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更新のための写真を撮りに出た境内でもこの暑さはこたえ、無意識に木陰を探してしまいます。 今年の8月、京都市では最高気温が35度以上だった日が12日あり、逆に30度を下回った日は4日でした。去年はそれぞれ2日ずつ。平均気温を比べても、今年は28.2度と去年より0.5度高く、今年の夏は去年よりもかなり暑かったようです。 月間降水量は、去年の8月に249.5ミリ降った雨が今年は102ミリと、今年は去年の約41%しか雨が降っていません。 台風があまり来なかったためか、夕立が少なかったためかわかりませんが、先週のこのページで書いたように、今年、カエデやもみじの枝先の赤くなるペースが早いというのも、この降水量が関係しているのかも知れません。
どういう生理現象なのかわかりませんが、毎朝、少しずつ掃除をしなければなりませんので、大変迷惑しています。 そろそろチャドクガやアメリカシロヒトリなどのおぞましい毛虫が発生する時期ですが、それらが集中するのも桜の木です。どうも、秋の桜はいけません。 暑い夏を越してホッとするのは人間ばかりではなく、毛虫たちも同じなのかも知れませんね。あー、書いているだけで、体が痒くなってきてしまいました・・・。 1日は、静かな二百十日でした。 飛 ん で 居 る 二 百 十 日 の 蜻 蛉 か な 小島孤舟 高野山では萩の花が昨年より2週間遅れで開花したと、新聞に載っていました。 真如堂の境内では、10日以上前から、1株だけ花を咲かせています。その株は毎年いち早く花が咲くのです。今年もほぼ例年通りの開花でした。
黒 谷 の 隣 は 白 し 蕎 麦 の 花 「黒谷」は真如堂の隣山、金戒光明寺の俗称です。この句は「題 白川」となっていています。いま「白川」と呼ぶのは白川通今出川の北あたりですが、黒谷の隣が白く見えたというなら、その場所は神楽岡とみるのが自然だと思います。 神楽岡は江戸時代には庶民の遊宴地で、春秋には多くの人で賑わったといいます。蕪村も秋に神楽岡を訪れたのではないでしょうか。 京都でも白い蕎麦の花が一面に咲いていた場所が、昔はあったのですね。 ほんの僅かですが、もうしばらくすると、自坊の前でも蕎麦の花が咲きます。小さな花ですが、とても可愛い花です。 ご近所話のついでに、もう一つ。最近興味が湧いている伝説があります。南北朝時代に描かれた『土蜘蛛草紙』の土蜘蛛伝説です。 一条帝の御代、藤原道長が栄華をきわめていた頃、安部清明が怨霊退散の霊能派ならば、魔物退治の武闘派として知られていたのは源頼光(948-1021)です。源頼光といえば、大江山鬼退治が有名ですが、この土蜘蛛退治もよく知られている話です。 土蜘蛛伝説にはいくつもの話がありますが、『土蜘蛛草紙』のストーリーはこうです。 源頼光とその配下の「四天王」の一人 渡辺綱が京の蓮台野で空を飛んでいる髑髏に出会った。その後を追って神楽岡の廃屋に辿り着いたが、そこにはいろいろな化け物が群れていた。美女の妖怪に頼光は斬りつけたが、刀の先が折れてしまった。それを追って西の山の奥の洞窟に行くと、その妖怪の正体は山蜘蛛だった。その山蜘蛛の腹にある、頼光から受けた刀傷からは死人の首が1990も出てきた。頼光がすぐに脇腹を切り裂くと、子供ほどの大きさの小蜘蛛が数え切れぬほど走り騒いだ。腹を割いてみると、とても小さなしゃれこうべが20個ほどあった。頼光たちは穴を掘って首を埋め、化物の住処に火をかけて焼き払った。
当時の神楽岡は、貴族たちの狩猟地であるとともに、天皇の陵墓なども作られ、また鳥辺野、化野、蓮台野につぐ平安京の主たる葬送の地でした。髑髏が蓮台野から神楽岡に飛んできたという設定も、そういう背景があるのでしょう。 また、神楽岡にある吉田神社は、藤原山蔭が平安京の鎮守神として藤原氏の氏神である奈良の春日社四神を勧請したのが始まりで、この辺り一帯は藤原氏のゆかりの地でもあります。 また、真如堂の門前には陽成天皇稜がありますが、実はこの帝こそ源氏の祖だという説があります。陽成帝は「狂気の天皇」と言われてその乱行は数知れず、それを恥じて父である清和帝を源氏の祖としたとも言われています。源頼光とは切っても切れない関係です。 また、陽成帝の母である藤原高子は、在原業平と恋に落ちて駆け落ちしますが連れ戻され、7歳年下の清和天皇の女御となります。清和帝と高子の子が陽成帝ですが、実は業平との間にできた子だという説もあります。 『土蜘蛛草紙』に神楽岡を登場させたのは、単に葬送の地を並べたというのでは面白くありません。物語に出てくる魑魅魍魎は、実は複雑に絡み合った当時の人間模様を暗示しているのではないか? 藤原氏の聖地の一つ神楽岡を選んだ理由は? もともとは大和政権に反抗した首長たちのことであった「土蜘蛛」という呼称との関係は? 物語は、清明と共に人気者だった頼光を借りて、そんなことを語りたかったのだとしたら・・・ いやぁー、平安時代ってホント面白い! 秋の夜長に持ってこいです。 真如堂は神楽岡にあった藤原詮子の離宮に、比叡山の常行堂の阿弥陀如来を遷座して開創されました。山号の「鈴声山」は、天照大神が天岩屋にこもられた時、八百万の神が集まって神楽を奏した地がここに天降って山となったという「神楽岡」の名の由来に因んだものです。真如堂と神楽岡は切っても切れない関係なのです。藤原詮子は道長の姉、円融帝の女御で一条帝の母。物語は、まさに真如堂が創建(984)された頃のことです。 神楽岡のどこかに、その廃屋や洞窟が今でも残っていないかしら・・・食べられてもいいから、楊貴妃似というその美女に一目お目通り願いたいかも。 峠 の そ の 向 ふ の 話 夜 長 な り 村越化石 |