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太陽が雲にかくされることなく地面を照らしている時間を 「日照時間」といいますが、当然今日は「0」。平年値でみると、京都の1月7〜14日は、梅雨に次いで日照時間が短くなります。 今日の気温はさほど低くありませんでしたが、雲が多いので、気温より寒く感じました。 これから南の温かく湿った空気が流れ込むため、西日本や北陸は最高気温が12〜18度まで上がるところが多く、3月並みの陽気になるとか。雲の多い、スッキリしない一週間になりそうです。 豪雪地での雪崩の危険が指摘されていますが、結局は避難するより身を守る方法はなく、自然の前に手も足も出ない人間の姿を思い知らされる気がします。
もとい! 植木屋さんが、先週に続いて寒肥を入れつつ、枯れた木や枯れ枝を切り落とす作業をしているのです。 ずっと植木屋さんが来て境内の木々を手入れしてくれているのはいいのですが、一体いくら請求が来るのでしょう・・・。 観光客らしい人もたまに来られますが、大多数は本堂正面で掌を合わせるだけで中には入らず、来た道を戻るだけのピストン参拝。 「寒い中をわざわざ坂を登って来られたのですから、本堂の中に入られたらいかがですか? 庭のほうまで入らなければ、拝観料は要りませんから。寒いですが、ベンチで座っているのもいいですよ。あっ、ボクは決してあやしい者ではありません」と言ってあげたくなります。でも、このご時世、声をかけただけでも逃げられてしまいそうです。 急に騒がしい声がしてきたと思えば、中高年20人ばかりのウォーキングの団体。「ここはもみじがたくさんありそうやなぁ。隠れた名所かも」などと話しておられるところからすると、あまり観光には興味のない、ウォーキングに専心している人たちなのでしょう。 この人たちもわずか10分足らず小休止しただけで、また来た道を戻って行かれました。「あー、もと来た道を戻ってもつまらないでしょう。こっちから行った方が面白いですよ」と教えてあげたくなりますが、案内役らしい人の面目を潰しそうなのでやめました。 木々の様子に変化がないので、寒さを堪えながら、たまに通りがかる人を待って写真に加わっていただいて“脚色”するしか方法がない境内です。それもまた楽し。今日の拝観者数は、きっと一桁だったでしょう。 寒 肥 を 皆 や り に け り 梅 櫻 高浜虚子
『真如堂縁起』によると、慈覚大師は、大津坂本の苗鹿明神が寄進した栢の木を使って、阿弥陀如来立像と座像を彫られ、そのうちの立像が比叡山から都に降りて真如堂の御本尊になったとされています。 慈覚大師は法華経などの写経に勢力を注ぎ、完成した経典を比叡山横川の如法堂に納めて、日本を代表する主要な神々三十神を勧請して、1日交替でそれを守護するように定めたといいます。これを「三十番神」といいますが、苗鹿明神は自分もそこに加えて欲しいと申し出て、栢の木を寄進したのだと、『真如堂縁起』には記されています。 面白い逸話で、ボクも今までなるほどと思っていたのですが、調べてみるとつじつまが合いません。 慈覚大師の頃は三十神ではなく十二神(十二支の日々に当てた)しかなく、後に良正阿闍梨という首楞厳院(如法堂が発展)の長吏が十八神を追加して、三十番神が完成した(1073)というのが本当のところのようです。
『真如堂縁起』には、「慈覚大師が唐から帰国される時に海が荒れ狂い、大師がお経を唱えられると海も静まった。またその時、虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れたので、大師はそれを袖に包み取って帰って、御本尊の胎内物とした」ということが書いてあり、遣唐船上で香華を捧げて読経する大師のお姿が描かれています。 しかし、慈覚大師の記された『入唐求法巡礼行記』の帰国の頃を読んでも、追い風がなくて航行できないという記述はあっても、海が荒れたという記述はありません。 唐の武帝は道教を信奉し、教典を焼いたり仏像を破壊したりして仏教を弾圧しました。それは次第に外国人僧侶にも及び、還俗を命じたりして、背いた僧は首をはねられたといいます。 長安におられた慈覚大師は、入唐中に入手・書写した経論などを持ち帰りたい一心で、衣を脱いで普通の格好をして還俗を装い(845年5月13日)、帰国船を探されました。しかし、船にはなかなか乗ることが出来ず、2年を費やされました。 『入唐求法巡礼行記』の帰路で嵐に遭ったと書いてあるのは、帰国される年(847)の5月24日、「向かい風と猛り立つ高波のために、淮河の中に入っていくことができない。持っていた食料がまったくなくなってしまって窮迫。非常な不安と疲労におののいた」とあります。これは中国国内を移動する船で、黄河と長江の間を西から東に流れている、全長は一千キロの中国有数の大河の河口あたりを航行しておられた時のことで、外洋を航行する帰国船ではありません。 しかも、その時の大師は還俗をした格好のまま。「髪を剃って再び墨染めの衣を着た」とあるのは、ようやく山東半島赤山から日本へ向けて出港された9月2日の少し前、8月15日のことでした。 ですから、『真如堂縁起』に描かれている光景は、史実上はあり得ないということになってしまいます。 その後、大師は帰国船に乗って赤山から朝鮮半島の西を南へ進み、15日後に博多に上陸されて太宰府鴻臚館に向かっておられます。
比叡山の「横川の中堂と申すは、慈覚大師帰朝の時、悪風に放たれて、羅刹国に至りしに、観音海上に現じ給ひ、不動毘沙門艫舳に現じ給へり。赤山明神は蓑笠を著し給ひ、弓箭を手に杷て、大師を守護し奉る。彼の三体を移て本尊とし給ひ、赤山明神を西坂本に崇けり」(『源平盛衰記』)。 ここでも、慈覚大師が帰国される時に海が荒れ、観世音菩薩・不動明王・毘沙門天が現れて大師をお守りしていますが、史実上あり得ないことになります。 このように史実と伝説が違っていることは当たり前のことですし、それでその価値が下がるということはありません。むしろ、どのように物語が作られ、事実がいかに脚色されているかというところに、人々がそこに期待したかったものが見えてくるのではなかと思えます。 その意味で、「慈覚会」を前にして、『真如堂縁起』と『入唐求法巡礼行記』を並べて見たことは、とても意味があったような気がしています。 しばし、寒の弛んだぬくもりを満喫なさってください。気をゆるめて、風邪を引かれませんように。 餅 花 の 軒 端 は な や ぐ 京 菓 子 司 丸山不二子 |