12/30版 



静かに散歩できる境内 / 人もまばらな本堂正面 マウスを載せれば写真が変わります
 薄曇りの、時々思い出したように日がさす、穏やかなお天気です。早朝には、庭のつくばいに氷が張っていました。
 今年も大晦日を残すのみとなりました。
 街の中には、まだクリスマスのイルミネーションが残っていたり、歳末の売り出しをしているところがあるかと思えば、門飾りが付けられたり、「迎春」という看板が掲げられたりして、お正月の準備がすでに整っているところもあります。
 去りゆく年と新たに来る年が混じり合った年末の風景です。
 境内を行き交う人も、昨日頃から少し増えています。お正月前にお墓を掃除しておこうという方々が、花などを持ってお参りされているのです。
 でも、家の大掃除や買い物、迎春準備など、いろいろと予定が詰まっているのか、足早に歩いておられる人が多いようです。
 お正月休みで本堂を拝観される方も少し増え、今日は2桁には達しているでしょうか。紅葉のシーズンとはまったく違った境内の光景です。

  
お飾りを付けた堂宇 / 葉牡丹や千両入りの花   マウスを載せれば写真が変わります
 境内の諸堂も、迎春準備が進んでいます。
 各お堂の仏前には鏡餅が供えられ、お飾りやお正月らしい花も供えられています。手水舎には新しい注連縄が張られました。
 本堂の正面には大きな鏡餅が供えられていますが、脇の位牌などの前には、小さな「星付き」と呼ばれる、小餅の上に豆粒大ほどの小さいお餅を付けたお餅が供えられます。ミニサイズの鏡餅です。
 考えてみると、お正月の飾り物や風習の多くは、仏教ではなく、神道に由来するものです。
 かなり昔には、お正月も先祖を祀る行事だったようですが、仏教の影響が強くなるにつれて、盂蘭盆に先祖供養を行うようになり、正月は年神を迎えてその年の豊作を祈る「神祭り」としての意味合いが強くなったようです。
 お正月はもちろん、様々な習俗・風習の意味を調べてみると、日本人の原点が少しわかるような気がしてとても面白く思えます。


          大  空  に   の  び  傾  け  る   冬  木  か  な       高浜虚子



枯れ葉のいっぱい付いた総門前のもみじ / 無数の種が付いたもみじ マウスを載せれば写真が変わります
 紅葉はとっくに終わっているのですが、梢には枯れきってカラカラに乾いた葉がついているもみじの木がたくさんあります。
 「いつまでも落ち葉掃除が終わりませんよ」と職員さんも少々嘆き気味。冬の間はたっぷり時間もあるので、運動がてらやりましょう。
 また、種をいっぱい付けたもみじの木もたくさんあって、枯れ葉と一緒にぶらぶら、ゆらゆら、かさこそしています。お蔭で、何だかスモークツリーのようで、スッキリした冬木立には見えません。
 雨が少なかったりして、紅葉が終わりきらなかった、葉が熟し切らなかったのでしょうか。
 昨日、松竹梅の供花に彩りを添えるのに南天の実を採りました。その時、「今年は南天の実が豊作

   南天と塔。さすが南天の名所!?(12/29)/ 黄千両と万両  マウスを載せれば写真が変わります
だなぁ。こんなにたくさんの実が付いた年は今までになかったかも知れないなぁ」と感じました。
 南天の花は、6月中頃、梅雨入りしてしばらく経った頃に咲き出します。「南天の花が咲き始めたら梅雨入り、南天の花が散ったら梅雨明け」という言い伝えのある地方もあるようです。
 今年、近畿地方は6月11日に梅雨入りしたものの、あまり雨が降りませんでした。京都の6月の平均降水量は230mlですが、今年降ったのは73mlと、実に1/3以下の雨しか降っていません。
 お蔭で、南天の花もあまり雨に濡れなくて済み、花粉も流されず、たくさんの実がついたのでしょう。
 梅雨の小雨は、南天の実をたくさんならせ、もみじの紅葉を不調にしたようです。
 こうして今年の天気や木々の様子を振り返り、自然の業を如実に感じて一喜一憂できる我が身が有り難く思えてきます。

  もみじ・沙羅などの冬枯れした枝 / くねくねと百日紅の枝  マウスを載せれば写真が変わります
 明日は大晦日。午後に「除夜会」のお勤めが本堂であった後、年が改まる夜12時頃、鐘楼では除夜の鐘が撞き始められます。
 最初は一山の僧侶が上席から順番に撞き、その後、参拝の皆さんに4〜5人で1撞きしてもらいます。そして最後は、また一山の僧侶が今度は逆順に撞いて、最後は2連打して終わります。合計108つです。
 除夜の鐘を108つ撞くのは、108煩悩を滅するためだといいます。
 108つという数には諸説紛々あります。例えば「四苦八苦」で、4x9+8x9=108という駄洒落のような説や、24節気+72候+12月=108という中国の説もあります。
 お経には、「ガンジス川の砂の数ほど」といういって限りない数を表したり、「3千」といって数が多いことを表現するたとえがよく使われますが、「108」というのもそれに似ていて、「多い」という意味だと考えればいいのでしょう。
 さて、お寺の鐘は合図に使われたり時を知らせるのが主な役目ですが、鐘の音には苦や悪を鎮圧してしまう力があるといわれています。除夜に鐘を撞いて煩悩を滅するというのも、そういう力があるからこそなのでしょう。
 最近は市街地で鐘を撞くと「うるさい!」と言われて、除夜の鐘も撞けないというお寺もあるそうです。
 鐘がガンガン鳴ったのでは、うるさくて眠れないのというのでしょう。床の中で除夜の鐘の音を聞きながら、1年を思い出すというのも風情があると思いますが・・・。

  咲き出した水仙と地蔵尊 / ヒヨドリジョウゴと大文字山 マウスを載せれば写真が変わります
 中国・唐の時代の仏教書には、鐘の音は寝ながら聞いてはいけないと書いてあります。
 「鐘の音は寝ころんで聞くのではなく、身を起こして聞かなければ、護塔の善神が怒ってたたりを起こす。起きて聞かないと、現世は幸せになれず、来世は蛇に生まれかわる」と書かれているのです。蛇に生まれかわるなんて、聞いただけで卒倒しそうです。
 平安時代の書には、亡くなっていく人の枕元で鉦を鳴らすように書いてあります。今も「臨終の鉦」を鳴らす風習のある地方があるそうです。
 亡くなる時は最後まで聴覚が残るといいますから、亡くなっていく人の意識を鉦の音に集中させて、やがてその音が消えていくように命が途絶えていく。安らかな往生に導く瞑想法ではなかったのでしょうか。
 さぁ、大晦日は除夜の鐘の音を聞きながら1年を思い起こし、やがて無心になって融通無碍な境地に達しましょう! 寝てはいけません。寝たら来世は蛇ですよ!



        い  ざ  や  寝  ん   元  旦  は  叉   あ  す  の  こ  と     与謝蕪村






 今年も「今日の散歩道」をご覧いただき、ありがとうございました。来年は、除夜の鐘の様子などを満載して、1/1頃に更新させていただく予定です。
 来年が皆さまによって幸多き佳き年になりますように、心からお祈り申し上げ、今年の「今日の散歩道」の更新を終えさせていただきます。