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「あたたかい」といっても最高気温は12.3度。でも、それは百葉箱の中の、日陰の気温・・・今どき、「百葉箱」を使っているかどうかは知りませんが。 午後から節分の行事のための準備に本堂前にテントを張ったり、境内の木々の手入れをしていたら、暑くて暑くて、上着を脱ぎ、帽子を脱ぎ・・・。体感的にはもっと気温が高い気がしました。 冬は特に、陽が照ってくれるのと陰るのとでは、まったくあたたかさが違います。日の光のあたたかさに心から感謝します。 このあたたかさに誘われてか、街でも、境内でも、人の姿をずいぶん見かけました。 平安神宮の近くでは、100人以上の人がリュックサックを背負って、ぞろぞろと歩いておられました。「歩こう会」などのご一行でしょうか?
歩くのを楽しみにしている人たちの多くは、境内に来られた時、当たり前のごとくトイレを使い、ひどい場合はトイレの中にゴミを置いていったりするのです。お賽銭をあげようなどという人はまずおられません。 そういう人が一人ならいざ知らず、100人以上も来られると・・・本当にたまらないのです。 そんな団体は今日の境内には姿を見せませんでしたが、観光客のような人たちが今の季節にしては意外なほどたくさん来られました。 本来ならば一番寒い大寒から立春の間、日も少しずつ長くなって、春を待ち遠しく思って来られているような気がしました。 過 ぎ て 行 く 日 を 惜 し み つ つ 春 を 待 つ 高浜虚子
でも、「あたたかき光はあれど 野に満つる香も知らず」。やっぱり、景色はまだ冬でした。 風雨によって脱色させられたもみじの種や菩提樹の実が、日の光に透かされて綺麗でした。陽が照っていなければ、寒さを募らせるような景色です。 地面には、もみじの種がいっぱい落ちています。今ごろまで人目に付くような参道に落ちているようでは、発芽は望めないでしょう。この種を見ると、自然淘汰の厳しさを思います。 何十万、何百万、何億分の一という確率で生まれいずる生命。もちろん我々のいのちとて同じことです。そんな不思議な因縁の寄り合い所帯が、今我々が生きている世界である気がしてきます。
自坊の中の蝋梅も、盛りは過ぎましたが、よく香っています。月夜にこの甘い香りが漂ってくると、ロマンチックな気分になってしまいます。 今日、もみじの枝をまじまじと見てみましたが、先の方が赤みを増して、葉芽が少し膨らんで来ているようにも思えます。来月も半ば頃になれば、木々も少しずつ動き始めるでしょう。 そうそう、紫陽花の緑色の新芽が顔を出し始めました。雪や霜の被害を受けないか、ちょっと心配です。椿や馬酔木の開花は遅々としたスピード。水仙も少しずつ開いて来ています。 あたたかくなって、何もかもが一度に咲いてしまうよりも、今の季節のように待ち焦がれられながら少しずつ咲いていくほうが、有り難みを感じてもらえるかも知れません。 来週には立春を迎えます。そろりそろりと春に近づいている気配を感じる、今日この頃です。さぁ、探梅にでもまいりましょうか! 探 梅 と な く わ が 庭 の 梅 に 会 ふ 後藤比奈夫 |