬ僧’の一夜は、こうして更けていきました。おかげでボクは寝不足です。


 インド旅行の時、ボクが荷物持ち役などを買って出た“和歌山の大僧正”から、鰹や秋刀魚が届きました。

 旅行中は飲んでばかりで、飛行機の隣席から逃げ出した女性もいるほどだったのに、日本が近づくに従って正気になり、「帰ったら、また何か送るから」という言葉通り、しかも素早く、海の幸を送ってくださいました。

 「さすがだなぁ。やっぱり、ただの酒好きの爺さんとは違うわ。きっと、旅行中は普段出来ない分、のんびり過ごされていたんだなぁ」と、感心しました。

 お礼の電話をしたら、法要などがあって随分お忙しい様子。ボクのように、インドぼけしている暇さえない様子でした。負けた・・・。

 去勢せぬ僧は、明日あたり、やっと完全復活です。

〜 寒風に耐える、去勢せぬ猫ミーコ 〜
2007年2月16日(金)  No.1306

今日もリハビリ
 昨日よりも今日のほうが疲れが出てきたみたいで、朝の本堂のお勤めを終えた後は、1日中ボオーッとしていました。

 インドではほとんど同じツアーの人の写真を撮りませんでしたが、インド人に写真を撮って欲しいと頼まれることが多く、そのうち数組には「写真を送ってあげる」と約束したので、プリントしました。

 インド人は写真好きで、我も我もと集まってきましたが、「住所を書いて」とメモを差し出しても、英語で書ける人は、片田舎の街ではそれほど多くありませんでした。

 最近テレビで放映されるインドは、発展めざましい部分ばかり。でも、それは都市に住むごく一部の人に過ぎません。田舎は、ボクが25年前に行った頃とそう大きくは変わっていませんでした。

 そんな田舎の農村に住む人にとって、写真を撮る機会などはごく稀であるに違いありません。デジカメで撮ったその後に、液晶に映った写真を見せてあげると、みな大喜びでした。

 かろうじて住所を書いてくれた人たちに写真を送るべく、ポストカードに焼きましたが、書いてもらった英語がどうにも判別不明。宛名に書き写すことができないので、それをそのまま宛名欄にコピーしました。

 「あんな片田舎の家に届くのだろうか、いやぁ、無理だろうなぁ。届かなかったら、日本人は嘘を言ったと思うだろうなぁ」と不安がよぎりますが、とりあえず送ってみなければなりません。

 「同じツアーの人たちはみな元気にされているだろうか」と、我が身の気怠さに照らして思いながら、現実復帰のリハビリの日を過ごしました。

〜 インドへ送るポストカード 〜
2007年2月15日(木)  No.1305

いまだにフワフワ
 一昨日は2時前にタージマハールのあるアグラをバスで出発し、デリーに着いたのが8時過ぎ。急かされつつ夕食を食べた後すぐに空港に向かい、昨日0時過ぎに帰国便に搭乗。日本に着いたのが夜7時。それからタクシーに乗って10時前に自宅へ。

 短い休憩や食事、待ち時間を挟みながらもズーッと乗り物に乗っていたので、今日も体がフワフワしているような、まだ何か乗り物に乗っているような感じがしていました。

 今日はバレンタインデーかぁ。今年はチョコもちょこっと減ったかな。チョコを食べて元気を出さないと・・・バスや飛行機の中ではよく寝ましたが、やはり布団で寝ないと体は休まりません。今日はちょこっと座っただけでも寝てしまいそうでした。

 夕べは久しぶりに7時間ほど布団で寝ましたが、元来寝るのが大好き&必須のボク。もう一晩は寝ないと、復調出来そうにありません。

 自室の窓から見える梅が満開になっているのに、今朝気がつきました。時の移ろいを感じます。

 夜になって、ようやくさくらもボクに慣れてきました。犬だったら、こんなことはなかったでしょうに、猫って記憶力が弱いのかな? ボクのが伝染うつったのかなぁ?

〜 自室の洋服箪笥の上でまどろむさくら 〜
2007年2月14日(水)  No.1304

インドの旅〜帰国の途へ (暫定版)
 ニューデリーのインディラ・ガンジー国際空港から出国。

 ボクの座席がないらしく窓口でトラブっているので、「これはひょっとしたらビジネス・クラスの乗れるかなぁ」と思いましたが、結局、エコノミーでした。

 この空港のセキュリティー・チェックは要領が悪く、搭乗口ごとにたった1つの機械数百人をチェックする構造らしくて、ボクたちが乗る便のゲートにも長蛇の列が出来ていました。

 「これでは定時には飛べないなぁ」と思っていましたが、それに輪を掛けた機材遅れで、結局1時間遅れのフライト。まだましなほうかも知れません。今回のツアーでは、4回もフライト時間が変わった便もあったのですから。

 座るところもない、人でごった返した待合室の冷たい床に新聞紙を敷いて座り、1杯60円のカップのコーヒーを買って飲みました。

 搭乗するなり爆睡。機内食が出てくる気配を感じましたが、さっき食べてきたばかりなので食欲もなく、また眠り続けました。きっとまた、ノン・ベジタリアンのメニューはチキンカレーでしょう。

 約4時間後、トランジットのためにバンコクに着陸。デリー発が遅れたため、待ち時間は3時間ほどに減りました。

 ツアーのメンバーは、免税店に行ったり、足つぼマッサージをしてもらったり、それぞれ過ごしました。ボクも免税店を見て回った後、しばらくオープンカフェで一人過ごしました。

 旅行中は、たとえ一人でホテルの部屋にいても、異常に早いモーニングコールのためにすぐに寝なければならなかったり、洗濯物を乾かしたり、パッキングに追われて、ゆっくりした気分がしませんでした。カフェにいたのはごく短い時間でしたが、帰国の途にあるという余裕も出てきて、久しぶりのホッとする一時でした。

 バンコクでのセキュリティーチェックはごく簡単。ボディーチェックの台に登ろうとしたら要らないと言われ、インドでは当たり前だった搭乗券や手荷物札への「検査済」スタンプもなくて、何だか拍子抜け。
 集合場所に行って、添乗員に聞いたら、「(あそこまで厳しいのは)インドだけです」とのこと。

 バンコクで成田に向かう人たちともお別れ。関空へ向かう便に乗るのは8人。発熱している人、お腹を壊している人など、全員が健康なわけではありませんが、何とか最終のフライトに臨めました。

 定時にバンコクを離陸。飲み物のサービスにブランデーを頼みました。いままで、お腹の調子を最優先に、極力アルコールや油ものなどを控えてきましたが、もうここまで来たら大丈夫。程なくして出てきた機内食は、少し食欲も出てきたので、いただきました。メニューはやはりチキンカレー。ただし、ココナツ味の効いたタイ風。渋めの赤ワインがまた眠気を誘い、サラ・ブライトマンを聞きながら、すぐに爆睡。

 何時間経ったか覚えていませんが、経由地のマニラに着陸。いったん降ろされて、30分後に搭乗。マニラからの乗客が空港の混雑で遅れたらしく、搭乗後、30分以上待って離陸。機長の説明では、風が強いので、関空の到着時刻は予定通りとのこと。

 またもや機内食。寝てはいませんでしたが、食欲がないので断り、赤ワインだけもらいました。ボクの右側の女性は、デリーから3食ともを召し上がっていました。左側の女性も、さっきはパスされたものの、今度は完食。

 日本時間19時、デリーを出てから、約15時間後に関空到着。

 あれだけお酒を召し上がっり、ウイスキーをラッパ飲みされたこともあった“大僧正”も、日本が近づくに従ってお酒と縁が切れ、関空に着いたときにはすっかり“シラフ”。さすがにちゃんとケジメを付ける方なのだと、変に感心しました。

 添乗員さんの仕事はもう終わったとみえて、検疫も荷物の受け取り、入国、税関もすべて各自。ボクは“大僧正”への最後のご奉公をして、共に到着ロビーに出ました。

 九州から来られた方たちと和歌山の“大僧正”は帰りの足がなくて関空のホテルに宿泊。京都から参加した女性とボクは、関空〜自宅直行のシャトルタクシーに乗って、京都へ。「日本って、なんときれいなんだろう」「うわぁー、段差のない道だなぁ」とインドへ行ったからこそ浸れる思いを味わいながら高速をひた走り、途中、順次客を降ろしていくための回り道をしながらも、10時前には帰宅しました。

 自坊の入り口でさくらが出迎えてくれたものの、「知らない人が来た!」と言わんがばかりに警戒し、近づこうとすると「ウゥー」とうなり声をあげて逃げてしまいました。あれだけボクにベタベタしたいたさくらが・・・ショック。

帰ってから一度に大量メールを受信することは無理だろうと、メールを受信させるために付けっぱなしておいたパソコンには、迷惑メールを含めて1200通余ものメールが届いていました。エライコッチャ・・・。

 10日間の寝不足と移動の連続にさすがに疲れ、今回の旅に対する感慨などまとまるわけもなく、出発後初めて湯船に浸かって入浴し、布団と同化するような感触を得て、すぐに眠り就きました。

 旅程の中程では、どうしようかと思うほど長く感じられた今回の旅行も、終わってみればあっという間。疲れはしたものの、大きく体調を崩すこともなく、無事に終えることができました。

 今回、まだ完成にはほど遠いものの落慶法要を敢行した「インド禅定林」の意義に改めて思いをいたすとともに、共に楽しい旅をしてくださった方々に深謝申し上げます。

〜 バンコクの空港のカフェにて 〜
2007年2月13日(火)  No.1303

タージマハール、アグラ城〜デリーへ (暫定版)
シャダブティ・エクスプレス

 4時半モーニングコール、5時15分にホテルを出発して、デリー駅へ。

 電車の時間が迫っていて、バスを降りてから一行は大急ぎ。大僧正がグループからはぐれそうになっておられたので、首根っこを持って引っ張ってお供をし、一度はみんなを見失いましたが、何とかホームにたどり着きました。

 これから乗るのは‘インドの新幹線’シャダブティ・エクスプレス。といっても、別の軌道を走るわけではなさそうです。
 車両の入り口には、乗客名簿の一覧表が張り出してありました。

 車内は特に立派というわけではなく、シートも簡素。ムガール朝時代の古都アグラに向かう列車とあって、乗客の多くは外国人でした。

お茶とお菓子のサービス

 発車してすぐに、紅茶とクッキーのサービスがありました。紅茶はポットに入っていて、2杯分程度ありました。


乗客リストを見ながら検札
 また、新聞のサービスもあり、英字の新聞を1紙もらって見ると、季節外れの雷と冷たい大雨で、築20年の家が壊れ、8人が亡くなったという大きな記事が載っていました。 車掌さんの検札もありましたが、ツアー客はパス。

 ほどなくして食事のサービス。次々とサービスがあり、客室係の忙しいこと。

ノンベジ用車内食
 食事は例によって、ベジタリアンとノンベジタリアン用。前者はプレーンオムレツのよう、後者はハンバーグ。それぞれ食パンとジュース付きでした。味はお世辞にも美味しいとは言えませんでした。

 列車はそれほど速く走っている感じもなく、割とよく減速します。「これで新幹線なのかなぁ」とは思いましたが、他の列車がよほど遅いのでしょう。快適な旅でした。


タージマハル〜アグラ城


曇天のタージマハル
 駅前からチャーターバスに少し乗り、タージマハルの近くで環境対策の電動バスに乗り換えて数百メートルでゲートに到着。
 ゲートでは厳重なセキュリティーチェックが行われていました。

 ガイドさんの説明で、世界遺産のこの美しい建物が宮殿ではなく、お墓であることを初めて知りました。

 ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンの遠征に同行していた王妃ムムターズ・マハルは、14番目の子供を出産したのち、その産褥熱がもとで、38歳にして世を去ってしまいます。
 悲嘆にくれたシャー・ジャハーン帝は、居城であるアーグラ城から見えるヤムナー河の畔に、総大理石の廟の建設を1632年から22年をかけて行いました。それがタージマハル。

アグラ城から見るタージマハル
 皇帝は、晩年にタージマハルの向かいに黒大理石の宮殿(自分の墓所との説)を建てようとしますが、第3皇子によってアグラ城の塔に幽閉されてしまい、塔の中から7年間タージマハルを眺めた末に亡くなり、妃の横に埋葬されたそうです。

 ビンバサラ王と阿闍世王子もそうでしたが、インドでは父親を幽閉して殺してしまうということがよくあるのでしょうか?

 それにしても、22年もかけて巨大はお墓を作った‘愛’とは何なのでしょう? まだ、遺骨を食べる気持ちのほうがわかります。

 シンメトリーになった素晴らしい眺めでしたが、仏跡を巡る時のような深い感動はなく、のんびり物見遊山をしました。



アグラ城入り口
 電動バスで駐車場に戻り、チャーターバスに乗ってすぐにアグラ城に着きました。タージマハルとアグラ城には西洋人の姿が目立っていました。

 タージマハルは大理石の白、アグラ城の石は赤という印象が今も強く残っています。

 アグラ城からは、遠い川面の上にタージマハルが見えました。王は7年間もの間、何を思ってこの光景を眺めていたのでしょう。


バスでデリーへ


舞踊で出迎え?
 近くのレストランで昼食。店の入り口では、鮮やかな衣装をまとった少年が踊っていました。また、笛の音でコブラが姿を現す見せ物もやっていたようですが、そんな恐ろしい物、一瞥もしませんでした。

 店の中にはやはり欧米人の姿が多く見られました。インド観光といえば、タージマハルのあるアグラは有数の街なのでしょう。

見かけはイマイチ

 食事はまずまずの味。年輩の方はさすがにお疲れの様子。テーブルに座るメンバーによって、食事の減り方が倍ほど違いました。

 食後、大理石の土産物店に立ち寄りました。売り場に至るまでの廊下では、職人たちが大理石を磨いていました。帰りがけに、この職人たちは磨いている途中の綺麗な石を渡して、「持って帰れ」という仕草をし、その尻からお金を要求しました。


石を磨く職人
 店の売り場には、小さなものからテーブルのような家具に至るまで、大小様々な象眼を施した大理石製品が並べてありました。
 以前、インド旅行をした時は、大理石製の小物入れやコースターなどを求めましたが、もう買い物するのが面倒になっていたので、真剣に見ることすらしませんでした。

 ‘大僧正’は店を出たところに駆けつけていた物売りから色とりどりの石で作った首輪10本ほどを千円で買い求め、車中の女性たちに配られました。いろいろと細かい気づかいをされる方でした。

ドライブイン脇にて


土産物売り場にて
 1時40分にアグラを出発。途中、ドライブインでトイレ休憩&お茶&お土産購入をしながら、デリーに着いたのは8時15分。デリー市内に入ってからは大渋滞に巻き込まれました。
 列車で2時間ほどで来た道を、バスで6時間半かけて戻ったわけですが、バスで帰るメリットは何だったのでしょう?

 夕べ泊まったホテルのイタリア料理店でパスタとピザを食べました。インド最後の食事がイタリアンというのも変ですが、フライト時間が迫っていて、ゆっくり食事を楽しんでいる暇はありません。

 イタリアンを食べるとお腹が痛くなるのが常のボクですが、もうここまで来れば後は帰るのみ。飛行機にはちゃんとトイレもあるので心配ありません。出てきたものにはすべて手をつけ、少しワインも飲んで、少し落ち着きたいところですが、とにかく時間がないと急かされてすぐさまバスへ。急いで空港に向かいました。
2007年2月12日(月)  No.1323

雨のベナレス、サルナート (暫定版)
どしゃぶりのガート

 早朝にガンジス川での沐浴風景を船上から見る予定でしたが、前夜からの強い雨で出発延期。1時間ほどして出発しましたが、雨は一向に降り止みません。

 旅の準備をしている頃、アナウンサーの友人に「雨具はいる?」と聞かれ、「雨なんて降らないから、いらないですよ」と答えたのが仇。「要らないって言ったじゃないのぉ!」と怒られ、平謝り・・・そんなこと言われても。

 ガート(沐浴場)近くでバスを降り、ちょっと歩いただけでびしょ濡れ。3000円のスニーカーは10メートルも歩かないうちに浸水。防水だと思っていたウインドブレーカーは、漏水はなはだし。

 彼女のウインドブレーカーにはフードが付いてないらしく、ビニールの手提げ袋を頭からかぶっていました。テレビやラジオの視聴者には、とても見せられない姿でした。


ガートに人影なし
 ガートに着いても、ほとんど沐浴している人の姿はなし。時々雷は鳴る最悪の天気。「決して口をゆすいだりしないでください。それだけで体調を壊します。コレラ菌が死ぬというぐらいですから」と前夜ガイドに言われたガンジスの水には触れも出来ませんでした。
 ただ濡れに行っただけでバスに直帰。ベナレスを楽しみにしていた人にはお気の毒でした。

 「インド」といえば、タージマハールかベナレスを思い浮かべる人も多いでしょう。

 ボクが大学生の頃、自坊に下宿していた人に、インド美術を専攻していた京大のオーバードクターがいました。インドの写真を焼いて欲しいと言われ、サンチーなどの写真を何

ガートの建物に描
かれたヒンズーの神
枚も引き伸ばして焼きました。ベナレスの話もよく聞きました。「ベナレスに一度行ってみたいなぁ」とその時は思っていました。
 それから10年もしないうちに行くことになり、今回行ったガートよりももっと小さいガートで、ごく間近に沐浴風景などを目の当たりにしました。やはりそれは衝撃的な、印象深い風景でした。

 今回の旅行でもタージマハールやベナレスを訪れますが、それほど期待はしていません。それよりも、一昨日のこのページに書いたように、ヴァイシャリに行きたい。煉瓦の跡しかなくても、釈尊が「ヴァイシャリは美しい」とおっしゃったその町に行ってみたいという気持ちのほうが強くありました。

 ですから、今日がこんな天気で、沐浴風景が見られなくても、ボクとしてはさほどがっかりはしませんでした。


シルクの店

 バスに戻ったものの、ズボンは膝までずぶ濡れ、上着もかなり濡れてしまっていました。

 寒いので暖房を入れて欲しいと言いましたが、バスには暖房は付いていないのだとか。他の方もずいぶん濡れていて、このままでは風邪をひいてしまうので、シルクのお店に寄って、あたたかい飲み物をいただくことにしました。女性たちがお待ちかねのショッピングです。
 ベナレスはシルクでも有名な土地です。シルクの店も多いようですが、当然、現地旅行社とコネのある店へ連れて行かれたのでしょう。

行く店すべてがお買い物を
する80余歳のおばあちゃん

 店に着くなり、やはり女性たちは一斉にお買い物。ボクもお土産を買おうと物色。スカーフ、ストール、ショール、品物がいいのか悪いのか、まったくわかりませんが、値段交渉を重ねてGET!

 買い物に燃えて、少し寒さを忘れました。


サルナート

 再びバスに乗って、すぐにサルナートに着きました。「鹿野苑」と訳されていますが、釈尊当時、ここには鹿がたくさんいて、修行に適した木々が茂っていたため、各地から修行者たちが集まっていたそうです。釈尊の前生譚である『ジャータカ』の中にも、鹿はよく出てくることなどからも、身近な動物であったことが伺えます。

 まずは、「迎仏塔」へ。

 釈尊はスジャータの乳粥の供養を受けて断食などの苦行をお捨てになりました。それを見て、一緒に苦行をしていた5人の比丘たちは釈尊が堕落したと言ってその場を去り、修行の場所をサルナートに移しました。
 ブダガヤで悟りを開かれた釈尊は、まず最初にその教えを説く相手として選ばれたのが、その5人の比丘でした。彼らが釈尊を迎えた場所、それがこの迎仏塔のあったところです。


上に八角形の建物が建つ迎仏塔
 ただ、今あるこの塔はムガル帝国3代皇帝アクバルが1589年に建てたもので、仏教とは関係がありません。640年頃、玄奘がこの地を訪れた時には煉瓦造りの塔と、この地で5人の比丘が釈尊を迎えたという石碑が建っていたそうです。今の遺跡の基礎がその塔の跡で、中からは弥勒菩薩と観世音菩薩像が見つかったそうです。おそらく、もともとは釈迦如来像もあったのでしょう。歴史は残酷です。

 せっかく、シルクの店で服も乾き、暖を取ったばかりなので、ボクはバスの中からこの塔を見学しました。降りて近くで見ても「煉瓦の山」だと思ったからです。


雨の中ダメーク塔をめざす
 バスに乗ってすぐに着いたのが「ダメーク塔」。高さ43メートル、周囲36メートルもある大きなものですが、実際のところ、何の目的で作られたかはよくわかっていないようです。使われている煉瓦は今から2300年ほど前のもの、装飾などは修復を繰り返されていますが、1600年ほど前のものです。

 ここは降りて参拝しなければいけません。降りしきる雨の中、またずぶ濡れになるのを覚悟の上、ダメーク塔の脇でお勤めをしました。

ダメーク塔と奉献塔

 続いて、その横に広がるムーラガンダクティー僧院跡の遺跡と、その中に建つ、諸国の王や大臣が寄進したという奉献塔を見学。これらの遺跡は紀元前300年代から1500年間にわたって築かれたものです。「古い」という時の‘ケタ’が違います。煉瓦の遺跡だからこそ残ったのです。

 しかし、ここもやはり800年ほど前にイスラム教徒によってことごとく破壊されました。それさえなければ、もっと素晴らしいものがたくさん残っていたでしょう。

 アショカ王の石柱や「卍」の原型といわれる煉瓦造りの構築物などを見学。サルナートのアショカピラーの一番上には、インドの国章のデザインの原型となった、四方を向いた獅子、その下に法輪、その両側に鹿野苑を示す鹿の彫刻が施されていました。いま、それは博物館で見ることができます。


釈尊の伝道の道筋
 釈尊の説法を聞いた5人の比丘は、釈尊の帰依して弟子となります。ここに仏教教団が成立したわけです。さらに、ベナレスの長者の息子や友人などが弟子に加わり、約60人の弟子を連れて、釈尊は再びブダガヤに向かわれます。45年にわたる伝道の旅の始まりです。

 実に感動的な場所ではあるのですが、またずぶ濡れ。公園となっているサルナートのゲートの前で、‘博物館組’と‘買い物組’とに別れました。博物館には一度に大勢が入れないのです。ここであっけなく、ボクたちよりも2日間長い旅程のグループともお別れする結果となりました。


インドの国章のデザインの原型
となったアショカピラーの上部

 ボクたちは‘お買い物組’。ゲート前からバスに乗り、数十メートル先にある「くみ子の店」下手な字で書かれた、インド人とその日本人妻が経営する土産物屋に入りました。 数珠など並べてあるものはすべて高い! でも、ボクたちのグループの仏跡巡りはこのサルナートで終わり。仏教関係の土産ももう手に入らないかも知れないので、自分用に香合を求めました。

 店の前からまたバスに乗り、サルナートのゲートのすぐ向かいまで戻って、博物館に入りました。サンガ師の説明を受けながら、アショカピラーの頭頂部や初転法輪像など、よく図録などで見かける超有名な彫刻などを見学。
 博物館の左半分は仏教関係の展示、右側はサルナートとは関係のないヒンズーの遺物の展示。必ずヒンズーとセットにするという、これがインドの宗教の現実です。


事件?

 ベナレスの空港から飛行機に乗って、今夜はデリー泊まり。空港に着いたところでトランクを開けて、買った土産物を仕舞ったり、乾いた服と着替えたりしました。

 友人のアナウンサーのトランクは浸水。トランクはトラックで別送されたのですが、雨ざらしで運搬したのでしょうか? 半べそをかいていました。

 空港の売店で、1000円の真っ赤なパンジャビスーツを求めました。いつ着ようかなぁ・・・。


見かけは悪いけれど案外イケル?
 2階の小汚いレストランで、バイキングの昼食。残す旅程もわずかとなってきたので、例の大僧正はかばんが重くなるほど入っていた豆などの煮物を放出。いろいろな豆の煮物のパックが、テーブルを何往復もして、ようやく空になりました。

 その時、現地ガイドの携帯に、昨夜泊まったホテルから、我々の一行の男性の部屋で忘れ物が見つかったという連絡が入ったようでした。ガイドが確かめて初めて、男性は旅行用の貴重品入れ兼用の下着型チョッキを着ていないことに気付きました。夕べ、枕の下に入れて、今朝それを着ずに出かけたのだそうです。そこには、クレジットカードやパスポートが入っていたのだとか。これは大変なことになりました。

 ガイドさんがホテルと盛んに電話をしています。クレジットカードはあるけれど、パスポートがない様子。日本のパスポートは高値で売買されるので、部屋を掃除するときに抜かれたのではないか、クレジットカードもスキミングされているかも知れないなどと、大騒ぎになりました。

 結局、枕の下にあるはずと思っていたものがベッドの下に落ちていて、パス

イマイチ
ポートも見つかり、何もなくなったものはないことがわかりました。一同拍手! すぐに空港へ届けてもらう手はずを整えて、最良の形で解決しました。よかったぁー。

 フライトは少し遅れたうえ、機内食はあまり美味しくありませんでした。


デリーへ


RADISONホテルのロビー
 デリーのホテルに着いたのは8時過ぎでしたでしょうか。さすがにデリー。ホテルは今回の旅行でも最高ランクでした。

 ベナレスへ向かうバスの車中に申し込んでおいた紅茶やカレー粉を届けに来た業者が、ホテルのロビーで待ちかまえていました。代金を払って品物を受け取りましたが、カレー粉を大量に買ったので、小さな段ボール一つ荷物が増えてしまいました。

 荷物を部屋に入れてすぐに夕食。やはり今回の旅行の中でも、もっとも豪華で種類も豊富なバイキングでした。
 どれをいただこうかと目移りしながら皿に取り、食べ始めましたが、気がつくと友人のアナウンサーの姿が見えません。他の人に聞くと、体調が悪くて部屋に戻ったとのこと。こんな豪華な食事なのに、かわいそう・・・。

 部屋はツインのシングル・ユース。ビジネス仕様で、デスクのある小部屋があり、LANのジャックもありました。さっそく、ネットへの接続を試みましたが繋がらず、ホテルのビジネスセンターに申し込まなければいけないのかと思いましたが、既にサービス時間外。結局、役には立ちませんでした。

 水回りがイマイチなのは、このホテルも同じ。歯ブラシ、室内用のスリッパなどもありません。見かけの豪華さに伴っていませんでした。


インドまで来てアイロン三昧
 助かったのは、アイロンとアイロン台があったことでした。
 ベナレス〜サルナートで濡れた服や靴は、ぜんぜん乾ききっていませんでした。ドライヤーの先を靴の中に突っ込んで乾かし、次は靴下をかぶせて風で膨らませながら乾かし、同時にズボンや服にアイロンがけ。

 また、明日の夜には出国するので、荷造りが出来るのは今夜が最後。トランクの荷物をいったん全部出して、割れ物を衣類でくるんだり、土産物を整理したりするのに必死。

 インド最後のホテルの夜は、アイロンがけと荷造り三昧で、ゆっくり楽しむ余裕などまったくありませんでした。
2007年2月11日(日)  No.1322

霊鷲山〜ブダガヤへ (暫定版)
霊鷲山へ

 5時、モーニングコール。5時半、霊鷲山に向けて出発。いよいよ仏跡参拝です。

 霊鷲山は、釈尊が『法華経』をお説きになったとされているところで、法華経信者にとっては、この上もない聖地の一つです。仏跡参拝の最初に、霊鷲山の山頂からご来光を仰ごうというのです。

 バスを降りて、その昔、マガダ国のビンバサラ王が釈尊の説法を聞くために通ったといわれる「ビンバサラ王の道」を登って、霊鷲山第3峰の山頂を目指します。

 25年前、ここに来た時は、道もこんなに立派ではなかったように思います。駕籠屋さんもいるので、足の悪いような人でも心配ありません。

 電灯に照らされた薄暗い道を登り始めてすぐ、長らくサンガの活動を支えてくださっている在俗の翁がふらつきながらボクの手を握って来られました。登るのに疲れるにはまだ歩き始めたばかり。よろけて近づいてこられた時に、プーンとお酒の匂いがしました。きっと、夕べ遅くまで呑んでおられたのでしょう。

 しばらく手を繋いで登っていましたが、運動をしたのでお酒が抜けてきたのか、そのうちさっさと自分で上がっていかれました。


鷲の頭部に見えますでしょう?
 頂上までは約20分。登り切るすぐ手前に、鷲に似た岩塊があります。「霊鷲山」の名はこれに由来します。7世紀にここを訪れた玄奘は、この山を「鷲の峰」と呼んでいます。
 「鷲になんか見えない」と言う人もいましたが、ボクにはしっかり見えました。


延暦寺執行導師による法楽
 頂上の低い煉瓦に囲まれた浄域で、延暦寺の執行の御導師によりお勤め。終わって、執行より、法華経ゆかりの地なので、『自我偈』を唱えるべきだが、一般の方も唱えられるように『般若心経』を唱えたという説明がありました。

 釈尊が実際にここで『法華経』を説かれたわけではありませんが、法華経にはそう描かれている場面がたくさんあります。
 たとえば、『如来寿量品』には、「私が仏になってから経過した期間は、百千万億という長い時間です。その間に教えを説いて数限りない人々を教化し、仏の道に導いてきました。それから長い時間が経過しました。人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。人々は私の死を見て、私の遺骨を供養し、私をなつかしく思い、慕い敬う心を起こしました。人々が信仰心を起こし、心が素直になり、仏に会いたいと願い、そのために命も惜しまないようになったその時、私は弟子たちと霊鷲山に姿を現します。そして人々に語ります」などと記されています。

 中国・天台宗の慧思禅師は、伝教大師を一目見て、「昔、お釈迦様が霊鷲山で『法華経』をお説きになられたときに同じ席で聞いたもの同士(霊山同聴の宿縁)ではないか」と言われ、その不思議な再会を喜ばれたといわれています。

 それほど、この霊鷲山は仏教徒にとっては大切な場所。とりわけ法華経を信奉する者ならば、この場所に立って法悦を覚えないわけがないでしょう。私も、やはりその一人でした。

 空は薄明るくなってきましたが、厚い雲に覆われて、ご来光は仰げそうにありません。それにしても、どうして霊鷲山でご来光なんでしょう? ヒンズー教徒も朝の太陽を拝むそうですが、日本人もご来光好きです。


ビンバサラ王の道と
広がる密林
 眼下には、釈尊の時代にはマガダ国の首都として栄えていたラジギール(王舎城)が、今はすっかり密林に覆われ影を潜めていました。王舎城は5つの山に囲まれた天然の要塞。霊鷲山もその五山の一、チャッタ丘の頂の一つです。

 繰り返しになりますが、釈尊は悟りを開かれた後の45年間の雨安居のうちの8回をラジギール(王舎城)で、23回をサヘート(舎衛城)で過ごされています。ラジギールは説法するに好都合だっただけではなく、‘お気に入り’の街でもあったのでしょう。

 今は密林となってしまっていますが、往事には様々な建物や畑、マンゴ林などがあったかも知れません。眼下を眺めていると、釈尊がアーナンダなどと伴って静かに歩いておられる様子がイメージされてきました。


ご来光?
 しばらくすると、日本の宗教紙の主催するツアーの人たちが上がってきたので、私たちは場所を譲り、下山しました。

 降りる途中、雲の合間に赤い太陽が見えました。 


ビンバサラ王の牢獄跡〜竹林精舎


耆婆の邸宅跡
 再びバスに乗りすぐに着いたのは、名医耆婆の邸宅跡といわれる煉瓦の跡。

 釈迦の弟子である耆婆は、インド第一の医師と称賛され、痔瘻の手術、開頭手術、腸閉塞の手術など、いくつかの症例を文献として残しているそうです。外科が専門だったのでしょうか?


牢獄跡の案内板と
インド人ガイドさん
 バスの車中から眺めただけで、次へ。またすぐに着いたのは、頻婆沙羅びんばさら王が幽閉された牢獄跡。

 話が長くなりますが、これを書かないとなぜわざわざ牢獄跡などを見に行ったか、おわかりいただけないでしょう。こういう物語があるのです。

 昔、釈尊の時代に、頻婆沙羅びんばさらという王がいて、韋提希いだいけ夫人という妃がいました。王夫妻は物質的には何不自由のない生活を送っていましたがが、ただ一つ、子供がいないのが悩み。王子が欲しいと強く願いました。
 予言者に見てもらうと、ある仙人の命が尽き次第、その生まれ変わりとして夫人は子供を授かるだろうと言われます。仙人が天寿を全うするまでは待っていられないと、王はその仙人を殺してしまいました。
 仙人は、「自分が生まれ変わる王子は、父を殺す大罪人になるだろう」という呪いの言葉を残して死にました。
 やがて夫人は身籠もりましたが、呪いが恐ろしく、赤ん坊を殺してしまいたいと思い、高い塔の上から子供を産み落としましたが、赤ん坊は小指を折っただけで助かりました。
 その子 阿闍世あじゃせ王子は、次第に異常な凶暴性をあらわにしてゆき、わが子の暴虐にこの世の地獄へ転落していった王夫妻は、釈尊のご説法に耳を傾けるようになっていきました。
 やがて成人した阿闍世あじゃせ王子は、釈尊の従弟で、釈尊を妬んでいた提婆達多だいばだったに出生の秘密を聞かされ、父母に怨みを抱いて父を幽閉し、食べ物を与えないで殺して、自分が王位に就こうとしました。
 夫人は夫の命を助けようと、小麦粉を蜜で溶いたものなどを体に塗って面会に行きましたが、このことを知った阿闍世王子は、母までも捕らえて殺そうとしました。
 この韋提希夫人の悲痛な心の叫びが霊鷲山で『法華経』の説法をされていた釈尊に届きます。釈尊は神通力で救済に向かわれて、説法をされました。
 結局、王は亡くなってしまいますが、やがて阿闍世王子も釈尊と出会って真実の仏法を聞くようになり、強力な支援者となっっていったと。

 この物語は「王舎城の悲劇」として『観無量寿経』に描かれています。また当麻曼荼羅はこの物語を絵解きしています。

 阿闍世のことを「未生怨」と呼ぶことがあります。生まれる前からの怨念を持つ子供という意味です。また、「阿闍世コンプレックス」という言葉が心理学にあります。「自己の生命の本源たる母が自己を裏切ったことによる怒りから、母に対し殺意を抱く無意識の感情など」という意味です。

牢獄跡の煉瓦と霊鷲山

 ここが、いまの物語に出てきた、頻婆沙羅王が幽閉された牢獄跡で、釈尊が霊鷲山から神通力でやってこられて説法をされた。そう思うと、煉瓦をただ並べただけではない、「ああ、ここがその場所なのか!」と思えてきます。

 今回の旅行でこの霊鷲山と牢獄跡は、前にも訪れたことはありましたが、その物語性から一番来たかった場所の一つでした。



竹林精舎の受付
 竹林精舎は、頻婆沙羅王が釈尊の教団に寄付した、最初の「寺院」です。
 精舎とはもとは雨期に居住する出家者用の家屋で、木造の掘っ立て小屋だったと言われます。


竹林精舎の竹
 今は公園となっていて、入り口に入場料を徴収するけばけばしい建物がありました。外国人50ルピー、インド人3ルピー、子供1ルピー。1ルピーは約3円です。

 インドの竹林は日本のように1本1本生えるのではなく、ブッシュになって生えるようです。日本で考える「竹林」というイメージとは少し違っています。



ボトルブラシフラワーの花
 ホテルに戻って朝食。お粥、卵焼き、高野豆腐、海苔、漬け物など、まるで宿坊の朝ご飯のようでした。

 ホテルの前には、真っ赤なボトルブラシ・フラワーが咲いていました。

物乞いも出来ずに遠目
に我々を見る子供たち
ゲートの外には、物乞いをしようと集まってきた子供たちが、守衛に出入りを制限され、諦めて並んで座っていました。

 「あの子たちはご飯を食べたのだろうか・・・」 朝のご飯を粗食だと思った自分を恥じました。


ブダガヤへ

 ラジギールのホテルから次なる目的地ブダガヤまでは約1時間半。

整形して干してある煉瓦

 土を固めて整形したものを天日に干して煉瓦を作っている光景は、25年前と少しも変わっていませんでした。牛の糞を燃料にするために固めて薄くのばし、家の外壁に張って乾かしているのは、少し減ったような気がします。

 ブダガヤの大塔に着く前、パルクー河畔でバスを止めてトイレタイム。男性は河原、女性は道路の反対側の畑。いずれも青天井の‘トイレ’です。


向こうの山が前正覚山
 川の向こうには、釈尊が悟りを開かれる前に修行をされたという「前正覚山」が見えました。その右手前には、村の娘スジャータが修行で疲れた釈尊に乳粥の供養をしたという村があるはずです。

 25年前には歩きにくい尼蓮禅河の川砂に足を取られながら、この村まで歩きました。とても緑が豊かで、家の壁にはたくさんの牛の糞が張ってありました。
 約20軒ほどの村のはずれに「スジャータの丘」と呼ばれる10メートルあまり盛り上がった丘がありました。これはスジャータの功徳を称えてアショカ王が作った煉瓦の塔の遺跡だそうです。その上に登り、村人が脱穀をする様子をしばらく眺めていました。

 河原で用を足しながら前正覚山を眺め、そんなことを思い出しました。


大塔の回りに並ぶ土産物屋
 再びバスに乗って、ほどなくブダガヤに着きました。高さ52メートルの大塔がそびえ立っていました。
 スジャータの乳粥の供養を受けられた釈尊は、ここで瞑想に入られ、お悟りを開かれたのです。仏教の最も大切な聖地といってもいいでしょう。

 降りるとすぐに物売りに取り囲まれました。久々の光景です。手には、菩提樹の葉、絵はがき、ショールなどを持っていて、「1枚1000円」などと、日本語で、‘円’で商売をしようとします。
 この‘値切り合戦’を旅の醍醐味の一つとして心待ちにしていたのはボク。とりあえず、菩提樹の葉っぱが100枚ほど欲しかったので、その交渉を始めました。向こうの言い値は上がったり下がったり。きっと日本語があまりわかっていないのでしょう。

 大塔のゲートで物売りといったん別れ、靴を預けて裸足で大塔に向かいました。


大塔の正面
 大塔は紀元前258年にアショカ王によって建立されました。その後、修復などを繰り返し、イスラム教徒に破壊されるのを恐れて仏教徒たちが埋めるということもありました。1876年にビルマ王によって発掘、インド政府に引き継がれました。
 現在、この管理はヒンズー教徒と仏教徒の共同管理ということになっていますが、実質的にはヒンズー教徒が握っています。


大塔裏の菩提樹。
樹下にあるのが金剛宝座
 大塔の中の黄金の釈迦牟尼仏に参拝し、右回りで大塔の真裏へ行きました。真裏には「金剛宝座」と呼ばれる石で作られた座面があり、その横に菩提樹が大きく枝を広げていました。
 先ずは法要。サンガ師の説明。この菩提樹は3代目? 釈尊が悟られた当時の菩提樹の子供がスリランカに渡り、そこから逆輸入された木が枯れた‘御本家’の後に植えられ、その2代目が今の菩提樹だと言われたような・・・。ということは4代目?

柵の向こうにあるのが金剛宝座

 金剛宝座は、以前訪れた時には全容が見えましたが、今は柵で囲まれていて、ほとんど見えません。オウム真理教の教祖が自分は釈尊の生まれ変わりだと言って宝座に座ったり

釈尊の足裏を刻んだ仏足石
したため、今のような形にされてしまったのだそうです。
 宝座の横には仏足跡がガラスのケースに入って祀ってありました。

 ちょうどそれを拝んでいた時、ハラハラと1枚の葉っぱが落ちてきました。紛れもない‘本物’の菩提樹の葉。現地の少年がこの葉が落ちるのを待機していましたが、ボクの手のほうがワンタッチ早く葉に届きました。悪いけれど、譲ってあげるわけにはいきません。大事に大事に持って帰りました。

無憂樹の木。花はわかりづらい

 大塔を一回りして、左側にある蓮池に向かいました。途中にオレンジ色の無憂樹の花が、わずかに咲いていました。また、アショカ王の石柱が立っていました。

アショカピラーと大塔

 蓮池の真ん中には、蓮弁の形ををした光背の釈尊像が祀られていましたが、蓮弁がコブラのようで、どうも好きになれませんでした。

蓮池と釈尊像
 この池に通じる門を「ヒンズー門」といい、池までの階段はガート。つまり、この池はヒンズー教徒が沐浴する場所になっているのです。仏教はすっかりヒンズー経の一部。それに抵抗できる力はないことを、大塔の管理問題でも、インドの至るところでも見せつけられます。

 大塔を出てバスに乗るまでの間も、土産物売りたちは着いてきました。ボクは菩提樹の葉を早く買ってしまいたかったので、少々譲歩して、10枚入でビーニール袋に入れられたものを10袋、50ドルで買い求めました。
 その時はまぁまぁの買い物かなぁと思っていましたが、帰国して開けてみると、表と裏だけが綺麗な葉で、間のものは破れていたり、変色したりしていました。それでも、「敵もさるものやなぁ」と、買い物を楽しませてもらったという楽しさが残っています。

 ホテルまでのわずかな距離をバスで移動。ホテルに着くと同時に、彼らも走って着きました。友人のアナウンサーが交渉していたショールがまだ妥結していないのです。最初は1枚千円でしたが、この時にはすでに3枚千円まで値を下げてきていました。「絶対に買いたいという顔をしないように」というアドバイスを友人にして、売り子たちに「5枚1000円だったら買う」と言い残して昼食をとりました。

 昼食を終えてホテルの外に出ると、当然彼らは待っていました。まだ、5枚1000円ではOKと言わないので、このまま交渉決裂かなぁと思いつつバスの発車時間。バスに乗

ガヤ駅に向かう運転席から
り込み座席に着くと、彼らはもう後がないと思ったのでしょう、こちらの言い値で売ることに合意。彼女は発車間近の窓越しにお金と品物を交換して、ショール5枚をGET! 他のご婦人たちにも回して素材を確認してもらうと、おそらくシルク。「これは絶対にお得よ! すごい買い物をしたわよねぇ」と言われ、以後、値切る時はボクにお声がかかるようになっていきました。


寝台車で爆睡


寝台車の中
 ガヤ駅から3時間ほどの列車の旅。列車は寝台車で、日本でいえば「A寝台」。進行方向に垂直に並んでいる寝台と通路の反対側には並行に並んでいるやや幅の狭い寝台が、それぞれ2段ありました。広軌の列車ならではの、車内の広さです。


‘AC TWO Tier’エアコン付2段寝台
 ボクの席は垂直方向の寝台の上段。修学旅行のようで嬉しかったのですが、寝ころんでいたら、2時間ほどすっかり爆睡してしまいました。実に快適な寝台車でした。
 後から聞いた話では、起きていた人たちは車内販売のチャイなどを楽しまれたとか。惜しいことをしました。
 残り1時間は起きて、列車が止まったらホームに降りてみたりしましたが、何の予告もなく走り出すので、気が気ではありませんでした。


寝る牛
 予定よりも早くムーガルサライ駅に到着。早く着きすぎるなどということがあるのですねぇ。アクシデントを考慮して、ゆっくり目のダイヤが組んであるのでしょうか? ホームを繋ぐ高架になった通路では、大きな黒い牛が寝ていましたが、現地の人は誰も驚く様子はありませんでした。


ベナレスへ

 駅からベナレスまではバス。途中、「アジアハイウエイ」を走りました。アジアハイウエイは、「アジアの32カ国を横断する全長14万キロにわたる高速道路。主に既存の道路網を活用し、現代のシルクロードを目指して計画されているもの」だそうです。

 ハイウエイを走っていると、ガイドさんが何やら説明していました。ちょうど横を、ご遺体を乗せた車が通ったとか。ボクは惚けていたので見ませんでしたが、見た人の話によると、乗用車の屋根にキャリアのようものが付いていて、そこに白い布でグルグル巻きにされた、明らかにご遺体とわかるものが乗っていたそうです。ガイドさんの話では、男性は白い布、女性は赤い布で巻かれるとのこと。ベナレスへ向かっているのです。

 いうまでもなく、ベナレスはヒンズー教の一大聖地、シヴァ神の政と聖都です。ヒンズーの信仰によれば、ガンジスの聖なる水で沐浴すればすべての罪は浄められ、遺灰をガンジスに流せば輪廻の輪から抜け出せると信じられています。

 ハイウエイから降りて入った一般道はかなりの混雑。道端には例によって牛がゴロゴロ。この「野良牛」たちの多くは、お供えとして連れてこられたものが野生化したものだそうです。ヒンズーでは牛は聖なる動物ですから、粗末には扱えませんが、他の国なら食べられているところでしょう。


スイートROOM!


1部屋目。手前はソファー
 

寝室。手前にバストイレ
とパウダールーム
 やっとのことでホテルに到着。部屋割りでは、ボクは1人のよう。ラッキー! 一人部屋をオプションで申し込んだわけではないのですが、一昨日も今日も一人。部屋に入ってみてビックリ! なんと2部屋続きのスウィートルーム。他にパウダールームまであります。テレビも2台、ソファーやテーブルセットなどあって、無料サービスのワインも1本置いてありました。

 夕食まで少し時間があったので、まずはシャワー。バスタブは四つ足付きで、床に置いてある感じ。「カーテンを閉めても床が濡れそうだなぁ」と思っていたら、案の定、床はボトボト。シャワーもそこそこに、バスタオルを使って床掃除。また汗をかいてしまいそうでした。


バイキング風景
 夕食の時、ツアコンの女性に、「部屋割り、間違ってません。ボクの部屋はどうやらスイートのようですよ。そこに一人で泊まっていいのですか?」と聞いたら、彼女は調べてきて、ホテル側が部屋割りしたので問題はないとのこと。かくしてボクは、一夜だけ豪華な部屋の主となりました。

 そんな部屋に泊まったことがないので、法要の折のスタッフに自慢していたら、「それじゃぁー、今夜はそこで宴会にしましょう!」ということになってしまいました。今夜までは他のコースの人とも一緒ですが、明日の途中で別々になります。今夜が他のスタッフとの最後の夜。宴会大賛成で、「じゃぁ、また後で!」と部屋に戻りました。

 ただ、立派なホテルの割に、停電が頻発。自家発電設備もないようでした。最初はそんなことは予期もせず、デジカメのSDカードのデータをパソコンに取り込んでいる最中に停電。10枚分ほどのデータが失われてしまいました。

 窓の外では賑やかな音楽。「雨なのに何をしているのだろう」と外を見ても、大きな木があって、音のするほうが見えません。どうやら花火も上がっているようです。
 後から聞いたのでは、ちょうど結婚披露宴が行われていたようです。インドの結婚披露宴は多くの人を招いて、盛大に行われるようです。

 程なくして、スタッフ仲間が集まってきました。総勢10名ほど。VIPの部屋にはこの部屋と同じようにワインがあるはずだから、お付きの僧にワインを持ってきてもらおうと連絡。ワインをGET! VIPの部屋よりも、ボクの部屋のほうがずっと豪華とのこと。ますますラッキー!


深夜の落語
 法要の時の裏話や駄洒落の応酬、「桂」か「笑福亭」の名前を持っておられるらしいスタッフの一人の落語など、ワイワイガヤガヤ、しばし楽しい時間を過ごしました。

 皆さんが帰って行かれた後、もう一度シャワー。注意して入ったのに、またもや床はびしょ濡れ。あるったけのバスタオルで水を吸い取らせました。「夜中のスイートルームで、なんでこんな床掃除をしているんだろう」と、少々情けなくもありました。

 仏跡参拝に仲間との楽しい時間、中身の濃い、長い1日でした。
2007年2月10日(土)  No.1321

インドの旅〜仏跡参拝への移動日(暫定版)
仏跡参拝ツアーへ

 落慶法要も無事終わり、今日からは仏跡参拝の旅へ出発。

 240名ほどの大参拝団も今日からはまた別行動。直接、こちらが企画したツアーが3コース。そのうち、最短コースは今夜ニューデリーからバンコクを経て帰国。ボクの参加する8日間コースと最長の10日間コースは途中までは同一コース。他に、群馬、神奈川、千葉など、それぞれ独自に仕立てたコースもありました。


 5時15分、モーニングコール。勘弁してよぉー、もう少し寝させてよぉー。朝食をとって、6時45分出発。空港までは5分足らず。


ナグプール空港
 今日は移動日。ほとんどのコースがナグプール空港からニューデリーへ行くため、また合流。

 ボクの参加した8日間コースは17名、日本人添乗員1名、インド人ガイド1名。他の方々は今まで同一行動をされていましたが、ボクは今日から初めて同一行動。添乗員の名前は、うちの愛猫と同じ「さくらちゃん」。「猫などのペットと同じ名前だとよく言われるのです」とおっしゃっていました。


機内食は色の薄いオムレツ
 8時フライト、約1時過半でニュデリー。
 今夜半帰国の途に就く最短コースとはここでお別れ。8日間コースと10日間コースは国内線を乗り継いでパトナへ。
 ニュデリーの国内線空港は、航空会社によって分かれているのか、トランクを台車に乗せていったん空港を出て、5分ほど歩いて隣の建物へ。フライトまで2時間ほど空いていたので、レストランへ行きました。


ヘルシーなバイキング
 バイキング形式しかないにもかかわらず、朝のせいか、取るものはぜんぜん揃っていません。さっき機内食を食べたばかりですが、次のフライトは機内食は出ないと聞いていたので、とりあえずマンゴジュースとサンドウィッチを食べました。サンドのパンはパサパサでした。

 ニュデリーの国内線のセキュリティーチェックは厳重。ペットボトルは大丈夫だと聞いていましたが没収の上、足で踏みつぶされてしまいました。インドのペットボトルは素材が薄いと聞いていたので、わざわざ日本から「伊衛門」の空ボトルを持参し、今朝詰め替えたばかりなのに・・・。
 それを見ていた添乗員の機転で、ボクの次のメンバーのペットボトルは中身を捨てると係員に説明し、没収を免れました。添乗員はトイレに行って中身を捨ててくるふりをして見せましたが、係員は何もチェックをしていませんでした。

 飛行機の座席はアルファベット順に割り振られているらしく、噂に聞いた“大僧正”の隣はボクと同姓の女性。「これはやばい・・・」とそれとなく席を入れ替わって、ボクが臨席へ座りました。
 “大僧正”に自己紹介をしたら、ボクの父にはずいぶん世話になったのだと聞かせてくださいました。想像していたよりも気さくで、とてもいい方でした。

 待てども待てども離陸せず。窓際に座っていたという人の話では、離陸直前にタイヤがパンクしていたのに気付いて、交換していたのだとのこと。コワ〜イ。
  12時15分フライト予定が14時30分頃、ようやく離陸。「今日の目的地に早く着くことができたら、予定外のところも回れる」と旅行社が説明していましたが、この時点で早くもその可能性は消えました。


お馴染みのチキンカレー
 “大僧正”は搭乗してまず水割り。機内食の時も水割り。お腹の調子が悪くなるのを警戒して、移動中のビールなどは断つことに決めたボクには、うらやましい健啖ぶり。機内食のチキンカレーを食べてしばらくしたら、熟睡された・・・と思いきや、いきなりボクの肩に肘を乗せてこられたり、両手を伸ばして顔に手が当たったり。「おー、これが噂に聞いていた“大僧正パンチ”だなぁ!」と、何だか愉快! そのまま、また眠りに就かれました。


いよいよバスツアー

 パトナ着は何時だったかな? 予定では13:45分着ですが、きっと2時間ぐらい遅れたでしょう。

 バスに乗り換えて、一路、ラジギールを目指します。ラジギールは、釈尊が生きておられた当時のマガダ国の首都で、お悟りを開かれた後の45年間の雨期のうちの8回をここで過ごしておられます。

 ラジギールまでの所要時間は、旅程表では4時間15分。さて、どうなることやら。

 パトナの郊外で、ヴァイシャリへ行く道と分かれました。

 ヴァイシャリ。「インドの何処へ一番行きたい?」と聞かれれば、ボクは迷わず「ヴァイシャリ」と答えるでしょう。

 釈尊は亡くなる数ヶ月前、「鷲の峰」での説法を終えて、故郷を目指して最後の旅にに出かけられます。鷲の峰からガンジス河を越えて、約140キロ離れたヴァイシャリという街まで、「古ぼけた車が革ひもの助けによってやっと動いていくように」という80才の老体にむち打って、徒歩で旅行されました。

 ヴァイシャリに着かれた頃には雨期が迫っていたので、弟子のアーナンダと定住生活に入られますが、その時発病され、死ぬほどの激痛が起こったいわれています。

 死期が近いことを悟られた釈尊は、「アーナンダよ、ヴァイシャリは美しい。私は為すべきことを成した。もし望むなら寿命の限りこの世に留まるだろう」とおっしゃり、雨期が終わる頃、「アーナンダよ、これが私がヴァイシャリを見る最後となるだろう」と言って、次なる地へ旅立たれます。

 「ヴァイシャリは美しい」。臨終間近の釈尊が言われた言葉が、ずっと心に残っていました。

 釈尊存命中のヴァイシャリは、バッジ国の首都として、商業的にも栄えていたといいます。この街では、釈尊の説法が猿にまで及んだと、彫刻に残っています。釈尊がこよなく愛された街の一つ、それがヴァイシャリ。ボクにはそういう印象がありました。

 今回訪れる仏跡は、いずれも以前行ったことのあるところばかり。それよりも心惹かれるのがヴァイシャリだったのです。

 でも、バスはヴァイシャリとは反対方向のラジギールヘ向かいます。ラジギールはヴァイシャリよりも知られている仏跡です。


 途中までは順調に進んでいましたが、急に渋滞にはまりこんでしまい、二進も三進もいかなくなりました。どうやら進行方向で事故があった様子。

 対向2車線の道路なのでどうにも動けず、待つしかないはず・・・なのに、ボクたちの乗ったバスはいきなり右側の反対車線のさらに右側に出ました(インドは日本と同じ左側通行)。反対車線の右側には舗装をしていない部分が少しあって、さらにその右は1メートルほど下がった畑。その際までは30センチほどしか残っていません。

 バスの中の女性の誰かが、「わぁー、路肩から落ちる!」と叫んだら、インド人のガイドさんは落ち着き払って、「インドには‘路肩’という言葉はありません」と応えました。「走れるところはどこでも走る」、それがインド流?


突っ込んでくるジープ
 日本ならそんな走り方をする車はありません。せいぜい、自分の走っている車線の左側の路肩を走る程度。
 インドでは、逆走をしても、反対側の路肩走行をしても、別に誰かが怒るわけでもなく、かえってみんなニコニコしている感じです。

 バスの横っ腹に対向車が向かってくるわ、小さな車がバスの前にかぶせてくるわで、日本人から見ると無秩序な状態も、インド人にはちゃんと‘仁義’らしきものがあるのでしょう。

新婚さんの乗った車

 以前、訪印した時には、「トラック野郎」のようなデコレーションをいっぱい付けたトラックがたくさん行き交っていましたが、今回はあまり見かけません。多くのデコレーションを付けたほうが馬力が出ると考えられていたはずですが、それには何の根拠もないということが知れ渡ったのでしょうか?

 結婚式を終えたばかりのカップルを乗せた車が新郎の家で行われる宴席に急いでいたり、天井に人をいっぱい乗せたバスやジープが道路のくぼみにゆさゆさ揺れていたりと、渋滞中も飽きることなく、車窓に釘付けになっていました。

 やっと渋滞を切り抜けた頃には、あたりはすっかり暗くなって来ていました。

 運転席にまつってあるヴィシュヌ神にも電気が点り、助手が線香を供えていました。ヒンズー教徒が運転手を勤めるバスの運転席には、シヴァ神やヴィシュヌ神がまつってあるのが普通のようです。
 インドのバスは、運転席が個室になっていてかなり広く、中で寝泊まりも出来ます。長距離を走ることが多いインドならではでしょうか。



夜、ドライブイン?たむろする男たち
 途中、ドライブイン?に寄って、トイレ休憩。

 日本なら家で食事をしている時間なのに、インドの男性はどこへいっても、夜、たくさん集まって群れています。井戸端会議? おしゃべりが好きなのでしょうか?

 例によって、男性の便器はこれでもかというほど高い位置にありました。女性のトイレは平らなところに煉瓦のようなものが2つ置いてあり、その上に足をのせて用を足し、2〜3人が使うと、係の人がバケツの水をサッと流して洗う仕組みだったそうです。


煙草スタンドと売り子の少年
 1畳ほどの煙草スタンドでは、噛み煙草がたくさん吊してありました。噛み煙草は、葉っぱに木の実と香辛料を入れて噛むたばこ。噛んだ後に、赤いつばを吐くので、感じはよくありません。一つ2円ぐらい。歯茎に挟んで味わうタイプと噛んでカスを吐き捨てるタイプがあるそうですが、この連続する小さな袋は前者でしょうか? 不味いと聞いていたので、試す気にはなりませんでした。


 道路の振動も心地よいというには激しすぎ、シートのリクライニングにも不具合が多かったものの、「乗り物に乗ったら寝る」「寝られる時には寝る」というのはこの旅行の鉄則。いつどこでアクシデントが起きて、寝られなくなるかわからないからです。バスが順調に走っている間は、とにかく寝倒しました。


久しぶりにゆったり

 予定よりも2時間半遅れの8時半、ラジギールの法華ホテルに到着。もともとは日本の法華クラブが建てたホテルだそうですが、今はインドの旅行社に経営が移っているようです。


部屋の前から見たホテル
正面に仏堂のドーム
 場所柄、このホテルに泊まる人の大半は、仏跡巡りをする日本人でしょう。エントランスからフロントに至るまでに仏堂があり、大きな釈迦牟尼仏がおまつりしてありました。外から見ると、その仏堂はスツーパを模した形をしていました。

 煉瓦造りの小ぎれいで開放的なホテルで、今回泊まったホテルの中では一番落ち着きそうでした。


皆さんが喜ばれた和食
 着いてすぐに夕食。日本食でした。メニューは、ご飯に味噌汁、茄子の田楽、野菜の天ぷら、ほうれん草らしきものを茹でて鰹節をかけたもの、鶏の煮物、福神漬でした。お米は、ジャポニカ米。後から聞いた話では、チベット産だそうです。

 カレーに辟易していた方にはほっと出来る、安心して食べられる食事で、多くの方には好評でしたが、ボクはイマイチ頼りない感じ。せっかくインドに来ているのですから、インドのものを食べたいと思うのです。もっと日程が自由なら、街のレストラン?や屋台ででも食べたいと思うほどです。それでお腹を壊しても本望? 結果として、ボクのお腹も小休止できました。

 部屋は今までのホテルよりはかなり見劣りはしました。同室になったのは兵庫の老僧。いろいろ話していると、神戸の震災の時の会議や慰霊法要で何回かお目にかかっていました。


大浴場。右が湯船
 さすがに以前は日本企業が経営していたホテルらしく大浴場があって、時間で男女を入れ替えて入ることができました。

 大浴場のドアを開けると、いきなり脱衣所。時間を間違えて入ってきた人がいたら丸見えになるでしょう。お湯はぬるめで、少し濁っていました。温泉なのか、汚れているのかわかりません。旅行に出てからはバスタブにさえ浸かっていませんが、手足を伸ばして入れる大浴場は実に有り難かったです。

 入っていたのは、ボクの他に僧侶もう一人だけ。自己紹介をしたら、以前、他の方と一緒にボクの自坊に来られたことのある方でした。同室の方といい、お風呂での出会いといい、世間は狭いものです。

 移動、移動の1日も終わり。同室の老僧と四方山話をして、そのうち眠りに就きました。
2007年2月9日(金)  No.1364

祝 落慶法要 (暫定版)

落慶法要の朝の太陽
いざ、最終準備

 「もう少し布団と仲良くしたい」と思いつつも、どうしても起きなければなりません。

 眠い目を擦りつつ僧坊の廊下に出ると、本堂の横から朝日が上がってきていました。

「あー、お天気だぁ。よかったなぁ」と思いましたが、この時期のインドは雨など降りません。晴れて当たり前。とはいうものの、やっぱり嬉しい。本堂の横から日が昇るのも、何かの象徴のような気がして、また嬉し。


現場監督をする犬
 とるものも取らず、先ずは気になっている準備の進捗状況を確認に本堂に行きました。職人さんたちは夜を徹して仕事をしてくれていたに違いありません。

 インド人は怠け者のような印象を持っている人も多いかと思いますが、「やる時はやる」という感じで、何度も書いたように「インド・マジック」とも呼ぶべき潜在力を持っている気がします。

回廊の献花

鮮やかな砂絵が本堂を荘厳

 本堂の一番奥の、本尊のまわりを荘厳する花は完成。フラワーデザイナーと交渉した本堂回廊の献花も6割方は完成していました。早速、献花者の名前を書いた紙を持っていき、それがはっきり見えるように、花を調整してもらいました。

 本堂の回廊には、女子生徒たちが描いた砂絵が完成していました。こういう技術はどこかで習うのでしょうか? 細かい作業を事も無げにこなしてしまうにも感心します。

 本堂正面の階段は、土を削ってちゃんと固められていました。滑って転ぶ心配はなくなりました。テントも完璧に張り終えていました。

 「インド人万歳!」


羊羹付きの朝食
 ひとまず安心して、朝食。メニューはパンとスクランブル・エッグ。インドの卵は、鶏にろくな物を食べさせずにたくさん産ませようとするので、色も薄く、栄養価も低いそうです。
 それを補うつもりなのか、なぜか羊羹が一切れ。いつもながら美味しいマンゴジュース。けったいな取り合わせ。

 本堂のほうを見ると、本堂を見学しようとするインド人たちが次々と現れ、警備をしている白いお仕着せを着た学生に制止されていました。

 ナグプールに泊まった人200余名の人たちも、そろそろこちらに向けての道をひた走っているでしょう。さぁ、こちらも着替えて、待機体制に入るといたしましょう。


法要へ始動

 今回の法要に出仕する僧侶の‘ユニフォーム’兼記念品として禅定林が誂えた山繭製の如法衣を着け、ゲートに向かいました。


にわかに出来た露天
 禅定林のゲートがあるシンドプリ村への道には、昨日まではなかった露天が軒を並べていました。人が集まるところには露天が出る、日本と同じです。それにしても、このたくさんの店はどこからやってきたのでしょう?

 昨日は気がつかなかったゲートから本堂に通じる道はモールで装飾され、一張羅を着たインド人たちが三々五々お参りに来始めていました。村の少年たちも正装と思われるような真っ白なパンジャビを着ていました。


白いパンジャビを着た少年たち
 ボクの子供の頃、お寺で行事があると、お年寄りたちの多くは紋付きを着てお参りに来られました。最近はお正月でさえ普段着で来る人が多いですが、それではけじめが付かない気がします。

 インドの人たちは、今日という「晴れの日」にちゃんと一張羅を着てやってくる。それを見て、この禅定林が、今回の法要が、仏教が、彼らにとって大切な存在であることをあらためて感じさせられました。

 朝とはいえ、かなり強い日差しが照りつけ、日本式の僧衣を着ていると暑くてたまりません。明らかにこの気候にはそぐわない格好です。インドやタイの僧侶が肩を露わにした僧衣を着ているのは理にかなっています。

 直射日光に当たっていると、確実に頭の皮が剥けそうです。刷毛に毛があり、禿げに毛がなし・・・毛がある人は恵まれていると思いました。なんのこっちゃ。

 ナグプールから日本人の僧侶や一般の参列者たちを乗せて走ってきたバスが、9時過ぎ頃から次々と到着しだしました。ゲートの前は大混雑し、ゲートに近づけないバスはずいぶん離れたところで乗客を降ろしています。降りてくる人たちの顔は、暑さに歪んでいました。

 バスは、このゲート前と、徒歩で20分ほどかかるルヤード村で分散して乗客を降ろしているはず。ルヤード村に通じる道が渋滞し始めていることからも、向こうも大混雑していることが想像されました。


行道開始

 法要に参列する110名ほどの僧侶たちは、禅定林近くのシンドプリ村と少し離れたルヤード村の各仏堂を出発し、法螺貝を先頭に行道して禅定林に向かう予定。インド・タイ・チベットなどの僧侶と、日本からの130名ほどの一般の参列者は、法要が行われる本堂前でそれを待ちます。


村の道を進む僧列
 ボクはどんな様子で行道が行われるのかを見に、シンドプリ村に入って行きました。

 一昨日訪れた時にはのんびりと農作物などを干したり洗濯をしていた村人たちも、今日は着飾って村のメインストリートに立ち、僧侶たちの行列が進んでくるのを掌を合わせて待っていました。道の上には青い三角の小旗がはためき、特別な日であることを印象づけていました。


法要開始 大失敗

 「人が湧いてくる」とは聞いていましたが、朝早いうちは、「それはちょっと大袈裟じゃないの」と思っていました。ところが見る見る人が増え、どんどん増え、相当広い本堂前の広場は人で満たされつつありました。


一体どこから?
 人をかき分けてその広場にたどり着くことも一苦労。ゲートのほうからはまだどんどん人が押し寄せてきて、その勢いは衰えそうにありません。「‘人が湧いてくる’というのはこういうことか」と納得しました。

 ちなみに、その日の参列者の数は、「10万人だった」「いや、15万人だ」「そんなにいない、数万人だろう」「20万人らしい」などとコロコロ変わりましたが、最終的に警察が発表した数は30万人だったそうです。一体誰が数えたのでしょう? 10メートル四方に何人いたかなどという計算をしたわけでもありませんし。

 湧いてくる人の間をすり抜けて、ようやく本堂前に到着。日本・インドなどの僧侶と日本からの参列者にはプラスチックの椅子が用意されていたのですが、見てみるとインド人の僧侶が日本人僧の席にまで広がって座っていました。椅子には、「インド僧席」「チベット僧席」などと日本語で書いた紙が貼ってあったのですが、彼らにわかるわけがありません。

 法要に支障が出るので、インド人僧侶には所定の席に着いてもらわないといけませんが、ヒンズー語で説明できません。スタッフの僧と困った顔をしていたら、インド在住の日蓮宗の僧が、「ここはダメなんでしょう?」とボクたちに聞いて、所定の席に着くようにインド人僧たちに説明をしてくださいました。インド人僧たちはなかなか動こうとしませんでしたが、その方が何度も急かしてくれて、やっと支障がない形が整いました。

 ちょうどゲートから通じる道のほうから法螺の音が聞こえ、やがて日本人の僧列の先頭が見えてきました。2列に並んだ僧列の1列は本堂に向けて進み、もう1列はやっと空けてもらった席の方へ向かってきました。

 さぁ、ここからが大失敗。さんざん打ち合わせをしたはずの法要の概要が、ボクには飲み込めていなかったのがそもそもの原因でした。

 法要はまず全員が大本堂の回廊で声明を唱えながら花びらを撒き、それが終わると20人は中へ入って本尊の開眼法要を修し、残る90名ほどは本堂前のプラスチック椅子まで戻って落慶法要を修するという、2つの法要が並行して行われる算段でした。

 ボクは本堂内と本堂正面で2つの法要が営まれるということばかり頭にあり、その前に全員が回廊から散華をするということがすっかり抜け落ちていました。

 そこへ、1列がこっちへ向かってきたので、てっきり本堂前の席に座る人たちだと勘違いし、プラスチックの椅子に誘導してしまったのです。


2列に戻って本堂へ向かう僧
 10人ほどが座りかけた時、本堂に向かう急作りの土の階段のほうからボクの名前を呼ぶ声が・・・。「こっちや! こっちや!」と、手を振っています。「へっ? そっち?」と、それでもボクはまだ気がつきません。「おかしいなぁ。なんで来いと言っているんだろう」と思いつつ、座りかけていた人たちに立ってもらい、落慶法要で使う祭壇をぐるっと回って、ボクを呼んでいた人たちのいる階段下へ誘導し直しました。

 ざわめく最中の出来事だったのでそれほど目立ってはいなかったかも知れませんが、大失敗です。恥ずかしい・・・。

 それにしても、どうして1列はこっちへ向かって来たのだろう? 分かれずにそのまま2列で本堂に向かえばよかったのに・・・いまだによくわかりません。

 急作りの土の階段を上がった僧列は、大本堂の回廊を左右に分かれて奧の方へ回り込んで見えなくなりました。予定では、お経を唱え、花びらを撒きながら表の方へ出てくるはず。

 でも、お経は始まっているのに、僧列が正面に出てきません。本堂の下で司会をしていた法要責任者がずいぶん焦っている様子。「ここはひとっ走り」と、ボクは地道の坂を駆け上がり、回廊の下から扇を振って、皆に正面に出てくるように合図を送りました。僧列はやっと動きだし、先頭から本堂の中に入っていったので、ボクも坂を下りて司会者席の横に戻りました。

 座主の御名代などの上座の方々は回廊から本堂に入る前に「禅定林」と記された山号額の除幕式と本堂のテープカットをする予定でした。司会者がそう紹介しているのに、本堂の前ではその気配が伺えません。トランシーバーを持っているはずなのに連絡も取れません。ここはまたもうひとっ走り。本堂への坂を駈上って、除幕式をするように、本堂担当のスタッフに告げました。


除幕式
 山号額の台は昨日薄暗がりの中、日本から仏具を送った時の木箱を、石を使って釘を打ったり細い麻縄で鉄骨の足場にくくりつけて固定したもの。布を掛けてあるので綺麗に見えていましいたが、実は急場しのぎもいいところ。山号額に掛けてある布を引っ張って除幕した時に、台ごとひっくり返らないかと少々心配でしたので、ボクもその場に待機しました。
 無事に除幕は成功!

 次は、本堂入り口でのテープカット。
 テープカットといっても、準備してある道具はテープとハサミだけ。高僧方とサンガ師がカットするテープの両端は、柱の影に潜んでいるスタッフが持っていました。テープカットも厳かに成功!

 僧列は2つに別れ、半分は本堂の中でご本尊の開眼法要を修し、残りの半分は本堂の落慶法要をするために、本堂前の土の階段を下りたところの祭壇に向かいました。


厳かに・・・

落慶法要は、まず日吉大社の権禰宜による「修祓の儀」。インドの地で、仏教の落慶法要で、まさか神式のお祓いを見るとは思ってもいませんでした。臨席していたインドやチベットの僧たちも、何をしているのだろうと思っていたのではないでしょうか? また、比叡山と日吉大社の関係の深さを感じました。

 いよいよ‘仏式’の落慶法要。初めに「讃頭師」による「列讃」の独唱パート。讃頭師はソロが終わるとピンマイクのスイッチを切ってしまいました。広大な屋外の会場、40〜50人ほどの生声では、何をしているのかさっぱりわかりません。あわててスイッチを入れてもらいにいきました。
 ソロの担当者が変わるとピンマイクを外して、次のソロ担当者に移動。お寺の仏間でこんなウロウロしていたら、檄を飛ばされそう。

 暑さと、勢い付けて坂を駆け上がった反動と、大失敗をしたショックとで頭は朦朧としてきました。懐に入れたペットボトルで水分補給。

 さて、次はボクの主たる役目の、献灯・献花・献香を本堂にお供えする人たちの引導役。各3名×2の合計6名の方の先頭に立って、本堂下の一般参列者席から50メートル余離れた本堂まで案内し、また戻って来る役です。

 頭が朦朧として、シミュレーションしたことが半ば吹っ飛んでいたボクに、ペアを組んだ少し年上の僧が小さな声で指示をしてくれて、間違わずに済み、本当に助かりました。また違うところに連れて行ったらエライことに・・・そんなことはないか。

 いったん一般席に戻って、今度は「百味供養」。一般の参列者100人が100種類の供え物を仏前に奉納します。この法要自体の名前は「大本堂落慶百僧百味供養四箇法要」ですから、「百味供養」はメインの行事の一つ。天台宗開宗1200年法要で修せられたものと同じ法要で、それを記して建てたこの大本堂の落慶にもふさわしいものです。

 お供えを華籠皿に載せた左右50人ずつの一般参列者を、また同じように本堂まで引導。そのお供えを本堂内にいる係の僧に渡してもらって、土の階段を下りて元の席に復してもらいます。

 お供えには各地の名産や趣向を凝らしたものがあって、皆さんの思いが伝わってきました。はるばるインドまで来てくださって、このような行事に参加してくださることに、深く感謝しました。

 法要は進み、本堂内の「入佛開眼法要」に出仕していた僧たちも、本堂の下のテントの席に合流しました。


晋山奉告法要にのぞむサンガ師
 次は、サンガ住職の「晋山奉告法要」。住職辞令が伝達され、法統を伝える意味の法具が授けられて、いざサンガ師の登壇。

 懺悔文・四弘誓願、そして表白。法要の趣旨を述べます。サンガ師の声に力が入り、緊張しているように聞こえました。
 それはそうでしょう、9歳で単身日本に渡り、母国語もわからない状態でインドに帰り、それから様々な苦労を経て、やっとここまで来た。「どれだけ嬉しいだろう」、そう思っただけでボクまで泣けてきます。

 日本側の法要は無事終了。インド・タイの僧侶による法要、チベット僧による法要が終わり、日本人の僧侶も僧院へ退出しました。

 インド人が数万人いる席で旅行社が日本人参列者に昼食を配ろうとし始めました。「‘自分たちだけ食べている’と思われかねない」と急いで制止。僧院に戻ってもらってから弁当を配布することにしました。

 日本でなら必要のないような配慮が求められる場面が多々があり、判断を間違うと、意図するしないに関わらず、大きなトラブルになりかねません。インドという国をよく知っていることや国際感覚などが要求されることを痛感しました。


昼食

 僧侶や一般参列者が僧院へ戻ったため、私たちスタッフも僧院へいったん引き上げました。

 200名以上の人が昼食を食べようとしたため、狭い僧院には座る場所さえありません。昨日夜なべで皮むきをしていたジャガイモなどのかき揚げと冷やしうどんの‘配給’を受けるにも行列が出来ていました。
 まずは、出仕僧や参列者に食べていただこうと、私たちは僧院の回廊で待機しつつ、大本堂を眺めていました。

 大本堂には大勢のインド人が押し寄せ、法要の時に撒いた散華を拾ったり、インド人フラワーデザイナーが朝までかかって飾った花を抜いて胸のポケットに差したりしていました。

 今日参列した人たちは、全員が仏教徒というわけでもないのでしょう。お祭り気分で来ているヒンズー教徒もいるのではないでしょうか。でも、それ自体も、日本人の仏教徒がお正月に神社に初詣に行くような日本的発想かも知れません。インド人は宗教にもっと厳密かも知れません。

 本堂の遙か向こうに作られた舞台では、和太鼓の演奏、日本舞踊、インド音楽などが演奏されていますが、遠くてほとんどわかりません。



僧院の回りに集まる人たち
 僧院の回りには、インド人たちが集まり、物珍しそうに私たちを眺めていました。10メートルほど隔てた回廊からは、我々が彼らを眺めています。そこには緊張というよりは和やかな空気が流れていました。



うどん・かき揚げ定食
 食堂が空いてきたのでかき揚げとうどんを頂戴し、とにかく喉が渇いていたので、マンゴジュースなどを何杯も飲みました。寝不足と暑さで消耗し、お尻に根が生えたように、その場から動きたくありませんでした。


潮が引くがごと

 参列してくださった僧侶や一般の方は、それぞれのバスに乗って、「子供の家」や「図書館」などを見学した後、ナグプールに向かいました。

 ‘湧いてくる’ほどいたインド人たちは、潮が引いていくがごとくだんだん少なくなり、彼らが着ていた服の白さや鮮やかな色が次第になくなって、土の色が支配的になっていきました。彼らはどこから来てどこへ帰って行くのでしょう? どうやって来て、またどうやって帰って行くのでしょう?

 帰って行く彼らの中に佇んでいたら、しきりに写真を撮って欲しい、サインをして欲しいと言われました。
 名前と住所も書いて欲しいとのこと。何のため? 後ほどスタッフの間でそのことを話すと、「DMでも来るんじゃないの」と言われました。

 住所の最後に、「JAPAN]と書くと、彼らは大きく頷いていました。彼らの数人に「チベット人か?」と聞かれましたが、彼らには見分けが付かないのかも知れません。

 カメラを向けると彼らの顔には一様に緊張が走りました。はしゃぐのは子供だけ。青年たちも大人もみな緊張し、なかなか笑ってくれません。ヒンズー語で「はい、チーズ!」というのは何というのか、教えてもらっておけばよかったと思いました。

 でも、例のごとく、撮った写真をすぐ液晶画面で見せてあげると歓声や笑い声があがり、液晶と写っている人を見比べたり指さしたりして、その緊張は嘘のように取れていきました。
 いくらIT大国といっても、その恩恵に与っているのはごく一部。撮った写真が今すぐにこの場で見られるなんて、ほとんどの大人にとっても大きな驚きでしょう。撮った写真をその場で見せてあげることは、大いに‘日印交流’になりました。

 せっかく撮った写真なので、液晶で見せるだけではなく帰国後に焼いた送ってあげようと思い、今度はこちらから彼らの住所を身振り手振りで尋ねましたが、意味が通じなかったり、アルファベットを書けなくて代書してもらったりで、なかなかすんなりとはいきませんでした。4組に住所を書いてもらい、少し薄暗くなってきたので、僧坊に戻りました。




スタッフ解散


ワインガンガ橋と夕焼け
 ほとんどの参拝者がいなくなってから、山号額を撤収したり祭壇などの片付けなど、少しだけ片付けをして、後は現地スタッフに委ねました。

 残ったスタッフは次第に食堂に集まり、疲れと大仕事が終わった脱力感に半ば放心状態の中、コーヒーを飲んだりしながら雑談。
 すっかり暗くなった窓のすぐ外では、大音響をたてて花火が疎らに上がり、今日の法要のすべての日程が終わったことを告げていました。


この仲間とも今日でお別れ
 それぞれが部屋に戻って平服に着替え、トランクなどの荷造りを終えた8時前頃、スタッフ全員に呼集がかかりました。
 ほとんど全員が今夜中にナグプールに移動する予定ですが、ホテルも分かれるので、スタッフが全員揃うのは、この時限り。様々な反省点があるにせよ、法要が無事に終わった喜びがまだこみ上げてくるに至らないうちの、スタッフの解団です。

 僧坊の1室に集まった20名ほどスタッフを前にサンガ師が謝辞が述べ、続いてスタッフ代表や事務局から総括などが行われました。事務局担当は、サンガ師の苦労がここに結実しつつあることを涙ながらに喜んでいました。もちろん、全員が同じ気持ちでした。

 そんな気分を分かち合っている暇もなく、すぐにバスに乗り込み、一路ナグプールへ。バスの中では言葉を発する者もなく、いつもなら悪路に眠りを妨げられるところを1回も目覚めることもなく、気がついたらナグプールの近郊を走っていました。変な姿勢をものともせずに寝ていたのでしょう、首が痛い。

 ナグプールのホテルに着きましたが、この後「8日間コース」を回るのはボクだけで、投宿するホテルも別。禅定林からトランクを乗せて来る予定の軽トラックがなかなか到着せず、移動することもできません。


何のスープだったかなぁ?
 12時近くなって、サンガ師たちと少人数で夕食?を食べ、空港近くのホテルまで送ってもらって、チェックインしたのが1時頃? 


プライドホテルの部屋
 オプションでシングルを申し込んだわけではないのに、一人部屋。「スタッフは遅くから、ツインにしたら同室の人に迷惑がかかると思って一人部屋にしてあるのかな? ラッキ!」

 埃と汗まみれになった体をシャワーで洗い、ようやく人心地ついて、すぐに前後不覚の夢の中へと落ちていきました。
2007年2月8日(木)  No.1324

インドの旅〜本団到着。結団式 (暫定版)
今日もナグプールへ

 さっき寝たばかりなのに、4時頃になったら、ゴソゴソ起き始めようとしている人がいます。

 今日は200名ほどの人たちが順次ナグプールに到着し、パンヤメッタ学園の訪問、改修広場参拝、そして結団式などが予定されているため、スタッフは順次ナグプールに向かうことになっています。
 当初の予定では、ナグプールへの先発隊は4時起床、5時にナグプールへ向けて出発だったのですが、そんなに早く出発しなくても間に合うということで、予定を1時間遅らせることになりました。その変更を決めたのは夕べボクたちが帰ってからだったので、ほとんどの人はその変更を知らず、起きてしまったのです。

 「出発が1時間遅くなりましたから、もう少し寝てください」と何度か言ったのですが、他の人もつられて起き出てしまい、結局ボクも送る羽目になってしまいました。あー、2時間しか寝られなかった。

 出発の遅い人はまだ寝ているので、起こさないようにと食堂へ行き、コーヒーやレモン湯を飲みながら、議論が始まりました。
 「宗教とはなんぞや?」 ボクより10歳近く年上の人たちが3人ほどで話をしていましたが、2時間ほどしか寝ていないボクには、そんな話に加わるより少しでも寝させてくれぇ〜。起き抜けに、どうしてそんな話をしているのか、理解に苦しむなぁ・・・。


仮本堂でお勤めをする子供たち
 おにぎりを食べて、6時出発。今朝もサンガ師の車。2+3+3のシートにフル乗車。ボクが座った3列目のシートは、「8人乗り」を標榜するために無理矢理作ったような補助的な座席で、路面の起伏がダイレクトに伝わってくるのみならず、定員いっっぱい乗った車内は空気も薄く、とても長時間乗っていられるものではありません。時々、「空気を吸わせてぇ〜」と訴えてフレッシュな外気を入れてもらい、1時間走ってやっと休憩。体がこわばってしまって、後ろの3人はなかなか車外に出られませんでした。


団体さんのお迎え

 約2時間後、やっと空港に着いたら、すでに愛知県からの一行20名がトランクの出てくるのを待っていました。続いて、VIPのいる本団など200名近い人たちが1時間の間に到着。小さい空港は一気に日本人だらけになりました。
 久しぶりに会う懐かしい顔も見えます。握手をしたり、肩を叩いたり。もちろん、天台宗や比叡山のお歴々もおられます。ご一行をサンガ師らと迎えました。

 VIPと一緒に来た、比叡山提供の番組を担当しているボクの友人のアナウンサーがいました。彼女は、今度番組で禅定林の大本堂の落慶のことを取り上げるとのことで、ディレクターと一緒にツアーに参加したのでした。

 彼女はボクの顔を見るなり、「ちょっと聞いてくれる」と言って、飛行機の隣席に座った狼藉者のことを息つく暇もなく話し始めました。
 ある老僧が、バンコクの免税店で買ったウイスキーを座席にしたにおいて、フライトが始まるやいなやグイグイ飲み始めたというのです。その挙げ句、酔っぱらって伸びをした手が彼女の顔に当たり、彼女も思わず、「キャー! 何するんですか!」と叫んでしまったそうです。その声を聞いて、席を替わってくれた男性がいて、やっと無事にここまで来られたとのこと。「とんでもない飲んだくれだ」と言うのです。

 ボクも落慶法要が終わったらツアーに参加して仏跡巡りをする予定で、彼女と同じ「8日間コース」。聞くところによると、その老僧も同じコースを行く道連れの18名のうちの一人。名簿を見てみたら、全国にも名だたる札所のお寺のご住職。「8日間コース」は圧倒的に女性が多く、僧侶はその老僧と、まだ若い方とボクの3人。スタッフであるボクが、当然そのコースのお世話役をすることになりそうで、その老僧のお世話役も兼ねるのは必至でした。

 空港に誰もいなくなったと思っていたら、一人、トランクを広げている方が残っていました。「えー、みんなバスに乗ったのに、置いて行かれる!」と、慌ててトランクを閉めてもらい、大急ぎで転がして、100メートルほど離れたバスに案内しました。「これで一安心!」と思いきや、ボクの案内したバスはその方が乗るべきバスではありませんでした。それに気がついたのは、後になってから。「行き先は同じだし、添乗員が気がつくだろう」とそのままにしておきましたが・・・。
 この案内した方が、例の老僧。「8日間コース」のみんなが「大僧正」と親しげに呼んだ、憎めない方でした。

 残り1団の着くのを待たずに、ボクともう一人はは千葉県の団の人たちが泊まっているホテルに向かい、皆さんの乗ったバスを「パンニャメッタ学園」に案内する役目に就きました。


結婚式らしい…よく見えません
 事前の打ち合わせでは、地元の人が1人バスに付いてくれる予定だったのに、バスに乗ってみたら見あたらず、ガイドさんも、運転手さんも、行き先を聞いていないとか。もちろん、ボクたちにも案内するなんてできません。
 現地ガイドがサンガ師と連絡を取り、途中までサンガ師の弟子が迎えに来てくれることになって、彼のバイクの先導で何とか目的地に着くことができました。

 一行は改宗広場にお参りして、その後、結団式を行うホテルへ。ボクたちはホテルへ先回りして、結団式と午餐会の準備スタッフに合流しました。


結団式で打ち明ける

 下見の時に、「こんなところに200人以上は無理だ」と思った狭い宴会場に、テーブルと椅子がズラッと並べられていました。まさに‘インド・マジック’。不可能に思えることを、事も無げにやってしまうインド人の知恵と人海戦術。

 狭い宴会場はアッという間に満員御礼。ボクの友人のアナウンサーは、千鶴さんが用意してくれたインドの民族衣装「パンジャビドレス」に着替えてご満悦。ボランティアで司会をするお礼として、もらったのだとか。


結団式会場がぎっしりのの人
 順調に結団式は進み、サンガ師や事情を知っている人たちが、本堂が完成していないこととその理由を、挨拶の中で説明しました。
 何の事前知識もないままに未完成の本堂をご覧になったら、ほとんどの人が「なんでこんな状態で落慶法要を敢行したのか」と不審がり憤るに違いない。未完成でも敢えて落慶法要を行わなければならなかった理由をちゃんと説明しよう。現地に着いてからのスタッフ会議で、そう相談した結果でした。

 まずその理由の1つ目は、今年の2月8日で、禅定林の仮本堂が落慶して20年になるということ。2つ目は、昨年の5月から今年の5月までが、上座部仏教の考え方では釈尊生誕2550年になること。3つ目として、今年の1月26日は天台宗が開宗して1200年になること。そして4つ目、昨年の10月はアンベードカル博士の改宗50周年。この4つが公式な理由でした。

 そして、もう一つ、やはりどうしても今年落慶法要をしなければならなかった理由がありました。本堂の建設が遅れたのは、去年の雨期が長かったことも響いていますが、建設に使うセメントが入手できなかったことも大きな理由でした。

 詳しいことは書けませんが、インドには、ほんの一握りの勢力に過ぎない仏教徒が、巨大な本堂を建てることを看過できない人たちがいるのです。「一発触発」の状況下にある現実を改めて知らされました。

 出席したほとんどの人は、本堂が完成していないことを耳では聞いてわかったとしても、本当に建設途上だという実感は伝わらなかったでしょう。何しろ、みんな、完成した暁の「落慶法要」に出席するために、はるばる日本から来たのですから。
 でも、様々な理由で完成していないという予備知識を持っておいていただいたことは、皆さんの求心力を高めるのに、後から随分役に立った気がしました。



禅定林へとんぼ返り

 挨拶が終わり、祝杯をあげてバイキングが始まって30分間、スタッフは一気に腹ごしらえをしました。翌日の法要の準備をするために、禅定林へ飛んで帰らなければならないのです。

 1時半、結団式要員を除いて全員バスでナグプールへ。4時前に到着。簡単な打ち合わせをして、一気に法要の準備にかかりました。

 作業はいっぱいあります。開眼供養をする本尊の前の祭壇作り、落慶法要をする祭壇の準備、「禅定林」の山号額の据え付け、法要の時に撒く散華の準備、その他、業者に任せてある大テントや献花などの用意。これらを少ない人数で進めなければなりません。

 本堂に行くと、先日のフラワーデザイナーがご本尊のまわりを花で荘厳する作業をしていました。でも、打ち合わせをして献花や祭壇のはまったく手つかず。本当に間に合うのか、心配でなりません。

 日除けの大テントは、まだ80%程度の出来。サッカーぐらいは優に出来るほどの広さに、竹と麻縄を使ってテントを張っていく作業が3日ほど前から3〜4人がかりで行われているのですが、実にゆったりとした進み方です。


落慶法要時の山号額
除幕は毘沙門堂門跡
 ボクともう2人は、山号額をのせる台をこしらえる作業にかかりました。
  本来、山号額は本堂の正面入り口の上に掲げられるものですが、いまはまだ足場の鉄骨などがあって、それができません。そこで台をこしらえて、その上に飾ろうということになったのです。

 台といっても、何かを流用するしか仕方ありません。地ならしをした上にコンパネを敷いて、その上に日本から仏具を送るために使った木箱を組み合わせて置き、釘と麻縄で固定しました。釘を打つ金槌さえないので、石を拾ってきて打ちました。麻縄はテント屋さんのをくすねて来ました。
 これに布を掛けてカモフラージュし、銅製の30キロぐらいはあろうという山号額をのせ、やはり頼りない麻縄でくくりました。日本でなら、こんな危ない固定法で済ませませんが、時間も材料も道具もない今は仕方がありません。事故が起こらないように祈るのみです。


6日でもまだこんな状態
 本堂正面へ上がる道は、階段を付けてもらう予定のはずなのに、急な地道のスロープのまま。これでは多くの人が滑って怪我をしかねません。スタッフの間で、「こっちで階段を付けるしかない」と焦る意見が出ましたが、鍬もスコップもないので到底無理。サンガ師の帰りを待って、階段の取り付けを再度確認してもらうようにしました。

 祭壇の荘厳もある程度の準備は整いましたが、最終決定はサンガ師待ち。テント張りははかどらず。花屋さんはまだ本尊前から離れず、そうこうするうちにあたりは暗くなり、恒例の停電になってしまいました。

暗闇で散華を分ける作業
 かろうじて本堂の中だけは自家発電の明かりがわずかに点り、花屋さんはほとんど暗がりの中で作業を続けました。

 僧坊で散華を分ける作業をしていた尼僧さんや女性たちは、やたらハイな状態。疲れが高じて、極限状態が近づいているのかとも思いました。


準備は最終段階へ

 ようやくサンガ師が帰ってきました。彼の車に積んであった準備に必要なものを降ろして、作業続行。

 懸案の本堂前の階段作りについては再プッシュをしてもらい、法要に間に合うように階段を付けてもらうことになりました。もうとっくに夜もかなり遅い時間。今からやって間に合うのでしょうか?
 テントもまだ未完成。花屋さんも先が見えません。 

 9時に電気が回復して、それから祭壇の飾り付け、各業者の作業などがまた本格化。階段の取り付けも、いつのまにか4〜5人が鍬を持って現れ、少しずつできあがってきました。

夜の本堂遠景

 みんなの顔には明らかに疲労の色が見えます。とにかく今夜を乗り切って、明日の法要を成功させなければなりません。

 朝9時前に着く予定だった飛行機が4回フライト変更になり、結局着いたのは夜の9時前。それを迎えに行っていた人たちが、ようやく帰ってきました。待ちくたびれているのは言うまでもありません。愚痴を言う段階を越えていました。

 ようやくスタッフが揃い、食堂で最終の打ち合わせ会議。終わって、またそれぞれの分担の準備。日付はとっくに変わって、2時、3時・・・。
 厨房では、3〜4名の男性たちが、明日の法要参加者240名ほどに出す昼食のおかずの一品、掻き揚げ用のジャガイモの皮をほとんど無言のまま剥いていました。

 後から聞いた話によると、結局この夜一番遅くまで起きていた人たちの睡眠時間は1時間ほどとのこと。ボクたちも2時間ほどでした。

 空港への出迎えから始まって、結団式、帰って準備と、実に長い1日でした。
2007年2月7日(水)  No.1296

インドの旅〜近くの村、ナグプールでの打ち合わせ (暫定版)
近くの村へ


大本堂の脇から上がる朝日
 7時起床、お勤め。僧坊の回りを散策した後、炊事班が作ってくれたサンドウィッチをいただきました。

 8時45分から打ち合わせ。落慶法要当日、僧侶の行列が出発する近くの村の仏堂と「パンニャ・メッタ・サンガ」の中核施設の一つである「子供の家」を視察に行きました。


子供の家でのお勤め
 「子供の家」は、貧しい子どもたちに生活の安定と仏教的情操教育を与え、将来のインド社会に貢献できる人材を育成することを目指した孤児院で、35名ほどが起居を共にしています。
 子供たちと共にお勤めをした後、スタッフの僧が持参してきた伝教大師幼形像の贈呈式を行いました。


礼拝を受ける僧
 少し離れたルヤード村に行き、村の入り口に建つ仏堂でお勤め。村の人たちが大勢出てきて、女性たちが我々の足下に跪いて礼拝し花輪を掛けてくれました。「ボクはそんなにしてもらえるような立派な僧ではないのに・・・」と、とても申し訳なく思いました。


仏堂と博士像
 「子供の家」にはアンベードカル博士の写真が、ルヤード村の仏堂の外には博士の立像がまつってあり、博士が人々の崇敬の対象になっていることを改めて感じました。

 バスで行くほどの距離ではありませんでしたが、時間節約のために往路はバスで、帰りは僧侶の行列が歩くのに要する時間を計るために、徒歩で戻りました。

 ルヤード村から禅定林まではゆっくり歩いても20分。禅定林の入口まで戻り、道の反対側の集落であるシンドプリ村に行きました。

 シンドプリ村の仏堂へ行くには、村の道を奧へと入っていかなければなりません。
 村に入ってすぐのところにある小学校の生徒が、ボクたちを見て集まってきました。カメラを向けると、みんなポーズをとります。撮った写真を見せてあげようとデジカメの液晶画面を子供たちに向けると、小さな画面に食い入るようにを澄んだ目を輝かせていました。

 村の光景はフォトジェニック。敷物の上に生姜や唐辛子が並べて干してあったり、水汲みや洗濯をする女性がいたり。写真を撮っていたら、すっかり皆から遅れ、仏堂の前に着いたときにはお勤めが終わっていました。

 帰り道もまた皆から遅れ、村の入り口の学校でやっと追いつきました。教室では、英語の授業が行われていたようで、「one two three」などという文字が黒板に書いてありました。

 この村の4人家族の平均月収は1500ルピー程度。日本円で約4500円。空港で飲んだ紙コップのコーヒーが1杯20ルピー程度ですから、決して裕福ではありません。


ルヤード村の女性

放牧人と恥知らずの花

ポーズをとる小学生

唐辛子を前に

洗濯物を干す女性

生姜干しと少年

水汲みをする女性

シンドプリムラ仏堂

学校の前で

小学校の教室


納 経

 僧坊に戻って、昼食。今日のメニューは、インスタントラーメンとおにぎり。


おにぎり作りをする高校生
 炊事班は、4日に一緒に日本から行った女性5人、先に訪印していたサンガ師の奥さんのお母さんと大津の料理店の跡取り息子さん。女性のうち2人はスタッフのお嬢さんで、高校生と中学生。

 見るからに火力の弱いプロパンの2口コンロで25名ほどの食事を作るのは、さぞかし大変でしょうが、この兵站チームのお陰で、我々はいつも美味しいご飯をお腹いっぱいいただくことができました。



香炉の左側の筒が写経
 昼食後の休憩の時、日本から持参した「メダカの学校」の皆さんが書かれた写経を、仮本堂に納め、般若心経を唱えました。
 写経はもともと大本堂に納経するはずでしたが、それは明らかに無理。ひとまず仮本堂に納め、しかるべき時に大本堂に移してもらうことにしました。

納経に添えた趣旨文

 これで「メダカの学校」の写経を、インド・中国(天台山)・日本(比叡山)の三国に納めたことになり、感慨もひとしお。巻末に皆さんが書き添えられた願い事が叶いますように・・・。


パラダイス


いつも寝ている犬
 昼食後、午前中の視察結果をもとにした打ち合わせを開始したものの、地元のテレビ局がサンガ師を取材に来たため、一時中断。なかなか終わらないため、しばらく昼寝をすることにしました。

まだ食べられないのかなぁ

 僧坊のまわりにはパパイヤもなり、オレンジ色の花なども咲いて、まるで南国のリゾート地に来たみたい。風邪気味な上の寝不足で、憔悴気味だったボクにとって、この昼寝はとてもありがたいものでした。


食堂での会議風景
 元気を取り戻して会議再開。いろいろ説明を聞いても、100人以上が出仕し、落慶法要と本尊の開眼法要が同時に進行する大法要のイメージがなかなかつかめません。最近、こういった大きな法要やイベントからは遠ざかっているので、頭がついていかないのです。
 この飲み込みの悪さが、法要当日、とんでもない失敗を引き起こしてしまうことになるとは・・・。


ナグプールへ

 4時10分、千葉県から来るツアー団を迎えに、サンガ師、奥さんの千鶴さん、スタッフの奥さん、運転手2人と一緒に、ナグプールへ。ナグプールへは90キロ、約2時間。「ちょっとそこまで」という距離ではありません。

 運転手がいるのに、運転するのはサンガ師。サンガ師はじっとしているのが嫌いらしく、自分で運転する方が疲れないのだとか。


どこにでも牛がいます
 インドで「運転して」と言われても、ボクは怖くてできません。自転車、バイク、リクシャー、牛車、トラック、乗用車などが混在する道を、対向車が来ない隙を狙って、クラクションをうるさいほど鳴らしながら抜いていくのです。時には対向車が迫ってきても、チキンレースのようなもの。最後まで我慢した者が優先、大きい車が勝ちです。それでいて事故が起きないのですから不思議です。
 都会では、圧倒的な数の自転車、バイク、リクシャーなどの小さい車両が、どこを見て運転すればいいのかわからないほど、縦横無尽に迫ってきます。

 ボクは自分の運転を荒っぽいと思っていましたが、インドへ来てからは、「おとなしいものだ」と思えるようになりました。
 サンガ師も、時には100キロ以上のスピードを出して、高速道路でもない道をぶっ飛ばしました。助手席に乗っていたら、きっと足が筋肉痛になったことでしょう。

 インドに道には、無理矢理減速させるために、時々かまぼこ状の段差が作ってあります。そのままの速度でそれを乗り越えようとしたら、ものすごい衝撃を受けるため、ほとんどの車はそこで減速します。減速具合が中途半端だと、突き上げるような衝撃が伝わってきて、思わず「ウッ・・・」と声が出てしまいます。


大地を真っ赤に染める唐辛子
 1時間ほど走った集落は唐辛子の産地で、道路の両側が真っ赤になるほどの唐辛子が干してありました。朝、広げて、夕方にはしまうそうです。大変な量ですから、出し入れも重労働でしょう。

 車を止めてもらって、唐辛子を干した場所まで行ってみました。唐辛子の匂いが漂い、少し目が痛くなるような感じがしました。真っ赤な大地、実に美しい景色でした。


事件を伝える翌日の新聞
 もう少し進んだところで、道の中央に土管を置いて石で固定してあったり、木が燃えている現場に差し掛かりました。人も大勢出て、何か騒然としています。サンガ師も「なんかちょっと変」と、いつもと違う気配を感じている様子。

 ナグプールに着いてからわかったのですが、停電が多いことに腹を立てた若者たちをヤクザな人がそそのかして火を付けさせたりして、警察が出動して誤射によって1人が亡くなったのだとか。そのあたりには非常事態宣言や外出禁止令が出たとのことでした。
 我々はそのまっただ中を抜けてきたわけです。巻き添えにならなくてよかった・・・。

 サンガ師の話によると、インド人はたとえばこのような事件に出くわしただけでも、さも自分が関わったように、さらには自分があたかもそれを主導していたかのように言いふらす人が多いのだとか。まったく見ず知らずの人が、知り合いだといって訪ねてきたり、知っているはずのない人を知っていると言ったり、そんなこともよくあるのだそうです。それって、どういう心境なのでしょう?


空港へ

 千葉県からのツアー団の乗った飛行機は定刻通りナグプール空港に到着。週2便ある、バンコク〜ナグプール間の直行便を利用したため、アクセスの効率もよくて、あまり疲れておられないように見えました。

 専用バスで空港から5分ほどのホテルにチェックイン。ロビーで明日の予定を説明申し上げ、また迎えに来ることを約束して、ホテルを後にしました。

 次に、なぜか小さなパソコン屋さんで、法要当日の飲料水用にミネラルウォーターを大量購入。3列シートの3列目を畳み、ペットボトルやプロパンガスのボンベなど積み込み、その隙間に運転手の一人が入り込みました。

 ナグプール市内のサンガ師の事務所&住居にお邪魔して、花屋さんと、献花や荘厳用の花について交渉。相手は自らをフラワーデザイナーだと自慢げに言う30半ばの‘出戻り’女性と20歳ほどの娘。

 サンガ師が花をバスケットに盛るように言ったり、仏具屋のパンフレットを見せたりしながら、イメージを伝えようとしましたが、インドには花を生ける風習がないらしく、また花の部分だけを取って使うことが多いため、なかなかうまくいきません。相手はフラワーデザイナー顔をして、「私に任して」と言わんばかり。

 絵を描いたり、アイデアを出し合いながら、花を差す水を含んだ素材をインドでも「オアシス」と呼ぶことがわかり、オアシスを積み上げてたくさんの花を差し、大きく高く見せるというアイデアで一件落着。「あとは私に任せて」と言わんばかりの顔で、フラワーデザイナーは帰って行きました。不安だなぁ・・・。


インドの家庭料理
 事務所&住居で、インドの家庭料理をごちそうになりました。カレー、ナン、チャパティー、ご飯、豆のスープなど、カレーバイキングの圧倒的な量と違って、ほっとする雰囲気です。

 インドでも、客が食事を食べ切ってしまうと「量が足りなかった。接待が悪い」ということになるらしく、せかっく食べたと思ってもまた入れられるという‘わんこ蕎麦’状態になってしまうことがあるようです。ボクの友人から、家庭に招かれた時に困ったという話を聞いたことがあります。

 せっかくの美味しい料理も、この後2時間車で揺られることを思うと、お腹いっぱいは食べられませんでした。

 サンガ師の事務所には、次から次へと人が訪ねてきます。夜10時になっても平気。訪ねてきて何かをするというわけでもなく、テレビを見たり、談笑しています。11時頃までは訪れる人があるそうです。
 夜遅い街にも、大勢の人がウロウロしています。インド人は夜更かし?


再び禅定林へ


夜のガソリンスタンド
 11時にナグプールを出発。事件のあった町を避けて、20キロ大回りして、禅定林に向かいました。「ここは虎が出ます」「このあたりでは山繭を生産しています」という説明を受けながら、後部座席からぶっ飛ばす車のフロントガラス越しに、ヘッドライトが照らす部分だけ明るい風景を見ていました。


黄色いカエル
 1時、禅定林着。ほとんどのスタッフはすでに寝ていました。部屋に帰り、寝ている人を起こさないようにそっとシャワーを浴びました。シャワーといっても、細々と出るお湯をたらいにためて掛けるだけですが、実に有り難いものでした。
 浴室には黄色いカエルが住み着いていました。

 あー、やっと手足を伸ばして寝られるぅー。
2007年2月6日(火)  No.1297

インドの旅〜ナグプール、そして禅定林へ (暫定版)
 4時半モーニングコール。2時間ほどしか寝ていません。4時45分荷物を部屋の外に出して朝食。5時過ぎには空港へ向かうバスに乗車。


オムレツの機内食

 ムンバイ発ナグプール行きの国内線に搭乗。国内線のセキュリティー・チェックはかなり厳しく、セキュリティーのゲートの警告音が鳴らなくても、全員金属探知機で検査され、「検査済み」のスタンプを押してもらいます。手荷物も厳しく、ペットボトルや電池もチェックされ、同様に「検査済み」スタンプを押してもらわないと搭乗できません。

 ムンバイの空港は同じ滑走路を離着陸に使っているため、なかなか離陸できません。着陸と離陸を交互に繰り返し、窓から外を見ると、ボクの乗った飛行機の前に5機が列をなしていました。ということは、10機目ぐらいにやっと滑走路を使えるということ。結局、搭乗してから離陸するまでに70分かかりました。それでも定刻より25分遅れ。行列を見越して早く滑走路に出て行っているということでしょうか。

 空港のまわりには広い空き地があり、決して滑走路をもう1本作れないわけではなさそうなのに・・・。そんなふうに思うのは、日本人だからでしょう。きっとインド人はこれでよしとしているに違いありません。

 ノン・ベジタリアン向けの機内食は、この時だけオムレツ。珍しかったので、美味しく感じました。


ナグプールへ

 8時50分、ナグプール着。晴れ、気温20度。サンガ師の出迎えを受けました。

 ナーグプル(Nagpur)は、インド中西部のマハラシュトラ州の都市で、人口242万人。京都市よりも大きな街ですが、インドは人口が多いので、「日本なら30万都市程度の街」だとの説明を受けました。ちょうどインドのど真ん中に当たるため、かつてはこの街を基点にインド地図が作られたそうです。
 インドの公用語はヒンディー語ですが、マハーラーシュートラ州としての公用語はマラーティー語。インドの憲法には22の言語が列挙されているそうです。


子供の笑顔が可愛い

 バスで「パンニャ・メッタ学園」を訪問。法要参拝団の本団が7日に訪問する下見です。パンニャは「智慧」、メッタは「慈悲」を意味します。

 9歳から14年間、比叡山に留学し、今はこのナーグプルを中心に活動されているサンガラトナ・マナケ・法天師が代表を務める「パンニャ・メッタ・サンガ」は、1982年にインド政府より認定された宗教社会法人で、インド・ナグプールを中心に、宗教・福祉・教育・医療・生活の支援活動を行っています。
 「パンニャ・メッタ学園」もその一つで、日本でいえば幼稚園から小5までの子ども達の教育を行っています。

 子供はどの人種でも可愛いですが、インドの子供は目鼻立ちもはっきりして、表情も豊かで、特に可愛いですね。デジカメで写真を撮って、すぐにそれを見せてあげると、はにかみながら素晴らしい笑顔を見せてくれました。


改宗広場


聖地 改宗広場
 続いて、「改宗広場」に行きました。

 インド人の多くはヒンドゥ教徒。インドの人口に占める各宗教の割合は、ヒンドゥ教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.33%、シーク教徒1.84%、仏教徒0.76%、ジャイナ教徒0.40%、アイヤーヴァリ教徒0.12%。仏教発祥の地ながら、仏教徒はごくわずかに過ぎません。

 インドのカースト制はよく知られていますが、それはヒンドゥ教に根源を持っています。いまだにカースト制度の影響は確固として存在し、それによる階層や貧富の差も非常に大きいようです。上層のカーストの人たちは当然のことながら既得権益を離そうとはせず、いつまで経ってもカースト制は消えません。


仏陀とアンベードカル菩薩の像
 不可触民出身のアンベードカル博士は優れた資質を見込まれ、藩王の援助で米英で学問を修め、インド独立後には初代法務大臣を務めて、カースト制廃止を盛り込んだインド憲法を起草しました。そして、死の直前の1956年、自らと同じ50万人の不可触民と共にヒンドゥー教から仏教に改宗したのです。それを記念したのが、この「改宗広場(ディクシャ・ブーミ)」です。

 「マハーラーシュトラ」という州の名には「マハールの国」という意味もあり、「マハール」とは最低カーストの「不可触カースト」の最大の共同体の名前でもあるそうです。「不可触民」の差別問題に対して活発な差別反対運動を行ったのが、このマハールの人々だったそうです。
 また、マラーティー語を使った反カースト差別の詩や小説は、インドの近代化への運動として、現在も進行しつつある解放運動の大きな部分を成しているそうです。

 また、ナグプールは仏教を篤く信仰した「龍族の町」であり、古くから仏教の町でした。

 そういう背景もあって、ナグプールが改宗運動の拠点になったのでしょう。集団改宗は仏教徒の生活と教育水準の向上、社会進出の足がかりとなったと言われています。

 ナグプールの改宗広場は仏教徒の聖地の一つとなっています。
 この大きなドーム型の建物の中央には、アンベードカル博士の遺骨が、お釈迦さまの舎利同様にまつられています。アンベードカル博士は、「不可触民の父」「アンベードカル菩薩」としてインド仏教徒から崇拝されています。

 我々先遣隊も、アンベードカル博士の遺骨の前で、お勤めをしました。


 続いて、7日に結団式と昼食会を行うホテルの宴会場を視察。驚くほど狭く、日本なら70〜80名のパーティーをする規模。こんなところに240名ほどが入って、バイキング・スタイルの食事ができるの?
 インド人が出来るというのだから、出来るのでしょう。任せるより仕方がありません。

カレーバイキング

 ホテルに来たついでに、レストランでカレーのバイキングを昼食に食べました。ボクは日本にいる時でもカレーは大好き。機内食でチキンカレーが続いても、3食ともカレーバイキングでも厭いません。そういう意味ではインド向けかも知れません。

 他の人たちがビールを飲む中、ボクは一口飲むだけにしておきました。とにかく、胃腸の調子を保つことが大命題の一つ。この後、でこぼこ道を2時間バスで走らなければいけませんから、お腹の調子を壊す恐れがあるようなことは極力避けなければいけません。そう思うと、普段は飲みたくて仕方がないビールも、欲しくはありませんでした。


本拠地 禅定林へ


女性は建物の裏へ
 1時40分にナグプールをバスで経ち、いくつかの集落を抜け2時間ほどひた走り。途中のトイレ休憩では、「はい、男性は道の反対側の畑に、女性は左側の建物へどうぞ」と、現地ガイドが案内。女性のためのトイレがあるのかと思いきや、ただ、建物の裏側へ回ったあたりの畑にしゃがんで放尿してくださいとのこと。さすがにこの時は、‘建物の影’を利用する女性はおられませんでした。


橋から見た大本堂(赤い所)
 ワインガンガ河にかかる橋に行き着いた時、川の向こうに大きな屋根の上に鉢巻きを巻いたような建物が見えました。それが建設中の禅定林の大本堂だと説明を受けましたが、計画では2層からなる多宝塔状の建物のはず。完成していないとは聞いていましたが・・・。

 4時少し前に禅定林に到着。近くにある「子供の家」の子どもたちが、花のシャワーで歓迎をしてくれました。


案外快適だった寝室
 先ずは仮本堂でお勤め。その後、寝る部屋の割り振り。ボクは、僧坊のバストイレ付きの7人部屋。コンクリートの床に敷物を敷き、その上に布団が並べてありました。何だか床の冷たさが伝わって来そう。僧坊の脇には、パパイヤがたわわになっていました。

 打ち合わせをする前に、ともかく本堂の現状を見に行こうと、炊事班を除いた皆で本堂に向かいました。


鉄骨だらけの本堂
 31メートル四方の本堂は、実に大きなものでした。でも、本来は多宝塔のような2層の屋根からなり、その上に相輪が乗っている形の建物なのに、出来ているのは1層目の屋根だけ。真ん中には大きな穴がポッカリと空いています。

 屋根には急激な乾燥を防ぐためのむしろが敷き詰められ、人夫がホースで水

何とか拝める本尊
をかけていました。建物の外周や内部は鉄骨だらけ。70トンに近い石から掘り出したご本尊は完成しているものの、鉄骨が邪魔になって全容を一望できません。本堂へ登る道はスロープにさえなってなくて、3人ほどの女性が少量の土を頭に乗せて細々と運んでいる最中でした。
 近づくに従って、中に入るにつれて、その未完成ぶりが際だち、「本当にこんな状態で落慶法要をするのか・・・」という思いがどんどん大きくなってきました。


右側が僧坊の建物
 本堂の屋根に登れば沈んでいく夕陽がよく見えるというので、高いところが好きなボクは真っ先に登りました。後から4〜5人が続き、ワインガンガ河の向こうに沈んでいく夕陽を眺めました。


闇鍋状態
 僧坊の食堂で、スタッフの自己紹介と簡単な打ち合わせをしました後、7時頃から屋上に上がって夕食。
 会議中からの断続的な停電の後、9時までは完全な停電。食事は真っ暗な中の闇鍋状態。お米やインスタントラーメンなどは、各自がトランクに入れて持ち寄ったもの。ちらし寿司、茄子の田楽、味噌汁など、食事班の工夫の後が伺える食事はとても美味しかったです。


隣のいびきが・・・
 9時、電気が復旧。片付けをした後、食堂で打ち合わせを再開。2時前まで議論して、ようやくシャワー。シャワーというよりは、バスルームにあるプロパン瞬間湯沸かし器のお湯を溜てかける程度のもの。それでも、埃っぽくなった体を洗えるだけ有り難いものでした。

 あー、やっと寝られる。4時半のモーニングコールから始まって、長い1日でした。でも、こんな日程は今回の旅行では決して珍しいものではありませんでした。
2007年2月5日(月)  No.1298

インドの旅〜インドへ (暫定版)
 夕べは、旅行中に不調になるような夢を繰り返し見て、あまり熟睡できませんでした。
 6時半に乗り合いタクシーが迎えに来て、4カ所を経由して関空へ。8人乗りの狭い車内で、マスクもせず、ハンカチで押さえることもなしに平気で咳をするオバサンががいて閉口。「こんなところで風邪でもうつされちゃたまらない」と、すぐさまマスクを付けました。

 京都南ICから高速に乗り、トイレ休憩を挟んで、1時間15分後には関空に到着。決められた時間より30分早く、集合場所に着きました。

 今日出発するのは、法要の準備をするための先遣隊など23名と、東京から3人が途中で合流して、総勢26名。ほとんどの人が顔なじみでした。


 6年ぶりの海外旅行、インドへ行くのは25年ぶり。旅行の準備をしながら、25年前に共に仏跡巡りをした、今は亡き僧のことを思い出さずにはいられませんでした。

 東京から京都のお寺に入られて間もないその僧はボクよりも4つ年上。ひょんなことから、浄土真宗系のお経のテープなどを作る会社の仏跡巡りツアーに誘われ、14日間を共にしました。

 旅行前には、辛い料理に慣れておこうと2人でインド料理店に出かけたり、旅行中に必要だろうとアーミーナイフを一緒に買いました。彼がそのナイフで一番最初に切ったのは自分の指だったということを今でも思い出します。

 旅行中は若い2人が一番クッションの悪いバスの最後部に座ることになり、突き上げられた後に床にたたき落とされるような振動に、胃腸や内蔵が動くのを体感しました。ホテルのランチボックスに同じようにあたり、共にバスの席を前のほうに代わってもらったことも思い出されます。

 一昨年、たまたま同じ大学の講師を依頼され、ボクは大学の対応に不信をもって断ったものの、彼は紹介者の関係上断ることも出来ず、学校が始まってからの受講生の質の悪さに辟易としていた顔が、今も思い出されます。
 その20日後、彼は自ら山中に入って亡き人となりました。ボクが信頼し尊敬できる数少ない僧侶のひとりでした。

 インドのことを考える時には、必ず彼のことを思い出すのでした。


 搭乗前に慌ててビスケットを買って食べ、風邪薬を飲みました。11:10定刻通り離陸。フライト中も、熱が出るか出ないか、体の中でせめぎ合いが繰り広げられている感じ。チキンカレーの機内食を食べたあと爆睡し、少し体が軽くなるのを感じました。

 ここぞとばかりタダ酒をガブガブと飲む人、乗務員に我先に用事を言う人、乗客にはいろいろいるものだと呆れてしまいます。客室乗務員って大変な仕事だと、改めて思いました。

 15時50分バンコク着。2時間の時差があるので、日本では17時50分。
 バンコク・スワンナプーム国際空港は、とてつもなく巨大な空港。でも、空港内の移動手段は歩くしかなく、端から端へ行くのはすごく大変。免税店も多く、寿司や日本食の店や足つぼマッサージの店もあって、時間を過ごすのに退屈はしないでしょう。

 同じツアーのメンバーは、焼きそばを食べたり、ビールを飲んだりしていましたが、胃腸のことを案じてとにかくセーブに徹しようと思っていたので、さっさとセキュリティー・チャックを受けて、ゲートのベンチで過ごしました。

 約4時間のトランジット待ちの末、ムンバイに向けて離陸。またチキンカレーの機内食を食べて爆睡。4時間後の11時過ぎ(現地時間)、インド・ムンバイ(Mumbai)に到着。時差は、日本とインドでは3時間半、タイとインドは1時間半。日本はもう真夜中。
 ムンバイの空港で荷物が出てくるのに手間取り、全員の荷物を受け取ったのは1時間40分後。「あー、インドに来たなぁ」と思いました。

 1時半頃、コーイヌール・コンチネンタルホテルにチェックイン。必要なものだけをトランクから取り出し、サッとシャワーをして寝ました。


 ムンバイ、「ボンベイ」のほうが馴染みがありますが、1995年に英語読みから現地語の発音に対応して「ムンバイ」に改名されました。インド随一の商業及び娯楽の中心都市で、インド映画の拠点でもあります。

 この街に降り立つのは2回目。前回はカルカッタの飛行場に降りられず、臨時に着陸。そのまままたカルカッタに戻りました。今回は一応街へ足を踏み入れましたが、ただホテルに宿泊する目的のみ。なかなか縁のできない街です。

旅程表

〜 1回目のチキンカレー。日本で積み込んだものらしく蕎麦付き 〜
2007年2月4日(日)  No.1299

三国へ納経
 今日は節分。昨日に続いて、本堂で節分会の日数心経読誦法要。

 今日は土曜日ということもあり、またお天気もよくて、境内には‘吉田さん’から流れてこられる方、これから行かれる方がたくさんおいでになり、接待をしている本堂前にテントにもひっきりなしに人がお越しになりました。これぐらい来てくださるとやりがいもあるというもの。

 午後は法会を失礼して、自坊の「メダカの学校」。

 参加された皆さんのお書きになった写経をインドに納めるべく、年末よりご案内していましたが、今日がそのリミット。結局、50名ほどの方の写経を携えて、明日よりインドへ向かうことになりました。

 95年に「メダカの学校」を始めて以来、これまで比叡山、中国の天台山に納経し、今度はインドへ納めます。
 「三国伝来」「三国相伝」などと、仏教が伝わってきたインド・中国・日本のことをいいますが、その3つの国に写経を納めることになるわけで、大変意義のある、嬉しいことだと思います。

 新しい建物が建ったのを機に、いろいろな方が来ていただきたいと思って始めた「メダカの学校」にとって、とても記念すべきことです。


 夜は必死で荷造り。何か大きな忘れ物をしているようにも思うのですが・・・後は、出たとこ勝負です。

 さて、行ってきまぁ〜す!

〜 インドへ納める写経 〜
2007年2月3日(土)  No.1300

節分会日数心経
 今日・明日は、本堂で節分会の日数心経読誦法要。30分交代で、2日間掛けて向こう1年間365回の般若心経を唱える法会です。

 以前は少ない人数で、1時間交代で、夜まで唱えざるを得ませんでしたが、最近は人数も増えたので、すっかり楽になりました。

 一人ずつ読経しているのを聞いていると、その僧の癖や傾向がよくわかります。性格も反映されている気がします。
 さて、ボクの読経はどんなふうに聞こえているのでしょう? 典型的なB型風?

 本堂前の接待用のテントにも出番を待つ僧侶がたくさんいて、お参りの方が入って来にくいほど。テントは若い僧たちに任せ、ボクは更新の写真を撮ったり、自坊で文章を打ったりしながら、時間が来たら上堂するようにしました。

 今日は雪のお陰で更新用の写真も早く撮ることが出来て、8時前にはアップロード完了! 旅行前になかなか出来なかったらしんどいなぁと思っていましたが、助かったぁ。

 さぁ、荷造りは明日にして、今日は早めに寝ようっと。まずは体調管理最優先!

〜 自室から見た塔頭の屋根と神楽岡 〜
2007年2月2日(金)  No.1301

東山聖天大般若
 東山の聖天さんで大般若転読会の法要。このお寺は、2・5・9月の1日に大般若の法会があります。

 法要が終わって、いつもお手製の精進料理をいただきます。質素なものですが、これが本来の姿なのだろうと、とても清々しい気持ちがします。
 ただ、尼寺のせいでしょうか、麩饅頭や大きな栗を甘く煮たものが丸ごと2つ入っているなど、ちょっと最後がキツイ・・・。有り難く頂戴します。

 朝、昨日の時計屋に行ったら、部屋の電気も作業場の手元の照明も煌々と点いているのに、入り口は閉まったまま。呼び鈴はなし、戸を叩いても反応がないので、また出直すことにしました。

 夜6時過ぎに再訪。主人は店の奥の部屋のこたつにうつぶせの半身を入れたまま、顔をもたげてこちらを見ました。こたつの上には、お椀が一つ。「粕汁にお餅を入れて召し上がったのかな?」 そんな想像をかき立てられました。仕事場の手元の明かりは点いたままでした。

 のそっと起き上がって店に出てきたご主人に、昨日時計を預けた誰某だと申し出ると、主人は商売人の顔に変わり、こたつの側のテレビの下あたりから時計を取り出しました。
 ボクが「おいくらですか?」と聞くと、3つの時計をくくりつけたエフの針金を外すのに難儀しながら、3500円と答え、「この(登山用)時計は電池が2ついりますので」と説明してくれました。

 財布には3200円と1万円札しかなく、釣り銭がなさそうな気配だったので、車へ300円を取りに行き支払いました。

 登山用の時計の高度計などはおそらく正確ではなくなっているでしょうが、どうせ気圧で変わってきますから、問題はありません。こんな重宝な時計屋さんがあるだけで、感謝感謝です。

 満足して帰り着いた境内には大きな月が出ていました。
2007年2月1日(木)  No.1302

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