8/10版
先月の30日以来、所によって少し夕立が降ったこともありましたが、雨は観測されておらず、地面はカラカラ。乾いてひび割れて来た箇所もあります。週間天気予報を見ても傘マークは見あたらず、少々水を撒いても、地中にしみ込む前に「ジュッ!」という音を立てて、一気に蒸発してしまいそうな感じです。 張り出すのが遅かった今年の太平洋高気圧は、その遅れを取り戻すがごとくに活動をして、しばらくはその勢いが収まりそうにありません。特にこの先1週間は、気温も平年を上回って、厳しい‘残暑’の日となりそうです。 これからはお盆もいよいよ本番。「何とか涼しく・・・」という願いも空しく、猛暑の中、棚経に回る毎日となりそうです。
「盂蘭盆」とはインドの古い言葉「ウランバナ」を漢訳したもので、「逆さづりの苦しみ」という意味です。「施餓鬼」とは 餓鬼道の世界に落ちて苦しんでいるものに飲食を施すという意味です。 お盆は、『盂蘭盆経』というお経に書かれた、お釈迦さまの弟子 目連尊者が神通力によって亡き母の行方を探してみたところ、母は餓鬼道に落ちて苦しんでいました。何とか母を救いたいとお釈迦さまに相談したところ、お釈迦さまは「お前の母は我が子可愛さのあまり人に施すことをせず、身勝手な行いをしたために餓鬼道に落ちたのだ。夏の修行が終わる7月15日、多くの衆僧を招いて供養をすれば、その功徳で母は救われるだろう」と諭され、その通りしたところ、目連尊者の母は餓鬼道から救われて天上界に生まれ変わったと言われています。 その物語と餓鬼に施すということが似ているので、お盆には施餓鬼法要を勤めることが多いのです。 2〜3百人の方が本堂に参詣される本堂で、朝9時半から、一山の僧侶11人の総出仕で法要が厳修されました。 普段は境内でも一番涼しい本堂の中ですが、たくさんの方の人いきれで一気に温度が上がりました。読経をするとなおさら暑く、汗が頭から顔にかけてノンストップで滴り落ちていきました。 暑い中を厭わずにお参りなさった皆さんの‘思い’を感じさせられた法要でもありました。
先日伺ったお宅のご主人が「私の知り合いのご住職が『最近、困った歌が流行っている』とおっしゃっていました」と話してくださいました。 「困った歌」とは、「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。千の風に、千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています」という『千の風になって』。1932年にアメリカ人主婦が、同居していたユダヤ人の友人の母の死に際して作ったのであろうという詩です。 笑い話のようですが、「『お墓にいません』と言われたら、墓参する人が減るようで困る」と言われたそうです。 お盆は、その始めにお墓へご先祖を迎えに行き、終わる頃にはまたお送りすると言われています。それではご先祖はいつもどこにおられるのだろうという疑問が湧いてきます。普段はお墓におられて、お盆だけ家に帰ってこられる? では、家の仏壇はいつもはもぬけの殻? お盆の間はお墓には誰もおられない? 「そこに私はいません」と言われても、じゃぁ、一体どこにおられるの? そんなことを真剣にお尋ねになる方も少なくありません。 「お盆」に先祖霊を迎えたり送ったりするというのは、仏教の教えというよりも、むしろ儒教の考え方です。今、日本で「仏教」の名の下に行っていることは、中国の儒教や道教、日本の土着信仰などによるものがずいぶん多いのです。お釈迦さまの頃、仏教はお葬式などに関わることはなく、また霊魂や死んだらどうなるのかということは二義的で、人生をどう生きるか、苦から脱却するにはどうすればいいかということが中心課題でした。
霊って本当に存在するのか? どこにおられるのか? などという議論をしても、確証は得られる人は誰一人としていません。ただ、脈々として続くいのちの循環の中で自分が存在していることだけは疑いようのないこと。そのお陰で「私」は生かされているのです。 骨に霊が宿るわけではありません。お墓に納めた骨はやがて解けて土に還ります。土は植物を育み、降った雨は地中にしみ、また蒸発して雲となり、やがて雨となって降り注ぎます。そんな絶えることのない循環の中で、故人は、ある時は花と化し、風や雨となって、私たちの回りにいつもいてくれる。この歌はそんなふうに解釈できるのではないでしょうか。 ご先祖を迎えて、丁寧に御接待して、またお帰りいただくというのは、いつもそばにいてくださる仏さまやご先祖さまなどのご恩に感謝する一つの‘形’。それがお盆の一つの意味なのではないかと思います。 盆 三 日 あ ま り 短 か し 帰 る 刻 角川源義
鐘は今でも大きな法要がある時などに、一山の僧侶を招集する‘コールサイン’として撞かれていますが、8月はそれとは別にこの鐘がよく鳴ります。 毎年、8月3・4日には、世界各国の諸宗教者らが参加する「世界宗教者平和の祈りの集い」が京都や比叡山で開催されます。4日に比叡山で行われる「平和の祈り」の際、世界平和を祈念して、全国の天台宗寺院の鐘の一つとして、真如堂の鐘も撞かれました。 6日午前8時15分には広島の原爆被災者を、9日11時2分には長崎の原爆被災者を、太平洋戦争の終戦記念日の15日正午には戦没者をそれぞれ供養し、平和を祈念するために鐘が鳴らされます。 このようにこの鐘は、8月には戦争のために亡くなった方々を追悼供養し、平和への祈りを新たにするために撞かれることが多いのです。 実は、この鐘自身も戦争とは無縁ではありませんでした。第2次世界大戦の最中の昭和17年、軍需品の原料として金属回収が始まり、寺々からも梵鐘や燈籠、擬宝珠、香炉や蝋燭立てなどの金属製品が供出され、鉄砲の弾になっていきました。 この鐘もその対象となって、昭和17年12月、香川県の三菱直島精錬所に運ばれ、材質を調べるために穴が空けられました。今も鐘の胴体部と肩の部分にそれぞれ2箇所ずつ、直径1.5センチほどの円い穴が穿たれたままになっていて、胴体部の穴はすぐに見つけていただけるでしょう。 戦争が終わった昭和21年、真如堂が鐘の所在を調査したところ、鐘は鋳潰されることなく、そのまま直島精錬所に収納されていて、「含有品位決定試料採取のため鐘の中部にボーリング(径15.6ミリ)を施した以外は、破損箇所なし」ということがわかりました。当時、直島精錬所に集められた梵鐘は、大小あわせて1万個以上。そのうち、潰されずに済んだのは、370〜380個だったそうです。無事だとわかった鐘は、早速引き渡しの手続きが進められ、昭和21年10月1日に元の鐘楼に吊されて、同15日に復還法要が勤められました。 兵器などに形を変えられ戦争に利用される寸前だった鐘が、今は戦争で亡くなった方々の慰霊と平和を祈るためにその音を響き渡らせていることに因縁を感じざるを得ません。
墓地は遮るものもなく、墓石も焼けていて、サウナに入っているかのよう。燃えるように‘熱い’真っ昼間の墓参は危険でさえあります。墓参は朝一番になさったほうが、気分も爽やかで、暑さも厳しくありません。夕方は墓石が焼けていて、暑さが籠もっています。 夏の朝早い境内は、ウォーキングや犬の散歩をする人で、他の季節の朝よりも賑わいます。皆さん、暑さを避けておられるのです。野良猫たちも朝早くには勢揃い。昼間はどこか涼しいところに身を潜めているのでしょうか、あまり姿を見せなくなりました。 清少納言によると、夏は夜、秋は夕暮れがオススメだとのことですが、今ごろの季節こそボクは「つとめて」、早朝が一番趣深いと思います。涼しく静かで、空気も清らか。清々しい時間が楽しめます。 16日は「五山の送り火」です。「大文字焼」とおっしゃっては、‘京都通’ではないと思われてしまいますよ。 観光に来て送り火をご覧になった方から、「あっけないですね」「あれだけですか?」というような声を、よく聞きます。「送り火」はあくまでも精霊を送る宗教行事。ディナーを食べながらの観賞会なんて、ちょっといただけません。いのちの繋がりと自分が生かされていることに感謝をしつつ、今は亡き人たちを偲びたいと思います。 今日、初めてツクツクボウシの声を聞きました。この猛暑の中、我が耳を疑うような軽やかな声でした。早く来て、秋の気配! 暑さはもう満喫! 鳴 き は じ め た る 法 師 蝉 も 熱 の 中 野見山朱鳥 |