20数年来親交のある僧のお寺の完成法要に参列させていただきました。
彼とは、比叡山での修行期に一緒だった以来、神戸の地震の救援活動や、日本海での重油流出事故の回収作業などで、意気投合して共に活動した仲でした。
ダム建設に伴い水没する他寺の本堂を移築・再利用して本堂とし、同じ棟の中に「茶房 鬼佛庵」と称するスペースを設けました。
「茶房」と聞くと喫茶店のようですが、障害者の方々がお茶を出したりして「働く」と共に、心の拠り所、癒しの場を目指していていこうという、お寺と福祉施設がドッキングしたスペースです。
ボクは彼のこういう視点がとてつもなく嬉しく、尊敬でき、彼に続きたいと思っています。
お寺ってなんでしょう?
確かに崇高な教義をかざし、孤高なる僧の居る場としてのお寺も必要でしょう。でも、そんなものは、そう多くは必要ありません。 縁側に座って、出して貰ったお茶を飲みながら、四方山話ができるお寺、ボォーっと寝ころばせてくれるお寺、障害のある者もない者も共に働けるお寺、そんないろいろなお寺が地域にあったら、それも嬉しいことじゃないですか。
でも、お寺の既存の価値観の中では、それはとても面倒で、収入に繋がらないことだと敬遠・拒否さるでしょう。 そう、お葬式や法要だけをしていればいいという僧もいるでしょう。大半はそうでしょう。でも、それが目的になって、「道」を失ってはいけないでしょう。
そんな中、彼が長い間あたためていたという今回の構想を具現化したことは、社会全体から見れば遅きに失したことかも知れませんが、お寺社会の中では先駆的な活動だと思います。
今日、そんなお寺の誕生を目にして、また元気がもらえた気がします。もう少しため込めたら、また一気に動きだそう!
〜お寺の前に掲げられた駒札〜
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2004年4月30日(金)
No.246
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