4/7版
少し歩くと暑いぐらいで、上着を脱いで手に持っている人が目立ちます。でも、建物の中にいるとヒンヤリ。本堂では、まだストーブを焚いていました。 境内の染井吉野が満開になりました。この週末はお花見には絶好の日和。幸いお天気もまずまずのようで、京都市内はどこへ行っても人と車で溢れかえることは確実です。 すでに10日ほど前から観光地や高速道路に通じる道路は渋滞気味でしたが、8・9日の混み方は尋常ではないでしょう。 昼間は5日から始まった御所の一般公開と花見を兼ねたバスツアーの列、夜はライトアップに向かう自家用車。結局、歩くか自転車や地下鉄に乗るが一番確かです。
境内を通っても、本堂にあがって参拝したり、拝観する人はわずか。拝観する人より、境内でお弁当やおやつを食べている人のほうが多いかも知れません。 境内の染井吉野は、一番早い総門前の木が満開を過ぎつつあります。本堂の回りなども、今日あたりが満開です。 三重塔の横の枝垂れ桜は盛りを過ぎて、少し葉が出てきました。色も少し褪せてきました。それでもまだ、今日の段階では散り始めてはいません。 本堂の脇の「縦かわ桜」も、枝垂れ桜の後を追って、すべての花弁が開ききって、少し色が褪せてきました。 両桜とも、火曜日頃に予想されている雨が降れば、今年の麗姿も終焉を迎えるでしょう。 さ き み ち て さ く ら あ を ざ め ゐ た る か な 野澤節子
春を謳歌するのになくてはならない桜の花ですが、春は新しいことが始まる胎動の季節であると共に、転居、転勤、転校など、別れの季節でもあります。桜を見るたびに悲しい情景を思い出す方も少なくありません。桜はそれほど身近であり、人の気持ちを乗せやすい花でしょう。 唐の時代の劉希夷という詩人に、『白頭吟』という漢詩があります。 洛陽城東桃李の花 飛び来り飛び去りて誰が家にか落つ 洛陽の女児は顔色を惜しみ 行くゆく落花に逢いて長歎息す 今年花落ちて顔色改まり 明年花開いて復た誰か在る 已に見る松柏の摧かれて薪となるを 更に聞く桑田の変じて海と成るを 古人復洛城の東に無く 今人還って対す落花の風 年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず ・・・ 洛陽の東にある桃園の花びらがひらひらと近くの家に落ちてきた。いつまでも若さを保っていたいと願う洛陽の若い女性が、花びらの落ちる情景を見てため息をついた。今年花が落ちればそれだけ年
この詩に歌われているのは桃李の花ですが、これを桜に読み替えると、その光景が眼前に浮かんで来ます。 詩の後半、この主人公である翁は、昔は紅顔の美少年で、花咲き匂う樹の下で、清らかに歌い、軽やかに舞ったのに、今では白髪が乱れて糸のようになっていると、嘆き悲しみます。 今年、共に桜を見た人も、来年はお互いどう過ごしているかわかりません。桜の花を見る度に、あの時はああだったなぁなどと、過ぎし日のことを思い出すでしょう。桜は出会いと別れの花かも知れません。 桜の花には、満開の絶頂にある時の美しさと、一夜の風雨に散ってしまう悲しい運命に、大きな格差があります。そう思うと、満開の花にも、どこかうらぶれた悲しさを感じてしまいます。 この翁も、早いうちに坊主頭にしておいたら、白髪がどうとか嘆かずにすんだでしょうに。
「昭和24年の9月だったが、真如堂の巨桜が風で倒れた際、宇多野が折れた巨桜の地上10尺にみたない空洞の樹幹をみて、まだ活力をみせているのに哀れをおぼえ、冒険的に若木の枝をさし接いだ。巨桜は300年たっていたろうか。樹の芯は洞穴になっていて、倒れた時は無ざんだった。弥吉も見にいって知っているが、皮は裂け、四半分しか残っていなかった。それはまるで、板を立てかけたようだった。宇多野は、この皮に若木を接いだ。桜の寿命は学者によれば50年といわれているけれど、職人にいわせれば樹に寿命はなかった。枯れかけた老木の皮が、若木を活着させて、見ごとに枝を張った。葉も大きかった。宇多野は親桜と同種の桜を接いだのである。弥吉は、めずらしい巨桜の底力をみて感動すると共に、周りに一本の石をたてて、「たてかわ佐久良」と宇多野が命名しているのに涙をおぼえた。京都にも竹部庸太郎のような人がいるものだと、その時、弥吉は思ったものである。」
この中で水上氏はいくつかの“誤り”をされています。もちろん、創作ですから、それはそれでいいのですが・・・。 真如堂の巨桜とは。春日局(1579-1643)が父齋藤利三を弔うためにお手植えになったという「縦皮桜」。樹皮が縦に走るところから、この名前があります。樹齢は300年以上。 この桜が倒れたのは、昭和33年9月の伊勢湾台風で、24年ではありません。ボクの子供の頃は、直径1メートル近い幹の一部だけが生きていて、あとは腐った幹の外周の跡が地面に残っていました。 「桜の寿命は学者によれば50年」というのは染井吉野の話で、「縦かわ桜」は開花直前のつぼみが瓢箪の形になる江戸彼岸系。その寿命は数百年と言われ、日本の桜の古木の多くはこの種類です。 余談になりますが、真如堂の多くの染井吉野も、その寿命の頃に差し掛かっているようです。 先日来、何人かの方に、境内の桜についてレクチャーをしました。その中でも、ぜひとも見ていただきたかったのは、桜の自己再生力です。 染井吉野は樹が古くなってくると、幹の内部が腐って空洞になってきます。そこに「不定根」という根が出てきて、やがて伸びて地面に到達し、地中に根を張るようになると、次第に幹のようになっ
かつて、手入れの行き届いたところでは、この不定根を取り除いて空洞を埋める処置をしていましたが、かえってそれは桜の再生を妨げることになっていました。 幸か不幸か、真如堂は手入れが行き届いてなかったため、不定根が伸びて再生しつつある桜が何本も見られます。 花だけではなく、ぜひともこの機会に桜の不定根を見てください。素晴らしい自然の知恵です。 さて話を元に戻します。『桜守』の決定的な“誤り”は、接ぎ木をしてこの木を蘇らせたのは「宇多野」ではなく、吉祥院の住職であることです。「宇多野」が接ぎ木をした若木は活着せずに枯れ、住職の接ぎ木をしたのが着いて大きくなった。それが今の「縦かわ桜」です。 ボクは幼い頃に、住職が湿らせた水苔をビニールでくるみ、縦かわ桜の幹に紐で縛っていたのを見た憶えがあります。おそらく、活着具合を住職に連れられて見に行っていたのでしょう。 しかし、「宇多野」が失敗したのを素人の住職が蘇らせたのでは小説になりません。「宇多野」氏も、自分が再生させたと思っておられて、それを水上氏にお話しになったのでしょう。事を荒立てず、そっとしておきましょう。
染井吉野がまだ生まれていない、桜が今のようには一斉には咲かない平安時代だから、こんなふうに歌えたのでしょう。一斉に咲く染井吉野がもっと香りを放ち、柳のように枝が垂れて風に揺れていたら、鼻がおかしくなったり、枝に引っかかる人などもでて、春は大騒ぎになっていたことでしょう。 これからバイオで何でも作れるようになったら、素晴らしい特性をすべて備えた、つまらない植物を作る人がいるかも知れません。そういえば、染井吉野もクローンでした。 鴨川の柳も、若緑の葉を広げ始めました。境内のもみじも新芽を出し、やがて花を咲かそうとしているものもあります。春は本当に駆け足です。次週は一転して新緑特集になるかも知れません。 4月8日は花祭り。お釈迦さまご生誕の聖日です。 触 る る も の み な 芽 吹 き た る 怖 れ か な 折井眞琴 |