9/10版
「午後からはオホーツク高気圧が張り出して秋雨前線が南下し、晴れ間が出てきます」という天気予報を信用し、その通りになるのをしばらく待っていましたが、一向に晴れてくる気配はなし。しびれを切らして、写真を撮りに境内に出かけました。 晴れるどころか、時おり時雨れてくる境内は、樹の下に入ると薄暗く、三脚を使わないと手ブレを起こして写真がうまく撮れないほどでした。 今、境内では彼岸花が満開です。でも、総門から本堂に通じる正面の石段を登ったのでは、彼岸花を見ることはできません。正面石段の左右両側の、斜めに登っていく道を進んでみて下さい。竹垣の中に咲く数十本の彼岸花が姿を見せてくれます。今日のように薄暗い日には、赤色がいっそう際だち、緑の草との対比が鮮やかです。 早く咲きすぎた彼岸花には、その名に違わないように、ちゃんと彼岸頃まで咲いていて欲しいですが…。
彼岸花が満開で、萩も咲き出したと言えば、すっかり秋景色。でも、木槿はまだ毎日新しい花を次々咲かせますし、百日紅の花も残っていて、秋と夏が同居したような境内です。 前回の更新も萩と彼岸花でしたので、今日はもっと別の、何か目新しいものはないかなぁと、境内を探索してみました。 まず手始めに、「 生まれ育った境内ですから、どこにどんな木があって、どんな虫が来るか、どんな実がなるかは、知れたこと。まずは、本堂脇の金仏さんのあたりに、マテバシイの実が落ちていないか探索。でも、やはり早すぎて、1つも落ちていませんでした。3センチほどある実は、独楽にしても、笛にしても、大いに活用し甲斐のあるものなのですが。 墓地に行き、毎年、団栗が落ちる場所に行ったら、白い萩の花が、古い墓石の前で風に揺られていました。 戒名から、やんごとなき女性の墓石であることが推察されましたが、今は花を手向ける人もなく、枯れ葉が積もる中に侘びしくたたずんでいました。世が世なら……栄華盛衰を絵に描いたような光景で、墓石の主が気の毒に思えましたが、清楚な白萩が墓前で揺れて亡者を慰めてくれているようで、その光景にとても救われた気がしました。 し ら 萩 は 咲 く よ り こ ぼ す け し き 哉 与謝蕪村 なぜかわかりませんが、「ひょっとして今日は去来の命日じゃないかなぁ」という気がして、去来の300回忌を期して、昨年、墓所の脇に建てられた掲示に目をやると、「宝永元年(1704)9月10日没す」という文字が見えました。 何という……この場所にボクが来るのは年に数回。今日は団栗を求めてここに導かれ、何かしら気配を感じて確かめると、まさに300年目の祥月命日。ボクは、今日が去来忌だと覚えていたわけではなかったのですが…。 命日だとわかった時は、「ああ、やっぱり」と大して驚きもしなかったのですが、今思い起こしてみると、とても不思議な気がします。まるで、去来翁に呼ばれたようにも……。 去来は、長崎で生まれ、8歳の時に一家で京都の中長者町に越してきて、医師である父や兄を手伝いながら、自身も医師を目指しました。30歳の頃、芭蕉に師事し、嵯峨野に草庵を結んで「落柿舎」と名付け、芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆しました。54才で没し、真如堂で葬儀がおこなわれて、ここ向井家の墓地に埋葬されたということです。 去来の墓所で、風で折れたと思われる樫の枝を見つけました。枝には、小さな団栗が3つ付いていました。 凉 し く も 野 山 に み つ る 念 仏 哉 向井去来
真如堂で、善光寺如来の御開帳があった時に詠んだ句
団栗探しは一段落。墓地から出て、本堂の裏に、サンシュユの実を見に行きました。 |