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2006年4月の日記

ハードディスクのクラッシュ
 午後から、白山吹の実生苗を地に降ろす作業をしました。

 苗は2年ほど前に蒔いた種が芽を出したもので、まだ15センチぐらい。踏まれたりする可能性もある地に降ろすにはかわいそうなぐらいでしたが、ビニール鉢に入れていても水やりを忘れたりしてしまうので、まだ降ろしたほうがマシかも。また、何本かは盗られてしまうでしょう。

 植え付ける作業をしていたら、今満開の白山吹を指して、花の名を聞く人が何人かおられました。

新しく出た若葉と白い花のコントラストが、とても美しいです。早く大きくならないかなぁー。


 庭作業を終えて自室に戻ったら、パソコンから「シャァシャァシャァシャァ・・・・ シャァシャァシャァシャァ・・・・」という音が聞こえていました。

 「あっ、あかん」と思って、操作をしてみましたが、3つあるドライブのうちの一つにアクセスできません。ハードディスクのクラッシュです。
 幸いメインのドライブではなく、毎日、データーを自動的にバックアップするのに使っていたドライブ。でも、「もし今、メイン・ドライブがクラッシュしたら・・・」と思うと、不安でなりません。

 夕食にワインを飲み、少しいい気分になりながら、他のパソコンのDドライブに使っていたハードディスクの領域確保とフォーマットをやり直し、クラッシュしたハードディスクと換装。データーをバックアップしました。

 40Gのハードディスクのフォーマットと30Gほどデーターをバックアップするのに、延々2時間以上かかりました。


 ボクのパソコンも、2000年に自作してから、もう丸6年近く働き続けています。画像を処理する時はちょっとイライラしますが、他は別にまったく問題なし。でも、こういうことがあると、そろそろ後継機のことを考えないといけないかなぁと思います。
 自作は面倒なので、DELLかなぁ。少々チャチだけど、安いですし。

〜 清楚な白山吹の花 〜
2006年4月30日(日)  No.987

恒例、春の大文字
 薄曇りながら、大文字山に登ることにしました。去年は19日に大文字に登り、その帰りにさくらを拾って帰ったのでした。

 出かける前にネット検索をしたら、今日から蹴上の浄水場の一般公開が始まる様子。
 鹿ヶ谷から登って、蹴上に降りることにしました。

 自坊から「大」の火床までは、ゆっくり登っても1時間とかかりません。法然院の裏山では、鶯がよく鳴いていました。

 「大」の中心から見る市内は、やはり少し霞んでいました。休日とあって、登ってくる人も多く、銀閣寺のほうから登ってくる集団のかけ声が次第に近付いて来るのを感じました。

 弘法大師にお参りして、混雑が予想される火床を発ち、「大」の天辺へと移動しました。振り返ると、道着を着た若者が次々と着いていました。
 パンとスポーツ飲料をお腹に入れ、さらに上を目指しました。

 途中、ミツバツツジの鮮やかな色が目に飛び込んできました。今年は登る時期が少し遅く、ミツバツツジは諦めていたので、この色に出会えたのはとても嬉しかったです。

 歩いていると、どうも靴が変な感じです。「ひょっとして・・・」と立ち止まって見てみると、案の定、靴底が剥がれかかっていました。
 ソールが剥がれるのは登山の時には時々あることで、普段なら、その時のための細いワイヤーなどの非常用具を持っているのですが、今日はカッパさえ携帯していません。
 紐や針金などを探しながら歩いていたら、髪留めのゴムが落ちていたので、とりあえずそれで応急処置をして、また歩を進めました。

 標高466メートルの大文字山の三角点には、10人ほどの人が既にいて、大きな声で話していました。
 ウエスティン都の下の浄水場あたりを眺めてみましたが、花の色はまったく見えません。「おかしいなぁ。咲いてないのに公開しているのかなぁ」と思いつつ、騒がしいその場をすぐに去りました。

 そこから蹴上に向かっては尾根に近い道が多く、京都市内や山科を左右に見ながら、ミツバツツジの赤紫、新緑の萌黄色に溢れる道を軽快に歩きました。

 やはり休日のためか人が多く、すれ違う人もしきり。「こんちわぁー」と声をかけても知らんぷりする人や落ち葉の積もった上で煙草を吸う人など、休日らしい“ストレス”がありました。

 大文字山にはたくさんの道があり、コース取りは自在に選べます。あまりメジャーなコースより、人の踏み跡を追いながら歩くような道のほうが好きなのですが、今日は蹴上という目標があるので、コース選びに迷いはありませんでした。

 日向大神宮近くで、「伊勢遙拝所」という道標を見つけ、鉄塔の下を通ってそちらへ寄り道しました。
 まもなく小さい頂上と思われる広場の、玉垣の中に大きな石の鳥居が建つ場所に着きました。鳥居の下の中央には榊が植わっていて、「伊勢大神宮遙拝所」という石碑が建っていました。
 「この鳥居に正しく面したら、向こうにはお伊勢さんがあるのかなぁ」と目前に見える茂みに疑いを持ちながらも、遙拝をしました。

 もとに戻って石段を下ると、日向大神宮。ここを訪れるのは初めて。外宮、内宮、天の岩戸などを巡り、帰りに説明書きを見ると、この神社は顕宋天皇の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたとのことでした。
 帰ってから調べてみると、同社は、江戸時代以降、「京の伊勢」と京の町衆や旅人から親しまれ愛された神社だとか。遙拝所があった意味もうなづけました。

 山科からトンネルをくぐってきた疏水の橋を渡り、正面に浄水場を見ましたが、公開している様子はなく、誰も人がいません。

 疏水を設計した田邊朔郎博士の銅像を見ながら小休止し、インクラインの線路を下って脇に逸れ、小学校の頃に泳いだ「南禅寺のプール」らしき前を通って、煉瓦造りのトンネルの人道を蹴上に出ました。

 正面には浄水場のゲート。「出店禁止」という看板はあれど、「本日公開中止」という告示はないままにゲートは閉まっていました。
 「やっぱり、咲いていないから公開を延期したんだなぁ。それにしても、延期するとも書いてない。不親切だなぁ」と思いながら、地下鉄で三条京阪に出ました。

 三条京阪の地下で靴の修理をしている店で、靴底の剥がれを修理するの20分かかると言われてやめ、地上にある旭川ラーメンの有名店に行きました。昨年、さくらを拾った時以来です。
 店外に並べられた床机で8人が待っていましたが、回転が速そうなので並び、10分もしないうちに店内に招かれました。
 「せっかく脂肪を燃焼したのに、これでまた蓄積することになるなぁ」と思いつつ、塩ラーメンを一気に食べました。

 また猫を拾ったら大変なので裏参道は避け、黒谷を経由して帰着しました。

 ビールを飲んで乾きを癒しつつ、蹴上浄水場をネット検索すると、Googleで「蹴上浄水場一般公開について−京都市上下水道局−」と表示されたページを見ると、なんと何と「平成17年度」。

 「京都市は、なんでこんなページをそのまま残しておくんだよ!」と腹立ちながら、「またやっちゃった」と苦笑いしました。

〜 「大」の火床から見た京都市内 〜
2006年4月29日(土)  No.986

那須高原ビール
 那須高原にいる20年来の友人トミーから、ビールが届きました。

 夜にでもお礼の電話をしようと思っていたら、夕方、先方より電話がかかってきて、「あのビール、冷やしちゃダメだよ。がぶ飲みするんじゃなくて、チビリチビリ飲むんだよ」と飲み方のレクチャーまでしてくれました。

 スコットランド人と日本人を親にもつ彼は、見かけはケンタッキーのサンダース翁。彼とボクは、とあるワークショップのスタッフとして知り合い、その後、彼は同じくスタッフだった女性と結婚。その頃からもう20年ほど経つものの、その後は17〜18年も会っていないのです。そんな彼も、今年還暦とか。

 去年は彼らの男の子が、そして先日は女の子が、高校の修学旅行で真如堂を訪ねててくれました。本人たちはちっとも来ないくせに。

 そんなに長く会っていなくても、何かあると、お互いに全幅の信頼を置いて、相手に頼んだりすることができる。頼まれたら、誠心誠意できるかぎりのことをする。

 京都の高校の校長であったシスターに尽力していただき、東京の末期がんの中学生のために“入学許可証”を発行してもらうことができたのも、彼からの依頼が発端でした(2004年12月18日の当ページ)。

 あの時、シスターはボクの依頼に対し、「わかった。何とかします」とだけ言って、何の疑いをはさむことなしにすぐに動いてくださり、おまけに東京まで行って、その中学生に制服を手渡してくださいました。

 トミーもシスターも、多くを語らなくても心底理解し合える、数少ない人です。

 そんなトミーが、家のすぐ近くに工場があるというこのビールについては、ことさら饒舌でした。

 そして、彼の言葉に従って冷蔵庫で冷やすのを止めて飲んだビールは、いつもの彼の言葉通り嘘偽りなく、ほろ苦くて本物の味がしていました。

〜 がぶ飲みできないビール 〜
2006年4月28日(金)  No.985

百年の計
 少々小雨が降っていましたが、バイクで月参りに出かけました。

 2軒回った後、西陣のお寺に咲いている「御衣黄」を見に行きたいと思ったのですが、お寺の回りは道が狭いらしく、バイクのほうがよいとのこと。

 雨雲レーダーによると、どうやら雨もまもなく上がってきそう。少し濡れましたが、案の定、まもなく雨は上がり、日が差してきました。バイクで出かけて正解でした。

 それにしても、雨雲レーダーによるボクの降水予想は、実によく当たります。気象予報士になれるかも。

 御衣黄は、7分咲きの頃は緑っぽく、満開になると中心部などが紅くなってくると聞いていました。
 西陣聖天さんの御衣黄もその通りで、すでにほとんどの花弁が紅を帯びてきていました。

 なるほど面白い桜で、洋花のようにも見えます。

 それにしても、このお寺はいろいろな種類の桜が植えてあったり、枝を伸ばした松があったり、牡丹の花が咲いていたりと、少々パラダイスっぽい感じ。

 「これは当代のご住職の仕業か、それとも先代さんがお植えになったのだろうか?」と、ふと考えました。

 「ボクが自坊にいろいろな木を植えても、大きくなるのはおそらく次の代。百年の計を立てて木を植えないと、ダメだなぁ。自分で植えた木をたくさんの人が見に来てくださる様子を見たいなぁ・・・」と。

 いろいろ桜を見ましたが(そんなに見てないか・・・)、やっぱり桜は江戸彼岸に限る、そう思いました。

 でも、多少なりとも見栄えのする江戸彼岸になるには最低100年。これはますます見られません。

〜 西陣聖天さんの御衣黄 〜
2006年4月27日(木)  No.984

きれいさっぱり洗車
 車があまりにも汚いので、起き抜けに洗車をしました。

 洗車は、去年の8月にディーラーでリコールの修理をして貰って以来。自分でするのは・・・記憶にありません。

 この時期の車は、杉花粉と黄砂の混じった物が車をベールのように覆い、それをモミジの蜜が定着させ、さらにモミジの細かい花粕がいっぱい付いて、もともとは青い車が何だか複雑な色合いになっています。
 フロントガラスには、いくらウォッシャーで拭おうとしても取れない鳥の糞が付き、リアガラスは磨りガラス状。

 「こんな車に乗るのは恥ずかしい」。先日来そう思っていたのですが、とうとう今朝我慢できなくなって、思い立ったのです。

 実は、夕べ、ガソリンスタンドの洗車機で洗ってみようかと思い、こっそり洗車機を覗いてみました。いまだに洗車機を使ったことがないボクは、あの機械をどう使ったらいいのかわからないのです。
 乗ったまま洗車すればいいという人もいれば、横で洗車される車を見ている人もいます。ボクのいつも行っているセルフのスタンドはどっち?

 洗車機にかけて、車が出てこなくなったら困るので、やっぱり手で洗うことにしたのです。

 愛車は洗うに従って輝きを取り戻し、地中海の海の色が鮮やかに蘇りました。

 綺麗な車に乗るのって、ホント気持ちがいいですねぇ。でも、掃除は車内にまでは至らず、ダッシュボードなどはまだ黄砂のベールがかかっています。ここも綺麗にしなければいけません。
 と思いつつ、また1ヶ月、2ヶ月、半年と経ってしまうのでしょうね。


 今日は、遠方で葬儀〜初七日、夜は町内会と、いっぱいいっぱいでした。

〜 綺麗さっぱりした車と新緑 〜
2006年4月26日(水)  No.983

尼崎JR脱線事故より1年
  尼崎JR脱線事故から1年。改めて、事故の大きさとその影響の広さ、遺族の悲しみ、怪我をなさった方々の苦しみなどに思いを馳せました。

 あの事故をきっかけにJR西日本は変わったのでしょうか? 職員のアンケートを見ても、変わったようには思えません。

 JR東日本でも、昨日、山手線などの線路が隆起する事故がありました。「鉄道は安心」という根拠は、もう何もありません。空の安全もどんどん崩壊しつつある気がします。

 慰霊式で、JR西社長は「安全を積み重ねることが犠牲者と遺族に報いる唯一の道」と挨拶をされましたが、「本気でやってくださいよ」と願うばかりです。


 事故で亡くなった方、自殺、子供の葬儀をする時は、いたたまれません。

 「もし、ボクがあの事故で犠牲になった方の葬儀をすることになっていたら・・・」。嘆き、悲しみ、拒絶、怒りなどの感情が交差するその光景の中で、自分に何ができただろうと考えると、暗澹たる気持になってしまいます。

 今夜は通夜が2座重なり、住職と手分けして勤めました。ボクが勤めさせていただいたのは、101歳になられるおばあさんでした。天寿を全うできることは、なんと有り難いことでしょうか。

〜 カエデの赤い葉、もみじの黄緑の葉、空の青 〜
2006年4月25日(火)  No.982

常照皇寺
 一本桜を巡る小旅行。そのしめくくりは「荘川桜」にしたいところですが、今年は見頃が遅れていて、5月の連休頃になる模様。ちょっと無理かなぁ。

 ということで、去年の春、京都市に編入された元京北町の常照皇寺の桜で、締めくくることにしました。

 「京都市右京区京北町」。昨秋の紅葉期、京都市内のホテルがとれず、ここ京北町の民宿に泊まる予定を立てられた方がおられました。「京都市」が付いているのでさほど遠いと思われなかったのでしょうが、京北町は市内中心部から行くのに1時間はかかる山里。バスで行かれるというその方々に、「やめたほうがいいです。大阪か大津のホテルにされたほうがいいですよ」とアドバイス申し上げたことがありました。

 高雄付近のミツバツツジを車窓から楽しみ、北山杉の山並みを抜けて、常照皇寺に着いたのは9時過ぎ。すでに4〜5人の方がお参りされていました。

 常照皇寺を訪れるのは、実に35年ぶりぐらい。一昔前は、知る人ぞ知る片田舎のお寺でしたが、当寺の桜が有名になるにつれ、春になると必ず名前を聞くようになりました。35年前の桜の印象は何も残っていませんでした。

 方丈の前に享年400年の「御車返しの桜」、開山堂の前の庭に樹齢650年の「九重桜」とその若木2本、樹齢150年の山桜「左近の桜」が植わっていて、「御車返しの桜」以外は、盛りを過ぎながらもまだ花を楽しませてくれました。

 さほど広くない開山堂の前庭に4本もの桜が植わっているため、「九重桜」の古木の姿が他の桜に紛れていて、少し残念。

 枯れた時の用心のために若木を植えられたのでしょうが、古木は不定根を出し、自らの再生を図っていました。まだ、安心してみられる感じではありませんでしたが、不定根が育つに従って、古木は勢いを盛り返すでしょう。

 650年という歴史の中で、そうして再生するのは今回が初めてではないのかも知れません。

 南北両朝の渦中、山里へ身を移した光厳天皇の厳しい暮らしを慰めるため、皇弟光明天皇が都から持参して共に御手植えされたという「九重桜」。“雄姿”とか“荘厳”という言葉は今の樹姿からは思い浮かびませんが、品格のある、静かな桜でした。

 染井吉野が一斉に咲き、此の世の春を演出するのに比べて、絶えることのないエネルギーをひそませながら、饒舌ではなく静かにいのちの営みを語ってくれる一本桜。
 実に素晴らしい木々たちでした。ありがとう。

〜 幹の大部分が虚になっている九重桜(左)、左近の桜(右端) 〜
2006年4月24日(月)  No.981

麗しきは新緑
 月参り2軒、納骨法要1座、葬儀〜初七日と、今日は久しぶりに坊さんに徹した1日でした。やればできるじゃん!

 日に日に若葉が伸びて、色が少しずつ深まっていっています。晴れた日に青葉の間から漏れてくる日を受けながら、昨年の秋の枯れ葉を踏みつつ歩いたら爽快でしょうねぇ。
 山歩きの癖がウズウズしてきそうです。

 でも、ここのところ、食欲が絶好調。

 今日、衣を着ながら姿見を見たら、あまりにも丸顔になっているのにビックリ! むくんでる? 腫れてる? いや、光線の当たり具合? それとも単純に太った? 我ながらショック。内臓脂肪も、冬の間にため込んで分厚くなっているでしょう。

 これでは山どころか、平地でも歩けません。膝の負担も大きいでしょう。

 鏡がオソロシイ・・・。痩せなきゃ。

〜 緑が美しい。でも・・・ 〜
2006年4月23日(日)  No.980

タンポポに和洋の別あり
 自坊の前のタンポポが外来種だったのを切っ掛けに、境内のタンポポを見て回りました。

 何のために? 特段の目的はなかったのですが、ただ「どうかなぁ・・・」と。

 三重塔、鐘楼、本堂と見て回りましたが、ほとんどは日本種。何となくホッとしました。

 境内にある池などは、誰かがブラックバスなどを放したために増えてしまい、鯉などの稚魚が被害を受けています。

 タンポポの種が飛ぶのはやむを得ませんが、これからは外来種を見たら繁殖しないように花を摘むようにしようかなぁ。日本種が消えてしまわないように。

 寝ころんで写真を撮っていたら、変な目で見られました。

〜 日本種タンポポ 〜
2006年4月22日(土)  No.979

セーター交換作戦
 さくらのセーターを、1歳になったのを機に交換してあげました。

 拾ってきた時にさくらをくるんで以来、ずっとさくらが愛用し、母親の乳房代わりに吸ってきたセーターです。

 さくらは、前足で踏み踏みしながらこのセーターを吸っている時がきっと安心なのでしょう、ゴロゴロと喉を鳴らし、そのまま寝てしまいます。

 でも、そのセーターも1年経ってご覧の有り様。もう、どこが袖で、どこが胴体なのかさえもわかりません。

 朝、虫の食ったカシミヤのセーターをさくら用に降ろし、古いセーターが入っている籐籠の中に入れておきました。ゴロゴロ声が聞こえたので、籠の中を覗いてみたら、さくらは新しいセーターを足踏みしながら吸っていました。

 セーター交換作戦はすんなり大成功! 古いセーターを籠から出して掃除し、クッションや新しいセーターと一緒に入れてあげました。

 これからは、新しいセーターがさくらの安心できる場所を作ってくれます。

 セーターもいい素材のものでないと気に入らないみたい。ユニクロ製ではダメでした。

〜 1年間のお勤めご苦労さま 〜
2006年4月21日(金)  No.978

初・修学院離宮
 遠来の客人に誘っていただき、修学院離宮に行きました。

 車でわずか10分少々のところにある修学院離宮ですが、行くのは初めて。一度は行きたいと思っていましたが、宮内庁に申し込むのが面倒に思えていました。
 今回誘っていただき、やっと行けました。こういうことでもないと、きっと一生行かなかったでしょう。本当に有り難かったです。

 拝観開始10分前、狭い待合所で離宮の概略を説明するビデオが始まり、終わると同時に、「さぁ〜、皆さん、まいりましょうかぁ〜」とヤケにかるい宮内庁の係員がやって来ました。

 彼が先頭に、後ろにスーツ姿の皇宮警察官が付いて、所要時間1時間20分、「急な斜面の登り下りを含め約3kmほどの苑路をお歩きいただきます」という拝観が始まりました。

 一行は20名程度の老若男女。係員についてゾロゾロと歩きにくい砂利道を歩き、下・中・上の離宮を巡ります。

 途中、その係員が要所要所で説明を加えてくださるのですが、「ここは江戸時代の末期に改修を加えていて、創建当時の姿ではないのですよ」「苑内にある棚田の作り手が減ってきているのです。本当は畑じゃなく、水田風景がありがたいのですけどねぇ」などと、嘆くというか、愚痴というか、腐すというか、そういう口調がいやに多かったです。
 参道の両側などにある松が、とても邪魔な感じがしました。

 「1時間20分とはずいぶん長いなぁ」と思っていましたが、実際に回ってみると結構早いペース。ゆっくり見ていたり写真を撮っていると、警察官が後ろから迫ってきて、急かされている感じ。もう倍ほどの時間を掛けて見たかったなぁ。

 午前中の降水確率は80%で、傘をさしての拝観を覚悟していたのに、すっかり青空。嬉しい誤算です。歩くと暑いぐらいでした。

 この離宮を造営した後水尾上皇は、社寺の建築・再建などの勅許を多く出した人で、そのために建築ブームが起きたかと記憶しています。

 これだけ大きな離宮を造られても、上皇は御所から朝来られて夕方帰られる程度だっただろうとか(係員談)。幕府は離宮造営の援助をするなどで、上皇の不満の“ガス抜き”を謀ったのでしょうか。

 お年を召された茜襷の女性が、苑内の手入れをされていました。

〜 上の離宮からの眺望 〜
2006年4月20日(木)  No.977

さくらの誕生日
 今日はさくらの誕生日。

 1年前、大文字山から大津に山越えのウォーキングをした帰り、裏参道の車道で泣いている生まれたての三毛猫を見つけた、それがさくらとの出会いでした。

 見つけたときは泣きもしないので、「これはダメだなぁ」と思って一度はそのままにして歩き出したものの、もう一度元へ戻って帽子に入れて連れて帰り、それから入院して危篤状態を乗り越え、今日で1年。大きく、お転婆に育ちました。

 子供の時に猫に顔を引っ掻かれて以来?の猫嫌い。庭に糞をしに来たり、小池の金魚を食べられたり、鳩が襲われたりと、その後、猫を好きになる要素は何もなく、去年の今日頃までは自他共に認める大の猫嫌いでした。

 それが、最初は仕方なくさくらと一つ屋根の下で暮らすようになり、そのうちすっかり“猫大好き人間”になって、あろうことか猫と一緒に寝るようにまでなってしまいました。我ながら、その変わりようには呆れます。

 さくらも「吾が輩は猫である」などとは思ってなく、いろいろな“口調”でしゃべりかけてきます。ボクが部屋にいるときは、おおかたボクの部屋に来て、寝たり、外を見たり、遊んだりしています。これでかわいく思えない人はいないでしょう。

 ボクは元来頑固で、一度“こうだ”と思ったらなかなか方向転換ができませんが、こと猫に関しては、既成の考え方がまるっきりひっくり返されました。
 だんだん頑固を加速する年頃のボクの視野を広げてくれた、そういったら大げさでしょうか?

 そんなこと考えるのは人間だけで、さくらは久々のテリーヌに大満足して、長〜くなって寝ていました。

 ありがとう、さくら。

〜 夜、トイレに籠城していたさくら 〜
2006年4月19日(水)  No.976

お礼肥
 午後から植木屋三昧。

 今年の桜は実に長い間咲いています。染井吉野は、風が吹くといっせいに散ってきますが、まだお花見の雰囲気が楽しめます。

 それより一足先に花を終えた縦かわ桜や枝垂れ桜に、お礼の気持ちを込めて、即効性の肥料をあげました。若葉を広げる力になればと思っています。

 今年は椿の咲き具合があまり良くない気がします。霊鑑寺の特別公開に行かれた人から、思わず「これから咲くのですか?」と係の人に尋ねたと聞きました。

 境内の椿は少し花の数が少なく、また花の中の雄しべなどが茶色くなっているものが多く、近付いてみると何となくスッキリとしません。

 自坊の玄関前に私が子供の頃以前からあった牡丹のような花の咲く椿が、どんどん枯れてきて、今日は主な幹や枝の何本かを切りました。

 毎年同じように春は巡ってきますが、1度として同じ春はない。遡ると、同じ冬・秋・夏がなかったから、今年オンリーワンの春が巡ってきているのでしょう。

 今日あげた肥料が巡り巡って、また素晴らしい花を見せてくれますように。

〜 葉桜になりつつある縦かわ桜 〜
2006年4月18日(火)  No.975

一本桜と観音の旅
 お天気と寺務の空きが合いそうだと数日前から計画していた「一本桜の日帰り旅行第2弾」。今回は琵琶湖の西〜湖北を巡る「一本桜と観音の旅」です。

 8時前に自坊を出発し、大原を抜けて、途中、かつて出征兵士の無事帰還を祈る人々で賑わったという還来神社と、戦国武将の六角義賢が母の供養のために造立したという鵜川の石仏に立ち寄り、湖国路を高島市へ。
 「高島市」。隣県とはいえ馴染みのない市名なのは、今年の1月に元「高島郡」にあった6町村が合併してできた市だからです。大津市の北、西は比良山地を越えれば京都府、北は福井県に接し、東は琵琶湖。滋賀県の中でも冬季の寒さが厳しく、積雪量の多い土地です。

 先ずは、元今津町にある酒波寺へ。この寺や桜のことは、今日の旅行の下調べをするまで、まったく知りませんでした。


 数百メートル離れた田圃の中からも、山肌に他の桜より大きく見える酒波寺の桜の見当がつきました。
 開基は、740年、行基菩薩。山腹の傾斜地に、本堂・書院・庫裏・護摩堂・鐘楼などが建っていますが、現存する建物は江戸期以降のもので。山間の一軒寺という寺容。
 寺名は、昔、周囲の谷川に村人を困らせる大蛇が棲んでいたのを、酒を呑ませて退治をしたことによるとか。この寺の西北にある「三十三間山」はかつてこの寺の領地で、その名は三十三間堂の用材を切り出したことに由来するとも言われています。

 平成14年の調査では、元今津町内の平野部には樹齢が10〜400年ぐらいの樹江戸彼岸が135本も確認されたそうですが、酒波寺の桜は樹齢400〜500年とか。

 桜は60〜70段ある石の参道の中腹に立っていました。枝が張っているというよりはスクッと伸びているという感じ。かつて日当たりが良くなかったのかなぁと想像される樹形ですが、裏手には生きたまま大きく裂かれた枝の跡があり、雪のせいで枝が折れてしまうことも考えられました。言われている樹齢より若く見えました。

 参道の下からは見上げるように、石段を上がった山門前からは目線の位置に花が見えました。染井吉野より少し小降りで清らかな花です。

 せっかくの一本桜も、多くの人に囲まれた雑踏の中にあると、「会話」が出来ない気がします。ここは、ボクと入れ違いに帰った人が1人。少し遅れて、参道の向こうから写真を撮っていた人がいた他は、シーンと静まりかえり、充分な「会話」が楽しめました。帰るときには、初老の女性2人が三脚を持って駆けつけ、手に手にゴミ挟みを持った10人ほどの人がマイクロバスから降りて、ゴミを掃除し始めました。グッドタイミング!!

 せかっくの桜を一部隠してしまうように、杉の植林が迫っていたのが少し残念でした。


 続いて、今回の旅の名称には入っていないものの、目的の一つだったカタクリの群生地を見に、マキノ高原の「近江かたくりの里」へ。例年、3月下旬〜4月中旬が見頃というのに、今年は開園がどんどん先送りされて、やっと13日に開けられたところでした。

 滋賀県の風景とは思えないようなメタセコイヤ並木を少し車で走り、受付へ。聞くと、かたくりの里には駐車場はなく、1.6キロ?ほどもあるとか。時間短縮のためにレンタサイクルを借り、メタセコイヤ並木の下を疾走。並木から逸れて川沿いを立ちこぎしながら遡り、ようやくかたくりの里の受付にたどり着きました。息絶え絶えでした。

 雑木林の中に、約2万本ものかたくり群生するという、近畿随一の群生地。残念ながら、咲いているのはまだごくわずかでした。
 でも、反っくり返った紫の花が風に揺られている姿は、「早春の妖精」とも言われるのもうなずけます。

 さすがにここでは、三脚を低く構えて寝そべり、必死に写真を撮る写真翁たちの姿が見られました。

 帰り道は下り。鳥になったような気分で、一気に車のところまで帰り着きました。山にはまだ雪が残っていて、自転車で飛ばすと、ちょっと寒かったです。


 次は一本桜の2本目、車で10分ほど走った海津の町外れにある「清水の桜」。樹齢300年以上の江戸彼岸で、高さ16メートル、幹周り6.4メートルで、滋賀県自然記念物にも指定されている県下最大級の桜。

 近くまで行くと、国道脇の桜に通じる道は車で溢れていました。何とか空いている場所を見つけて車を駐め、100メートルほど歩くと、すぐにそれらしい桜が見えてきました。

 しかし、遠目にもその桜が期待していたより小さいことがわかり、ちょっとガッカリ。
 さらに近付いてみると、「清水の桜」は墓地の一角とも言える道端に立っていて、「スクッと」と表現した酒波寺に比すれば、「ずんぐり」という印象でした。

 花は満開をやや過ぎていましたが、染井吉野よりはピンクがかっていました。側の案内板には「3・4分先の頃には樹全体が燃えるような深紅のかたまりとなり、秋の紅葉と共に他に比類のない巨名木である」と書いてありますので、時期としてはもう1週間ほど早ければよかったのかも知れません。

 桜の全体写真と撮ろうとすると墓石や人が必ず入ってしまいます。物売りこそ出ていませんが、少しざわついた雰囲気で、ボクの期待する「孤高の樹」のイメージとは少し離れていました。


 車をバックさせてターンできるところまで移動し、国道を少し戻って、海津大崎へと左折しました。曲がった途端に渋滞の最後尾に繋がってしまい、歩く方が早いようなスピードでしか進みません。車の上や左右は満開の染井吉野、右手に広がる琵琶湖。これ幸いと、お弁当を出して頬ばりながら牛歩で進みました。

 海津大崎の桜は「日本のさくら名所100選」にも選ばれ、 樹齢60年を越える600本の染井吉野が延々4キロにわたる桜のトンネルをなしています。キラキラ光る琵琶湖を背景に、風光明媚なことこの上ありません。

 道路脇の縦列駐車の車列に空いている場所を見つけて駐め、湖岸を少し歩いてみました。空き地には露店が並び、いたるところにお弁当を広げる人たちがおられました。
 琵琶湖には観桜船が出て、湖上から桜見物に興じようという人を楽しませているようでした。

 歩いてみても景色に代わり映えはせず、人も多い上に、ゆっくり進む車の中から桜を見るほうが見ごたえがあると感じ、また車に戻って、渋滞の列に進行を任せました。
 進むに従って車列のスピードは上がり、やがては湖岸の桜並木をドライブするように様変わり。「染井吉野は堪能した」と言いたくなる頃、湖岸沿いの道から逸れることができました。


 賎ヶ岳によって琵琶湖と隔てられている余呉湖。ここは天女の羽衣伝説が伝わるのとは裏腹に、賤ヶ岳の合戦の激戦地となった場所。特に見るものもなかったので、写真を1、2枚撮って次を急ぎました。


 これからの目的は、湖北の古寺巡礼。先ずは、木之本町へ。木之本にはかつて北国街道が通り、いまも本陣跡などが残っていたりして、宿場町の面影を残していました。

 木之本町は地蔵さんの門前町。木之本地蔵さんは、むかし大阪湾に流れ着いた本尊を祚連上人がこの地に祀ったと伝える日本三大地蔵の一つ。眼病にご利益がある仏さま。残念ながら秘仏で、直接はお目にかかることはできませんでした。

 よく「日本三大○○」というのがあります。真如堂の阿弥陀さまも、「日本三如来」の一つ。黒谷の文殊さんも、「日本三大文殊」随一。これって誰が決めたのでしょう? 


 木之本町や高月町には、古い観音さまがたくさんおられます。しかし、事前の下調べでは「月曜日定休」というお寺が多く、行きたいお寺の何軒かは諦めざるを得ませんでした。定休日なんてあるんだ・・・。

 続いて、己高閣・世代閣へ。ここは廃寺となった行基が開基した鶏足寺や戸岩寺などの仏像が収蔵されている宝物館。
 己高閣に着き、戸を開けようとしましたが閉まっています。おかしいなぁと思っていたら、近くの建物から老人が出てきて鍵を開け、テープのスイッチを入れてくださいました。
 見終わったら、「あの人に付いていってください。次をご案内しますから」と言われ、言葉に従って老人に着いていくと世代閣へ。ご老人はすぐに別室に入って戸を閉め、またもやテープのスイッチを押してくれました。
 収蔵されている仏さまは、十一面観音菩薩や薬師如来、十二神将など、奈良時代・平安時代の仏像を含む約90体。魚藍観世音立像は『最澄と天台の国宝展』で東博へ出張中でした。

 案内してスイッチを押してくれたご老人たちは、いずれも地区の方々のようで、交代でここに詰めておられるようでした。
 両館を出て、境内を散策していたら、別のご老人が近付いてきて、別のお堂を覗くように勧められました。傷みの激しいお堂を覗くと、大きな大日様やお薬師様がおられてビックリ! その偉容もさるものながら、「こんなところに・・・」と、盗難に遭わないのかと真っ先に心配になりました。

 湖北のお寺には実に古い歴史があり、存亡を繰り返しながら、多くは失われ、あるいは今に守り伝えられていて、計り知れない奥深さを秘め持っていることをまざまざと知らされた思いがしました。すばらしい・・・。


 最後は、ずっと拝したかった高月町・渡岸寺の十一面観音。拝観時間は4時までと、30分しかありません。急いで受付をして本堂に向かうと、係の人が説明されていました。

 真ん中に観音様、向かって左に大日如来、右に阿弥陀如来。仏像は、文化庁の許可が出たら、本堂の左に建てた収蔵庫に移す予定だとのことでした。
 説明をされているのは、やはり地元のかたのようで、いかにこの観音様が素晴らしいかを、他の観音様を引き合いに出しながら説明されました。
 もともと天台系の寺院だったのが、今は浄土真宗の寺院となっているのも、何だか気にくわない様子。確かに、真宗では観音様はお祀りできず、ただ「宝物」としてしか扱えないのではないでしょうか。

 この十一面観音が有名な最大の理由の一つ、本面の真後ろの暴悪大笑面は、この本堂で拝観している間は拝することはできませんでした。事前調査でわかったえいましたが、遠目に横から拝むと暴悪大笑面の口元の様子がわかり、残念ながらも満足でした。

 十一面観音は平安時代初期の作。信長がこのあたりの天台系寺院までも焼き討ちしようとしたために、村人たちは観音像は土中に埋めてかくまったとか。このあたりの民衆がいかにこの観音像を守ってきたか、そして現在も寺がというよりは、周辺の住民の皆さんが変わらず守り続けておられるという印象を強く持ちました。

 寺の隣の「観音の里歴史民俗資料館」は、やはり月曜日休館。暴悪大笑面が拝めるようになった頃の月曜日以外に、ぜひともまた他のお寺と併せて拝みに来たいと思います。


 さて、今回の「一本桜と観音の旅」もここまで。帰りに、お市の方が湯治をしたという長浜の須賀谷温泉に入り、帰路に就きました。

 考えてみれば、琵琶湖大橋以北の琵琶湖を1周した、日帰り大旅行でした。

 あーーーーー、書くのに疲れたぁ。
 
〜 酒波寺の桜/清水の桜 〜
2006年4月17日(月)  No.974

水に流そう・・・
 午後から久々の“植木屋”。「風邪気味ぐらい、体を動かしたほうが早く治るだろう」という逆療法です。

 昨日のこのページにも書きましたが、芽吹きの季節になっても芽吹かない枝が気になっていたので、それを切る作業をしました。

 枝というより幹と言ったほうがいいでしょう。直径20センチある別々の木の幹を2本。1本は中が空洞になっていて難なく切れましたが、もう1本は二股に分かれた木の主幹。やはり中は空洞になっていましたが、切るのは結構大変でした。
 切る時に幹の空洞に溜まっていた水がチョロチョロと流れ出てきました。空洞に雨水が入らないよう、トタンで蓋をしてやらないといけませんが、それはこの次。

 本堂の前の手水の筧の竹が古く汚くなっていたのも交換しました。
 この手水は常時出ているのではなく、ボタンを押して出して貰うようになっているのですが、先日来見ていると、それがわからなくて溜まり水で手を洗っている人がたくさんおられました。説明書きがなくなっていたからです。
 「ボタンを押すと水が出ます」と墨書した板を張り付け、水の出方も微調整しました。

 水琴窟の排水が悪く、音が鳴らなくなってきていたので、壷の中の水をポンプアップして、音が鳴るようにしました。
 どうしてすぐに壷の中が満水状態になってしまうのか、いずれ本格調査しなければなりません。

 樋の水を排水口が飲みきれないのも直しました。樋を外して、その下のパイプを見ると、枯れ葉で詰まってしまっていて、その中からもみじの芽がたくさん出かけていました。

 3時半頃になって雲行きが怪しくなってきたのですが、雨など予想だにせず、石畳の間の草を取り除くために除草剤を撒布しました。
 撒き終わったと思った頃に、パラパラと雨が・・・。すぐに止んだので、「これぐらいなら、効くだろうなぁ」と安堵した尻から、嫌な風が吹いてきて、続いて一気にザァーッと夕立のような雨が降りました。
 除草剤は、「はい、それまーでぇ〜よ」という感じ。

 最後の一仕事は水の泡でしたが、「いろいろ、はかどったなぁ」と満足です。ちょっと動いただけでも息が切れる。体が鈍っているのには不満です。

〜 冬の間に切った桜の枝にも花が咲いていました 〜
2006年4月16日(日)  No.973

風邪を引く
 風邪を引いたのか、朝からどうも意気があがりません。今日も雨の肌寒い日。今年の桜の頃は、あまりにもお天気が愚図つき過ぎです。

 お蔭で、木々はすごく元気そう。地面からは発芽したばかりの小さなもみじが無数に生えてきています。これらはほとんどすべて、しばらくすると消えてしまいます。

 去年の冬、葉を落とした頃に、「この木は来年芽を吹くだろうか?」と心配していたもみじが生き延びたかどうかわかる時期でもあります。

 そういう意味で、春は生死を決する時期、峻別される頃といえるでしょう。

 風邪薬を飲んだら少し症状が誤魔化され、お酒を飲んだら、完璧に“軽快”しました。

 早く寝たほうがいいだろうと11時前には床に就きましたが、夜中にさくらが階下から洗濯物を引き摺り上げてきては走り回ること3度。スーパーボールを枕元で弾ませたり、階段の上から落としては遊ぶこと数回に及び、とても寝た気がしませんでした。

〜 錦林車庫裏、白川沿いの桜並木 〜
2006年4月15日(土)  No.972

山吹盗られる
 薄ら寒い更新日。

 更新の写真を撮りに回り、山吹のところへ行くと、1本の小さな花が倒れているのに気がつきました。

 よく見ると、それと一緒に植えてあった株は引き抜かれたようで、その1メートルほどの株は跡形もなくなくなっていました。盗られてしまったのです。

 今年の2月、大きな山吹を株分けして斜面に移植したもので、移植直後にもかかわらず、健気にも花を咲かせてくれていました。その花が花盗人の目にとまったのでしょう。

 花盗人が家に帰り着いた頃には、山吹の根も乾いてしまっていて、植えても活着しなかったでしょう。

 枝を折られるなんて日常茶飯事、こうして根こそぎ盗られることも珍しくありません。

 「あ、いいなぁ」と思った物は、盗んででも我が物にする。軽い気持からなので、面倒なことは嫌で、ろくに世話もしない。

 犬にも流行りすたりがあって、流行った時はその種を無理にでも交配させて増やすけれど、廃れた時には処分してしまう。無理な交配が、その種が本来持っている性格とは違う、たとえば凶暴性を持ったラブラドールなども生まれてくる・・・・・そんな話を聞きました。

 生き物を、我が欲の対象としか見られない人がいるのが悲しいですねぇ。

〜 風にそよぐ山吹。更新採用漏れ写真より 〜
2006年4月14日(金)  No.971

さくらのカラス観察
 今日はたくさんのカラスが、空を飛び回ったり、塔や本堂に留まったり、木の枝で休んだりしていました。

 こういう時は、お墓に食べ物が多くあるか、何かが死んでいたりするような時で、気持のいいものではありません。

 鳥を見るのが好きなさくらは、いつもの“花見台”に陣取って、1日中、カラスを見ていました。

 あの大きな鳥が目の前を横断したりするのがさすが怖いのか、姿勢は次第に低くなり、首をすくめながらも、目はしっかりカラスを追って、右へ左へ、上へ下へ。

 普段なら物音を立てると振り返ったりするのに、今日は窓の外で繰り広げられるカラスの“運動会”に釘付けになって、こちらが何をしようと気にもしていませんでした。

 暗くなってカラスが帰っていった後、さすがにさくらも疲れたのか、押し入れの布団の上でただただ眠り続け、普段のようにかまって欲しそうに摺り寄って来たりすることもありません。

 ボクが布団のところへ様子を見に行くと、爆睡中のさくらはボクが間近に行ってところで初めて気付いてビックリしたように起き、「うるさいなぁ、邪魔しないでよ」と言わんばかりに「ウッ」と一声うなって、また寝ます。
 この調子で、6時頃から10時頃まで、ひたすら眠っていました。

 ボクが布団を敷こうとさくらの布団を押し入れから出しても、さくらは載ったまま。敷き終えても、さくらはずっと同じ体制で寝ていました。

 ボクが寝るとき、さくらは一っ走りしたものの、案外すんなり寝てくれてホッとしました。

 カラスを見るのは、よほど面白いけれど、かなり疲れることのようです。春だから眠たいということも手伝っているのでしょうか?

〜 押し入れの布団の上でひたすら眠るさくら 〜
2006年4月13日(木)  No.970

一本桜、アテ無し小旅行
 嵐の日が続き、桜もいよいよ終わりかなぁと思ったので、お天気がいいわけでもありませんでしたが、出かけることにしました。

 狙いは一本桜。樹齢100年を超えて、孤高に生き続ける桜です。といっても、とりあえずは山科・毘沙門堂しか今日の目的地は思いつきません。


 9時過ぎというのに、毘沙門堂は大変な人で、車を止めるにも一苦労。NHKの中継をやっていたのと、タクシー10台ほどを連ねた団体が来ていたためのよう。
 高さ約10メートル、枝張り約30メートルで樹齢百有余年、宸殿前の「毘沙門枝垂れ」はちょうど満開でした。

 写真を撮っていたら、初老の男性がボクの足の甲を3回三脚で突きました。ファインダーを覗きながら三脚を立てようとしていたので、ボクの足があるのに気がつかなかったようです。

 着いたときから傍迷惑な行いをしている“三脚翁”だったので、思わず「回りの迷惑を考えない!」と言ってしまいました。いつの時も、どこへ行っても、このような人たちの傍若無人ぶりは変わりません。


 ここだけで帰るのはもったいないし、かといって醍醐寺に駐車場代と拝観料を払う気にはなれません。もう終盤でもありますし。
 「三井寺に行こうかなぁ・・・。海津大崎はまだ早いしなぁ。そうだ、石山寺に行ってみようかなぁ。行ったことないし」と、石山行きを決意。石山は高校時代に好きだった子が住んでいたところでもありました。


 石山寺へ行くのは初めて。さすがに西国の札所だけあって、境内の整備は行き届き、広大な敷地には桜はそれほど多くはありませんが、三ツ葉つつじや牡丹、花菖蒲、もみじなどが植えられて、四季折々楽しめる工夫が施されていました。
 天然記念物の珪灰石の巨大な岩盤の上に建っているところから「石山寺」と名付けられたとか。わかりやすいなぁ。

 『枕草子』には「寺は石山」とありますが、荘厳な伽藍ではなく、木々の立ち並ぶ傾斜地に諸堂が建って、瀬田川を見下ろせるというロケーション、そして御本尊が観世音菩薩という組み合わせが、女性の心を捉えたのかなぁという気がしました。


 続いて、石山寺の南にある「立木さん」に行くことにしました。厄よけ観音として広く知られる立木観音安養寺。ここも前からお参りしたいと思っていたお寺でした。

 石段のとっかかりに、「石段七百余段」と書いた木札がありました。立木さんは登るのが大変だと聞いていましたが・・・。
 しばらく登る度に「四丁目」「三丁目」という石碑が建っていて、本堂に近付いていることがわかりました。
 汗を拭き拭き登りついた本堂のある場所は、わずかな平地があるだけで、それを少しでも広げるためにコンクリートの張り出しが作ってありました。

 本堂は信者の多さを物語っているような雰囲気でした。湯茶接待所で渋いお茶をいただきながら、居合わせた人たちの話を聞いていると、週に3回はお参りするとか。この前まで、90数歳の人が毎日ほど登ってこられていたというようなことでした。


 「このまま瀬田川〜宇治川沿いを通って平等院に行くか、それとも信楽に行くか。桜を見るなら宇治だけど、染井吉野はもういいか」と、信楽に向かうことにしました。
 一本桜を求めて訪ねたそれらしい場所は、毘沙門堂だけ?


 さすがに信楽は遠かった・・・。
 信楽に入ってすぐ、「畑のしだれ桜」という看板が目に付きました。何だろうと、不親切な案内板に翻弄されつつようやく辿り着いたところにあったのは、遠目にはまだまったく咲いてもいない枝垂れ桜でした。

 木の側の立派な口上書きには、この桜が平安時代後期に平家の落人が都を忍ぶために持ち帰ったもの。この地にあった寺が織田信長の焼き討ちから再建されたのを記念して植えられたもの。あるいは、家康が江戸と京都を往復するときに休憩した場所に植えられたものという諸説が記され、江戸初期から400年経つので樹齢は400年になるとありました。どの説が本当なのか、400年が本当なのか、よくわからない説明でした。

 今にも朽ちそうな老木が、ふるさと創生事業の一環で桜と周辺が整備され、地区の人の熱意で蘇ったという古木。咲いていたらどれだけ素晴らしかっただろうと悔やまれました。
 でも、もとより信楽に一本桜があるとは思ってもいませんでしたので、この古木に出会えてとても幸せな気分になりました。


 立ち寄った陶器店で、「ちょっと行ったところです。いろいろ楽しめますよ」と紹介された「信楽温泉・多羅尾乃湯」は、信楽よりまだ南の山間を縫い走ること10キロ。「ゴルフをやる人はこんな山中をものともせずに来るのか」と呆れかえるほどの山中のゴルフ場にありました。
 1500メートルも大地を穿って無理やり湧出させたお湯は、少しヌルヌルした弱アルカリ性単純温泉。室内外5つの浴槽とサウナがあって、なるほど楽しめました。
 ゴルフをやった後のような顔をして、入りました。


 山間をぬって信楽に戻り、また山間を走って大津に出、瀬田川畔の京都より遅い染井吉野を薄暗がりの中で眺めつつ、ようやく8時過ぎに帰宅しました。

 ちょっとそこまでのつもりが、丸1日かけたお出かけになりました。これで桜も見納めかなぁ・・・ 畑の枝垂れの満開を見たいなぁ。

〜 「毘沙門枝垂れ」/「畑のしだれ」 〜
2006年4月12日(水)  No.969

夜半の嵐、昼間の嵐
 風切り音を立てる夜半の嵐にさくらがビックリして走り回り、何度も目を覚ましました。少しも寝た気がせず、お蔭で眠たくて仕方がありません。猫はいつでも寝られるからいいですが・・・。

 昼寝でもしようかなぁと思って横になったら、電話。出たら切れるを5〜6回繰り返して止みましたが、ぜんぜん眠れませんでした。
 無言電話は夜にも3回ほどかかってきました。最近、なぜか多いのです。ナンバーディスプレイに替えようかなぁ。

 今夜は昨日に輪をかけたような嵐。まるで台風です。さくら、今夜は寝させておくれよ。


 朝、お参りの帰りに回り道をして、冷泉通の川端〜東大路間の桜並木沿いを走りました。ここは染井吉野と山桜、たまに柳が混植してあって、ピンクや白、そして柳の緑、疏水の流れが楽しめる素晴らしい小径です。

 素晴らしい景色=人が多いというのが普通ですが、ここは景色の素晴らしさに人の数が比例していない珍しいスポット。多くの人は、インクライン・動物園〜美術館あたり止まりで、そこから西にはあまり来られません。

 大荒れの天気という予報に、思わず見ておきたくなりました。でも、横殴りの雨に車から降りることができませんでした。残念。

〜 車中から見た冷泉通の桜並木 〜
2006年4月11日(火)  No.968

精気を吸われ・・・
 ボランティアで一緒だった“お姉さま”たちが、お弁当ご持参で遊びに来てくださいました。

 名目はボクの「お疲れさま会」「お別れ会」「お花見」、一体なんだったでしょう?

 雨のせいもあって外にも出ず、せっかくの満開の桜をながめもせずに、延々5時間、ひたすら食べてはしゃべり、お茶を飲んで、御菓子を食べてまたしゃべり・・・。大いに笑って、有意義で楽しい時間になりました。多くの人がいろいろ疑問や不満を抱えながらも頑張っておられることを、改めて実感しました。

 そのボランティア組織は、キリスト教関係者が中心になって立ち上げ、20数年にわたって人事も寡占していますが、次第に硬直化し、的確に組織をまとめたり運営することができなくなっています。
 そして、それが現場にまで波及し、多くのボランティアの不満となって、次第に参加する人が減ってきています。

 運営や人事にボクが異を唱えることは、彼らにとっては“異教徒”の介入でしかないということも、ボクが“諦めた”大きな理由の一つです。引き際を忘れ、自分の立場を“守る”だけに汲々としている人たちに、一体何ができるでしょう。

 しかし、そんなこととは関係なく、日夜、一心に現場を支えている人たちの努力と苦悩。それがいかに尊いものであるか。ボクが一番大事にしてきたことでもあります。

 ボクがその狭間でスッキリしていない何かを抱えていることを、さすがに“お姉さま”たちには見抜かれた気がしました。

 夜、“精気”抜かれたような心地よい疲れとお持たせのワインの酔いの中で、改めて自分の選択について反芻しました。

 皆さん、ありがとう。

〜 さくらも花見をしているのに、“お姉さま”たちは・・・ 〜
2006年4月10日(月)  No.967

花見人を見る
 午後、高野川畔をカメラを持って散歩しました。

 河畔は両岸ともお花見をする人に溢れ、至るところでお弁当が広げられていました。

 風の強かった昨日とは打って変わった穏やかであたたかい日和。スッキリした青空こそ見えませんが、75点ほどのお花見日和です。

 草の上にしばらく腰を下ろし、おやつを食べながら、対岸の花見客をウォチングしました。

 家族連れ、カップル、職場のグループ? 老人会? いろいろ人たちがごった煮のように、それでいて交わることなく、思い思いの花見を繰り広げておられました。

 独りで座わって頭を抱え込んでいる人が気になりました。桜の花の咲く頃は、苦悩の季節でもあるでしょう。

 どこからともなく3人の男性が現れたかと思うと、持参したキャンプ用の椅子・机を組み立て、机の上に2リットルのお茶のペットボトルと缶コーヒーを出して、“宴会”を始めました。
 回りがみな地べたに座っているのに、その3人だけ一段高い椅子の上。そこまでして飲んでいるのがお茶と缶コーヒーとは。

 人も多ければ、犬の種類も多い。ラブラドール、ポメラニアン、マルチーズ・・・それぐらいしか知りませんが。

 ここで花見をしている大多数は、地元の人でしょう。昨日の御所やいつもの円山公園のように、お酒を飲んで大騒ぎする人もなく、日常から大きく離脱しない範囲で花見の宴を楽しむ人に、安心感をおぼえました。

 さて帰ろうかと、前に出した足の間を見たら、乾いて柔らかさを失った、かといって風に飛ばされるほどでもない、少し黒光りしている糞がありました。あぶなかった・・・

 またしても、ろくな写真は撮れず。染井吉野じゃなぁ。

 明日はかなりの雨降りとか。今日でお仕舞いかなぁ。まだ大丈夫かなぁ。
 
〜 大勢の人が花見を楽しむ高野川畔 〜
2006年4月9日(日)  No.966

プチ探索へ
 午後から、ぶらっと出かけました。「よりによって、こんな花見の人だらけの時に出かけなくてもいいのに」とは思ったのですが。

 先日来、御所の糸桜がいと麗しと聞いていましたので、話についていくためにも一度見ておきたいと思ったのです。

 それだけではもったいないので、以前から資料探しに行ってみたいと思っていた京都市歴史資料館に立ち寄ることにしました。

 バイクに乗ったら10分ほどところにあり、毎日ほど近くを通っている場所です。

 資料館の手前には洛陽教会。この地下で、ボクはラップを歌ったことがあります。
 その北隣には同志社の新島会館。いつか、建て替えか何かで寄付を集めているという郵便が来たことがあります。そこに、同志社の創設者 新島襄夫妻が暮らした、明治初期の洋風民家が建っています。

 ちょうど開いて、コロニアル風の面白そうな建物でしたので、覗いてみました。後から調べたら、3〜7月と9〜11月の毎週水・土曜と同志社の創立記念日にしか開いていないようでした。

 受付で名前を書き、拝観料や志納金の類はなし。玄関を入って右手の応接間には、人が集まっておられました。1階には書斎・居間・食堂などがあり、2階に上がると寝室や居間などが並び、3方の外面を幅1メートルほどのベランダが取り囲んでいました。とても開放的で、初めて見る造りでした。
 階段を下りたさっきの応接間では、老紳士がオルガンをひいておられました。何の曲かわかる前に、終わってしまいました。

 さて、資料館は、お目当ての閲覧室が閉まっていました。京都の歴史に関する図書・史料の写真版が閲覧できるというのを楽しみにしていたのですが・・・。判読しがたい襖の下張りの文書をサラッと見て、御所に向かいました。

 御所も一般公開の入り口がある西側は混んでいたでしょうが、東側は空いていました。
 時折吹く強風が巻き上げる砂埃と、京都の空を薄いグレーに変えるほどの黄砂で、少し離れた木々が霞んで見えていました。

 歩きにくい砂利道を、砂埃を気にしながら歩き、桃園の前を通って、御所西北の糸桜に辿り着きました。細い枝がしなやかに垂れ下がっている桜が数本あって、白いのは盛りを過ぎてやや色を増し、ピンクのは今まさに盛りを迎えようとしていました。

 桜の回りには人がいっぱい集まって、代わる代わるに写真を撮っておられました。大きな三脚を立てた人が、いつ人が切れて桜の花だけの写真が撮れるともわからないような瞬間をあきらめ顔で待っておられました。
 やや向こうでは、大学生と思われるグループが、ブルーシートの上で大騒ぎして、雰囲気をぶち壊していました。規制すればいいのに・・・。

 広い場所に何本も植わっているのでその立派さが目立ちにくくなっていますが、もっと特別な場所に生えていたならば、「○○桜」などという名前を付けられているに違いないでしょう。

 御所の桜は多くが山桜系で、ボクが「目の仇にしている」と言われる染井吉野はほとんどありませんでした。「さすが御所やなぁ・・・」と、変に納得しました。

 西に傾いた太陽は、黄砂に色を奪われて白く見え、輝きを失って、相対しても少しも眩しくありませんでした。
 道は大混雑。河原町通の南行は、丸太町を超えて渋滞の列が続いていました。

〜 旧新島邸でオルガンを弾く老紳士・・・ 〜
2006年4月8日(土)  No.965

染井吉野との相性悪し
 桜の花って、どうも思うように写真が撮れません。

 空の色などが映えて青くなったり赤くなったりするし、ちょっと光が強いと飛んでしまうし。
 そういう技術的なこともあるのかも知れませんが、ボクはあまり桜の花、染井吉野が好きではないのかも知れません。

 付和雷同的に一斉に咲く染井吉野。確かに綺麗なのですが、あまりにもあちこちに咲いて凡庸であり、心を通わすことができない気もします。

 その点、江戸彼岸などの1本桜は孤高な感じがして、崇高な魂が宿っている気もして、同じ桜でありながら“別物”のような感覚です。

 撮っていても「つまらないなぁ・・・」という気持がどこかにあってか、ボクの心線の揺らぎと波長があってきません。

 今日の更新も、写真はいっぱい撮りました。絵になる光景もいっぱいあったのですが・・・気に入る写真がありません。

〜 満開の桜ですが・・・ 〜
2006年4月7日(金)  No.964

玉手箱
 遠来の友人と近場で夕食を食べながら四方山話をした後、バスを3停留所分乗って降りた途端、古い友人から「近くにいるんだけど」という連絡が携帯に入りました。

 「じゃぁー、YAMATOYAで飲もうか。ピザ頼んどいてくれる?」と電話を切って、今度はタクシーで4停留所分移動。

 高校時代からの行きつけのジャズ喫茶「YAMATOYA」のある路地は、あいかわらず場末の雰囲気が漂っていました。

 店に入って中を見渡しましたが、カウンターに座っているかと思っていた友人がいません。目で探していると、陰になっている4人掛けのシートをマスターが指し示してくれました。カウンターは飛び飛びに空いていて、座れなかったようでした。残念。

 1年以上来ていない無沙汰をマスターに詫び、入ってすぐに気がついた壁紙の違いを尋ねると、去年の秋に張り替えたとのこと。シートの布張りも、椅子の種類や配置、テーブルも変わっていました。

 しばらくして来たピザの味はそのまま。なつかしいなぁ〜。

 2杯ずつほど飲むと、何年か越しで預けっぱなしのバーボンのボトルがやっと空きました。ノーマルなI.W.ハーパーが、5年物ぐらいになっていたかも知れません。新しいのを入れました。

 かかっているジャズは、どうしたわけかスタンダードばかり。ふとアンプを見ると、アンプまで新しい真空管式に変わっていました。

 トイレに行くと、便座がウオッシュレットに変わっているし、水を流す度に起きていた水漏れも止まっていました。

 帰り際に、スピーカーのコーンも張り替え中で、いま鳴っているのは同じ型の代替品と聞きビックリ。

 「あと10年は頑張らんとあきませんので」と、片付けに来店した奥さんと口をそろえて話していたマスター。これが最後の改装?

 この店に通い出して、もう30年も経つんだなぁ・・・。

 何だか、玉手箱を開けた浦島太郎のような奇妙な気分です。

〜 新しいボトル 〜
2006年4月6日(木)  No.963

水菜の泡
 民主党の党首選挙の顔ぶれが揃ったようですが、何だかいつまで経っても金太郎飴の感。新鮮さも期待も持てない気がします。例の“黄門様”がなれば一番変わるのではないかとも思えますが。


 去年の秋に種を蒔いた水菜に花が咲いてきました。ぜんぜん大きくならないので、まだ一度も収穫をしていなかったのですが、花が咲いちゃぁーお仕舞いよ。

 針金程度にしか太っていない水菜の茎ごと収穫して、サッと油で炒めました。それでも、その茎がシナッとならないので、もう一度レンジでチンしましたが、真っ直ぐな針金状のまま。

 食べてみましたが、細い紐を食べているような食感で、最後はのみ込まざるを得ませんでした。
 せっかく春の気配をいただこうとしたのですが・・・・・。

 一緒に蒔いたラディシュも、蕪が膨らまないまま花が咲いてしまいそうです。

 近いうちに畑を耕し直して、何かを植えないと・・・。ボクには畑仕事の才覚はないのかも知れません。

〜 収穫した水菜の花 〜
2006年4月5日(水)  No.962

マクドは大丈夫?
 葬儀の後、大津坂本での会議へ。

 ただでさえ会議は遅刻してしまうので、お昼はまたコンビニのおにぎり? いつも同じなので、今日は目先を変えようと、マクドナルドのドライブスルーでハンバーガーを買うことにしました。

 マイクに向かって、「チーズバーガーとホットコーヒー」と叫んだら、「??円です。前に進んでお待ちください」という声が聞こえてきました。何百円か、はっきり聞こえなかったのですが、受け取る時に「200円です」と言われ、予想外の安さに、思わず「えっ、200円!」と叫んでしまいました。決して若くない女店員さんに、「はい、200円です」も念を押すように言われながら品物を受け取りました。

 ケチャップが垂れないように注意しつつチーズバーガーを食べる道々、「これとコーヒーで200円なのか・・・」と、マクドナルドの懐事情を心配しました。


 いったん帰ってから宴席に出かけましたが、道は大混雑。本降りの雨にもかかわらず、四条通の川端以東は人の波ができていました。

 朝はまだ五分咲き程度だった染井吉野が、夕方にはもう満開。20度を越す気温で、一気に満開になりました。

 ちょっと暑かっただけで持ち堪えられずに満開になってしまう桜の習性が、悲しくも思えました。


 夜の宴席の会費があれば、ハンバーガーがいくつ食べられるだろう・・・考えることがしみったれてるなぁ。

〜 四条木屋町の桜 〜
2006年4月4日(火)  No.961

脅されてランチ
 月参りから帰って、早めのお昼ご飯を食べ終わったら、ボランティア仲間の女性から電話。

 「今から行ったらいる?」〔うん、いるけど〕「お昼食べた?」〔食べたよ〕「早いなぁ、ラーメンでも食べに行こうか。積もる話もあるし」〔また食べるのか! まぁええけど。ほな、待ってるわ〕

 ということで、40分後ぐらいに御一行さんのご到着。

 まずは、お抹茶とお菓子をさし上げつつ、「辞めるというのは、ほんまなんか?」という話から始まりました。

 ボクは、お土産にいただいたカフェオレ大福をいただきながら、終始、劣勢に立たされていました。

 銀閣寺近くの洋食屋さんに電話をしたら、ラストオーダーまで20分ほどしかありません。車に乗って急いで駆けつけ、ボクは近くのパーキングに車を置いて、お店に。

 それぞれ別な物を頼みましたが、これが結構すごいボリューム。2人は食べきれないということで、持参の袋に残したものを入れて、「主人にもう一品できました」。恐るべし主婦パワー。

 「辞めるの撤回せえへんから、これ、オゴリやで」と言われ、レシートはボクに。無理やり2度目のお昼を食べて、支払までボクにとは・・・とほほ。

 少し疎水べりを歩きましたが、花はまだ2分程度でした。

 吉田山のカフェに行こうと、山の下の看板を見たら、あいにく月曜日はお休み。境内を1周してからうちへ戻って、コーヒータイムにしました。

 話は振り出しに戻って、ボランティアの話。皆さん、忙しい中を一所懸命活動されている方だけに、いろいろな不満や疑問をお持ちでした。

 こんな人たちがいらっしゃるのに自分だけが辞めたことに、大変申し訳ない気持がしています。ボクの大きな心残りはそこにありますし、今まで続けてこられたのも、活動の意味への共感とその活動を共に支えてきた仲間のお蔭です。

 結局、お開きになったのは5時前。よくしゃべり、よく笑いました。

 「毎月、やろうな」と言われ、こわさと有り難さが身にしみました。

〜 疎水べりで美女に囲まれて 〜
2006年4月3日(月)  No.960

妖しい春
 冷たい雨に春雷。その雨も夕方には上がりました。「春に3日の晴れなし」といいますが、本当にお天気が続きません。

 境内で一番早い枝垂れ桜がようやく満開を向かえようとする頃ですから、今日の雨は埃を洗ってくれこそすれ、桜花を散らすことはありません。

 小雨が一時止んだ頃、墓地を歩いていると、春独特の匂いがしてきました。土の中の温度が上がって、バクテリアが繁殖して匂いを発しているのです。墓地は殊の外この匂いがよくします。きっと、木などがなくて日当たりも良く、土中の温度が上がりやすいので、バクテリアが発生しやすいのでしょう。

 境内でも、この匂いがよくするところ、しないところがあります。

 「桜の木の下に死体が埋まってる」と坂口安吾が書いたのは、桜の妖艶さをいったのかも知れませんが、ボクはこの匂いを連想します。

 満開の枝垂れ桜の下を通って、この匂いがしてきたとき、「あっ、死体の匂いだ」と思うのです。枝垂れ桜のあたりは、この匂いがよく漂ってくる場所です。

 多くの人が眠る墓地も、いまは土葬をしているわけではありませんが、同じような連想をします。

 春は妖しい季節です。

〜 総門前の染井吉野もほころび出しました 〜
2006年4月2日(日)  No.959

一枚の絵手紙
 今日は「メダカの学校」。講師は早川一光先生。

 いつもより参加者が増えるのはわかっていたので、いつもより椅子・机や写経道具などを多めに準備しなければいけません。朝から準備に大わらわ。

 写経が始まった頃に、先生から電話があり「ゴンドラの歌はあるか?」。皆さんが静かに写経されている中、押入の中から愛唱歌のCDをガサガサと出して、収録されているのを確認。ネットで歌詞を探してコピーして、何とか準備をしました。

 先生の講演は、いつもながらの駄洒落とパフォーマンスでした。「ゴンドラの歌」「一本の鉛筆」「手のひらに太陽を」「川の流れのように」のCDやテープをかけながら歌ったり踊ったり。
 先生の話の主題が見えないほどでした。どういう話だったっけ?

 終わって、先生と数人の方とコーヒーを飲み、解散! 有り難うございました。

 明日はこの場所で、法要後のお斎を召し上がる方がおられるので、すぐに全面模様替えをしなければなりません。椅子や机、座布団を全部片付け、襖や障子をはめる大仕事です。

 バタバタ動き回って、ふと玄関の上がり口に置いてあったメダカの参加を入れて貰う籠を見たら、お金に混じって赤い色が見えました。「なんだろう・・・お札は赤くないし・・・」。取り上げてみると、それは絵手紙。桜の絵に、「メダカの学校 みんな元気に 新学期」という言葉が添えてありました。

 慌ただしかった気持が、それを見てスウーッと抜けていくのがわかりました。

「そー、そうだなぁ、新学期か。そんなふうに考える余裕がなかったなぁ。
 こんなところにそっと入れてくださった方は誰なんだろう・・・ステキなことしてくださるなぁ。『か』というのは・・・
 こんな小さな葉書が、人の気持ちを豊かにしてくれる・・・ボクも絵が描けたらなぁ」

 その後の模様替えは、心軽く、ルンルンでした。

〜 こっそり置いてあった絵手紙 〜
2006年4月1日(土)  No.958

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