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真如堂 NOW !!



恨めしい青空に紅梅。この後、薄曇りに。

 昨日の予報では、今日は雪。「どこが!」と言いたくなるような今日の青空。寒さも和らぎました。
 朝5時45分 大阪管区気象台発表の発表では、「近畿地方中部の平野部では、積雪の可能性はなくなりました」とのこと。そんなことは、この空を見れば誰でもわかります。
 いつもは土曜日に更新するこの頁も、雪景色をお届けしようと、1日待って今日更新することにしたものの、すっかり当てはずれ。今冬は雪景色をお届けすることなく、終わってしまうのでしょうか。
 仕方なく、季節の移ろいの少ない境内を更新ネタを求めてウロウロ。この紅梅の写真でしのぐことにしました。

 今日は節分。京都の多くの社寺でも行事が執り行われ、真如堂でも般若心経を365回唱える「日数心経」という行事を行います。
 節分は季かれ目。明日は立春。旧暦では、今日は大晦日、明日から新年。陰陽道では、大晦日(12月は丑の月)から新年(1月は寅の月)に移る今日、時間の

吉田神社の鬼たち。子供にはこわ〜い存在。
「鬼門」が生じる、陰と陽が対立して生じた邪気が生じるといいます。そして、それを封じるためにするのが追儺の行事だそうです。鬼は牛(丑)の角をつけ、虎の皮のパンツをはきますが、それもここに由来するらしいですね。

 昨夜、すぐお隣の吉田神社の節分祭に出かけました。
 節分追儺式といえば吉田神社というほど、京都では有名。節分厄除詣発祥の社ですって。
 午後6時、法螺の音高らかに、松明を掲げた行列が暗闇から現れました。童子を従えた方相氏、年男の上卿。そして、赤、青、黄の3匹の鬼が鉄棒を手にもって、道中でも大暴れ。こわがって親の後ろに隠れる子を見つけると、かえってエスカレートして、「ウォー!」 子供は「ギャー!!」 反対に、「ワァー!」とやり返す子も。
 一行は境内の舞殿周辺で「追儺式」を行うのですが、ものすごい人で(警察発表では4万人)身動きができず、とてもそこまで辿り着けませんでした。
 楽しみは約700軒の露店。たこ焼き、お好み焼き、鯛焼き、巻きずし、濁り酒、漬け物、ドングリ飴、干物、ガラス細工、あてもん、お面、占い…いやぁー楽しくってワクワク! 雰囲気を満喫しました。

古いお札やお守が炊きあげられる炉
 今夜11時からは、「火炉祭」があります。京都の人には、古いお札やお守をこの日まで取っておく人が多くおられます。高く積み上げられた古いお札やお守が浄火で燃やされ、この火にあたると無病息災のご利益が頂けるんですって。燃えるのには2昼夜かかるそうですよ。

 吉田神社は、貞観年間(859-77)に平安京の東、神楽岡の西麓に、藤原氏北家魚名流の後裔 藤原山蔭が、藤原氏の氏神の奈良・春日大社の4神を自邸内に勧請して創建したことに始まります。
 当初は山蔭家の氏神的性格が強かったものの、山蔭の子中正の娘(時姫)と藤原兼家との間に生まれた詮子(東三条院)が円融天皇の女御となるにつれ、兼家の権勢はもちろん、山蔭の子孫の地位も上昇し、一条天皇が即位された寛和2年(986)、大原野神社の大原野祭に準じて、朝廷の祭である公祭に列することが定められました。
 東三条院は吉田社を尊信され、その子である一条天皇は永延元年(987)に行幸を行い、以後、吉田社では朝廷より幣を奉った官祭が始められるようになりました。
 吉田社は、平城京の春日社、長岡京の大原野社に準じて、藤原氏の氏神三社のひとつとされ、延暦寺が平安京の鬼門とされるのと同様、吉田・大原野(裏鬼門)両社が都を守護するとという意義は、摂関政治全盛期にますます大きくなったといわれます。

露店も大きな楽しみ
 藤原山蔭は、明治の廃仏毀釈の頃に吉田山から真如堂境内に移築された新長谷寺を創建した人。東三条院は、もちろん、真如堂創建の願主。一番最初に真如堂が創建されたのは、東三条院の離宮の中だといわれていますが、この辺り一帯が藤原家ゆかりの地だったのでしょう。

 吉田神社のある吉田山は、神楽岡とも呼ばれています。古来より、天の神々が降りて来られた時に 身を宿らせる「神座(かみくら)」だと考えられ、次第に神楽岡と呼ばれるようになったといわれます。
 「日ノ神が天の岩窟に籠もられた時、八百万の神々が神楽を奏され、其の地の一角が落ちて山となった。そして雷神がその山を裂いて2つにした。1つは如意嶽(大文字山の主峰)で、もうひとつは神楽岡となった。村人たちは雷神を地主神と崇めて、後に神社を建ててそこにお祀りした。今の神楽岡社がそれである。…この故事に倣い、縁によって、此処を神楽岡とも日降山とも称し、(吉田神社の)大元宮より本宮への坂を『日降山』という」と『吉田神社誌』には記されています。
 真如堂の山号は「鈴声山」ですが、それは「八百万の神々が神楽を奏され」た時の鈴の音が聞こえてきたというのが起源なのです。
 雷神が山を引き裂いてできたのが、如意嶽と神楽岡(吉田山)であるという伝説。地理的には、西から 神楽岡〜真如堂〜如意嶽と山や岡が並んでいますが、神楽岡の西に1本、神楽岡と真如堂の間に1本、真如堂と如意嶽の間に2本(疑いのあるのがもう1本)、実に4本もの断層(花折断層)が、この2キロほどの間にひしめいています。伝説は、地学的な裏付けを持っているのです。

本殿前。提灯の紋は下り藤。詳細が見えませんが、藤原家系の紋
 桓武天皇は、神楽岡(「康樂岡」と表記)で狩猟を楽しまれたと記録されています。桓武帝が再三この地を訪れたのは、狩猟というより、遷都の下見だろうという指摘があるそうです。
 平安京の北京極大路(一条大路)の東西延長上にある吉田山と双ヶ丘、また平安京朱雀大路の真北に位置する船岡山の三山は、「平安京の北辺を守衛する形態」をとっていて、大和三山(香久山・畝傍山・耳成山)と同じ歴史的・文化的意味をもつ「平安京三山」であったらしいというのです。つまり吉田山は、平安京の地の「鎮め」の山であり、神仙思想にいうところの三神山の1つと考えられています。
 平安時代前期からは天皇家の陵墓地となり、嵯峨天皇の女潔姫、後一条天皇、一条院(章子内親王)らが葬られ、貞観8年(866)には一般人のこの地への葬送を禁止する勅が出ています。
 ちょうどその頃、藤原山陰が吉田神社を創建。次第に王城鎮守の神として権威が確立されるのと共に、この辺りが公武の邸宅や寺院が建設される地となっていきました(主に神楽岡の西側)。吉田神社繁栄の恩人である東三条院は、度々この地を訪れたでしょうし、真如堂創建の地、東三条院の離宮が神楽岡に隣接してあったことは十分納得のいく話です。
 天下掌握を目前にした信長は、権力の象徴とする城を神楽岡に造ろうと考えていたそうですが、朝廷や社寺の「抵抗勢力」を避け、遠く離れた近江・安土に城を造ったという説もあります。

 今週も、すっかり「歴史編」になってしまいました。おつき合い、有り難うございます。
 でも、もし、藤原家の尊崇を受けた吉田神社がなければ、真如堂も存在していなかったかも知れない…。そう考えると、いろいろなところで繋がっている歴史の不思議を感じます。調べれば調べるほど、面白いですね。