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そろそろ春一番が吹いたという便りも聞こえてきそうな頃ですが、北国の気象台には「雨一番」という、“雪や氷が混じらない雨が降った最初の日”のデータもあるとか。 19日は「雨水」。いまの季節に京都に降る雨は、芽吹きに向けて少しずつ動き出そうとしている木々を潤す恵みの雨ですが、北国の人にとっては、ようやく見えてきた冬の終わりの気配を感じさせてくれる嬉しい雨でしょう。 最低気温−2.2度の寒い朝でした。昨晩の予報では−4度まで下がるというので覚悟をしていましたが、それほどでもありませんでした。この冬8番目の寒い朝です。 気象庁のページで1時間毎の気温を見ると、7時が−2度と一番低くなっていました。一番冷え込むのは朝の4時頃かと思っていましたが、最低気温が記録されるのは、日の出の直前の、太陽が沈んで最も時間が経って地表が冷め切った時なのだそうです。今朝の京都の日の出は6時49分でした。 日中は快晴とはいえないまでもまずまずのお天気で、陽射しはあたたかかったのですが、風は冷たく、陽が陰ったり木陰に入ったりすると、結構寒かったです。 境内を訪れる人はまだまばらです。本堂の受付当番の職員さんも手持ちぶさたで、「拝観は3、4人ですから、外の仕事をしますわ」と、体を動かしたくてしかたない様子でした。 マスクをして境内を歩いている人が目立ちます。私立大学の入学試験を終えて京都観光をされているのだろうと思える親子連れの姿もありました。境内でゆっくり過ごされる人はなく、猫さえも日向ぼっこをしていませんでした。
京都の梅の名所 北野天満宮では、平年なら1月中旬から早咲きが順に開花し、1月下旬から2月初旬に梅苑の公開が始まりますが、今年は2月に入っても社殿前の早咲きが数輪咲いている程度で、公開時期が決められないのだそうです。 梅宮大社でも開花が遅れ、例年なら年末に咲き始める冬至梅がまだ咲かないとか。各名所とも頭を痛めているようです。 梅や桜などは、冬場の気温の累計が一定値を超えると開花するらしいですが、この冬は寒いために気温の累積がまだ一定レベルに達しないのでしょう。西日本で約2週間、東・北日本では1か月近く遅れる地域もありそうだということですよ。 梅が咲いてくれないと、せっかく過ぎた「立春」も空手形のようです。この分では桜の見頃4月中頃? まさか。 春 寒 の よ り そ ひ 行 け ば 人 目 あ る 高浜虚子
この場所は1020余年前、比叡山から下向いただいた阿弥陀如来を安置した真如堂開創の地。一夜のうちに背の高い桧が千本生えたという、東三条女院の離宮の一角です(『真如堂縁起』)。 女院は長保3年(1001) 旧暦では、月名と季節がずれないようにするため、約3年弱毎に1年を13か月にしていました。これを「閏月」と呼び、たとえば「閏12月」というのは、正規の12月の後の2回目の“12月”ということです。 1001年閏12月22日を今の月日に換算すると、翌年の2月7日になります。それなのにどうして2月12日に女院忌を勤めるのでしょう? 忌日に関係のある数字「1」と「2」の組み合わせのほうがわかりやすい。でも、2月22日ではちょっと遅すぎるので、2月12日にしよう! 明治5年、日本が新暦を採用したときに、一山の住職でそう決めたのではないかと、ボクは大胆に推理しています。 詮子は円融天皇の後宮に入内して皇子(一条天皇)を生み、一条天皇が即位すると皇太后になって国政に強い発言力を持ちました。その様は、「国母専朝」と非難される(『小右記』)ほど、強引な面もあったようです。 また、4つ下の末弟、藤原道長を偏愛し、兄道隆・道兼が亡くなった後は、道長を執政者として強力に推しました。東三条女院がいなければ、道長の「望月」は欠けていたかも知れません。 詮子は円融法皇が崩御された年に落飾され、皇太后宮職を停めると同時に「東三条院」の院号を贈られ、日本初の「女院」となられました。
話がそれますが、当時、化粧に使う白粉には植物性のものと鉱物性のものがあり、「ハフニ」と呼ばれる鉛を酢で蒸して作った鉱物性のものが、伸びがよく光沢もあって人気があったそうです。高貴な女性ほど入念な厚化粧をしていたらしく、その分、鉛毒を皮膚から吸収されて健康を害し、30才代で亡くなることも珍しくなかったようです。 「美人薄命」といいますが、美人が短命なのではなく、入念な化粧をした“美人”のほうが早く亡くなる危険性が高かったわけです。お化粧も命がけです。 平安時代の女性は起きてすぐ、長〜い髪を梳かし、入念な化粧をするのが身だしなみだったようで、化粧前のスッピン顔を見られるなど、「おそろしくわろからむ」こと(『紫式部日記』)でした。まゆ毛は全部抜いて眉墨で描くわけですから、化粧前ののっぺらぼうのような顔を見せられたら、さぞかし「おそろしくわろからむ」と実感させられたことでしょう。歴史は繰り返す。今もまたそういうのが流行っているのですか? 話を戻しましょう。女院は初老の入り口で亡くなり、藤原氏一門が埋葬された宇治木幡に埋葬されました。今もこの辺りには小さな盛土をほどこした平安時代墳墓群があり、宮内庁が「宇治陵」として治定しています。
安倍晴明は東三条女院と同時代に生きた、陰陽寮に所属する“サラリーマン”でした。 この時代の貴族の日常生活は陰陽道に大きく左右されていました。たとえばある男性貴族は、朝起きたらまず属星の名号を7回唱え、暦を見て1日の行動範囲の制約を確認した後、朝食を摂ります。髪を梳いて爪を切りますが、手の爪は丑の日、足の爪は寅の日と決まっていました。入浴や洗髪するにも吉凶の制約を受けました。外出するにも、悪い方角へ向かう時には、いったん別の方角にある「方違え所」に宿泊してから目的地に向かいました。陰陽道は、日常生活だけではなく、天皇や国の政治・行事も左右しました。 安倍晴明も、東三条女院のために泰山府君祭を司ったり、不動供養の日や敦康親王(一条帝皇子)の食い初めの日時を勘申したり、藤原行成第へ渡御されるのを「御すべからず」と止めたりと、勤めを果たしていたようです。 でも、晴明も雇われる身の上。永延2年(988)、火星が獅子座のレグルスに接近した時、一条天皇と皇后は物忌し、天台座主には 真如堂に関係する東三条女院と安倍晴明。女院がお寺に参詣されたり法要を行われたということが『大鏡』『日本紀略』『御堂関白記』などに記されていますが、真如堂の名前はまったく出てきません。晴明と真如堂についても然り。ただ、『真如堂縁起』にあるだけなのです。どこまでが、縁起作者の創作なのでしょうか?
鐘楼脇の蝋梅もやっと咲き出しました。写真を撮るために間近まで近づくと、甘い香りにスッポリ包まれて幸せな気分になります。陽が当たっている花弁は質感が鮮やかに際だって見え、なおさら綺麗でした。蝋梅は晴れの日に限ります。 自坊の白侘び助や初雁(昭和侘び助)も今が盛りです。 梅は咲きませんし、スミレの姿も見えませんが、春は少しずつ、確かに近づいているのを実感できます。 一 蕾 の 解 け 初 花 と な る 軽 さ 藤浦昭代 |