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天気晴朗なれど風寒し、節分の午後   マウスを載せれば写真が変わります
 冬から春への境目の日、今日は節分、明日は立春です。
 午前中は薄雲りでしたが、午後から晴れ間が多くなってきました。日射しはあたたかいのですが、次第に冷たい風が吹き始め、時折わずかな風花が舞うようになりました。
 今夜から寒波がやってきて、立春の明日はかなり冷え込むとか。まるで節分にあわせて、寒気の「鬼」がやってきたかのようです。
 でも、寒さも今が底。「立春」というのは名ばかりではありません。
 京都の平均気温は、2月5日から徐々に上がっていきます。もちろん、寒波がくることもありますが、行ったり来たりを繰り返しながら、確実に気温は上がっていきます。
 1月1日の元旦というのは季節的にはとても中途半端な気がします。立春は八十八夜、二百十日などの起点となる日で、この頃から1年が始まるほうが、「さぁ、新しい年だ」という実感が湧くような気がするのですが。
 「明日から春!」そう考えると、同じ寒さを経験しても、気分が違う気がします。立春寒波など、へっちゃらです!!



         幾   度   も   春   立   つ   暦   見   上   げ   た   る      阿部みどり女



    
“吉田さん”のお蔭で少し賑わう本堂前 / 般若心経を唱える僧   マウスを載せれば写真が変わります
 真如堂は、節分に、般若心経を向こう1年分365回唱えて除災招福を祈る「日数心経にっすうしんぎょう」という法会を行いました。
 真如堂の中でも比較的若手の僧侶8人が、2・3日の2日間にわたって30分交代で般若心経を読誦し、今日の3時半頃には365回目を迎えました。ちょうどボクが読経している時でした。
 節分の行事を行っているといっても、わざわざお参りに来られる方はほとんどおられません。多くは西隣の“吉田さん”(吉田神社)の節分会にお参りされる方が、通りがかりにお参りされる程度。
 昨日・今日来られる方は、吉田さんの露店で買ってきたものを境内で食べる人、節分風景の吟行をしつつ吉田さんから流れてこられた方、吉田さんから白川通に抜けようとする人など、みな吉田さん絡みです。3日間の人出は30万人。京都一番の節分祭ですから・・・。
 中には、真如堂の駐車場に車を置いて吉田神社にお参りに行く人も多く、「誰か入り口で駐車代をいただいたらどうかなぁ。その方がお賽銭より多いかも」という冗談も出ていました。
 ボクも、日数心経の般若心経を唱える合間に、本堂前の接待所で参拝者にお薬湯を召し上がっていただき、それでも手持ちぶさたなので、カメラのシャッターを押してあげたり、リクエストに応えて一緒に写真に入ったり、更新用の写真を撮ったり、結構のんびり過ごせました。

神楽岡東の宗忠神社参道より眺める真如堂/吉田神社の、古いお札を燃やす火炉と右に見える本殿鳥居 On Mouse !
 真如堂と吉田神社は、決して無縁ではありません。
 真如堂の山号は「鈴声山」といいますが、それは西隣の山からお神楽の音が聞こえてきた言い伝えに由来しています。
 お隣の山の名前は「神楽岡」。吉田神社のある吉田山は、神楽岡とも呼ばれています。
 卜部家(吉田家)の家説によると、その昔、天照大神が天岩戸に籠もられた時に、諸神が神楽を奏した場所であるところから付いたとされています。
 あるいは、天の神々が降りて来られた時に 身を宿らせる神座かみくらがなまって「神楽岡」と呼ばれるようになったという説もあります(『吉田神社誌』)。
 また、昔、この山に雷が落ちて、神楽岡と高野山に分かれたという奇想天外な話もあります(神楽岡と如意が岳という説もあります)。なるほど、今は吉田神社の摂社となっている神楽岡社の祭神は裂雷神わけいかづちで、『延喜式』に「霹靂神へきれきじん、神楽岡に坐す」と記されているのと符合します。
 神代の昔のことはわかりませんが、『日本後紀』には、桓武天皇が神楽岡(「康樂岡」)で遊猟された(798)という記録があります。平安中期以降には、社寺や貴族の領地として開けはじめ、別荘なども建てられるようになったといいます。
 平安京の周辺には、鳥部野、蓮台野、化野、木幡などの葬送の地が点在していましたが、神楽岡もその一つでした。神楽岡は平安時代前期からは天皇家の陵墓地となり、嵯峨天皇の女潔姫、後一条天皇、一条院(章子内親王)、陽成天皇らが葬られ、貞観8年(866)には一般人のこの地への葬送を禁止する勅が出ています。
 中世には度々戦場となり、南北朝動乱の建武3年(1336)、足利尊氏率いる軍勢と後醍醐天皇勢が戦ったこともありました(1336年)し、信長はここに城を造ろうと考えました
 江戸時代には庶民の遊宴地で、春秋には多くの人で賑わったといいます。

鹿も春日大社ゆかり? かつては生きた鹿がいました / 京大時計台と700軒並ぶ露店の一角   On Mouse
 さて、吉田神社は貞観年間(859-77)に平安京の東、神楽岡の西麓に、藤原氏北家魚名流の後裔 藤原山蔭が、藤原氏の氏神の奈良・春日大社の4神を自邸内に勧請して創建したことに始まります。
 山蔭の子中正の娘(時姫)と藤原兼家との間に生まれた詮子(東三条院)が円融天皇の女御となるにつれて発展します。東三条院は吉田社を尊信され、その子である一条天皇は永延元年(987)に行幸を行い、以後、吉田社では朝廷より幣を奉った官祭が始められるようになりました。
 今は、神楽岡の西裾に建っている吉田神社ですが、これは応仁の乱の兵火で焼失した後に復興されたもの。藤原山蔭が勧請した場所は、今は京都大学の構内となっているあたりで、昔は大きな2本の松が植わっていたといいます。この松は、大正年間の落雷と昭和9年の室戸台風で2本とも倒れてしまいましたが、「吉田二本松町」という地名で残っています。
 お正月には門松を建てますが、これは神様が天から降りて来られる時の依代よりしろです。2本の松も、その意味で山蔭卿が植えられたのかも知れませんね。
 真如堂は東三条院の離宮に、東三条院が願主となって建てられた寺です。藤原氏はもちろん、神楽岡や吉田神社とも、切っても切れない関係にあります。
 いろいろ調べていると、神楽岡の西は貴族などの別荘などが多かった場所で、岡を越えた東側は葬送・供養の地域だったのではないかという想像をかき立てられます。歴史って面白いです。


  あとひと息の蝋梅 / 葉陰にキラリと光る竜の玉   マウスを載せれば写真が変わります
 自坊の蝋梅がいい香りを漂わせて咲き出したので、鐘楼脇の木も咲いただろうとワクワクしながら見に行きましたが、もうひと息。同じ頃に咲き出す馬酔木もまだでした。
 境内を見て回りましたが、「百花の魁」さきがけと言われる梅は、やはりまだ1輪も咲いていません。またもや境内の探梅行は不発でした。
 ボクは桜が咲いた時より、梅が咲いた時のほうが、冬が終わって春が近づいてきたことが実感できるようで、とても嬉しく思えます。
 そんな梅が立春寒波に脅されて、蕾を膨らませるのを止めてしまいませんように。
 そろそろ咲き出すスミレを探していると、必ずハッとさせられるのが竜の玉の青さです。実が付き始めてすぐの頃は緑色をしていますが、熟してコバルトブルーに変わっていって、寒の頃に一番美しくなります。
 でも、竜の髭のような葉っぱに邪魔された上に、地べたに這いつくばらないと写真が撮れないので、更新に登場するのはいよいよネタが切れてきたという時になります。
 南天、万両、千両と、赤い実が多い時期に、実に艶やかな青い実です。
 更新がすっかり夜更けになってしまいました。窓の外を見たら、屋根には雪が積もっています。きっと、明日の朝には赤い実や青い実の上にも雪が積もり、いっそう美しい光景を見せてくれるでしょう。



        龍  の  玉    地  に  喝  采  の  あ  る  ご  と  し      大石悦子