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臨終の時、阿弥陀如来が二十五菩薩を従えて西方浄土から来迎した。左から2人目の僧が戒算
『真如堂縁起絵巻』
 1月27日は、真如堂開山戒算上人の命日です。
 そもそも真如堂は、比叡山常行堂の阿弥陀如来を東三条女院(藤原詮子)の離宮に遷座した(984)のが始まりで、その後、一条天皇の勅許で堂舎を建立(992)し、同如来を遷座して本尊としました(994)。
 東三条女院は、円融天皇の女御、一条天皇の母であり、弟である藤原道長栄達の大きな後ろ盾でした。また、『源氏物語』の藤壷女院のモデルであり、『大鏡』『栄華物語』など、資料に事欠きません。
 ところが、戒算上人(963-1053)についての資料は、『真如堂縁起』などを除いてほとんどなく、縁起にも詳しいことは記されていません。
 後世の資料『本朝高僧伝』(1702 卍元師蠻著)も縁起を基にして記されたようで、同書は、次のように記されています。
「戒算 出身については不明。長い間比叡山で天台の教えを学び、実践・理論に通じる。後半はもっぱら浄土教を学ぶ。永観2年の春、常行堂(比叡山)の本尊阿弥陀如来が戒算の夢に現れ、『私は聚楽に出てすべての民衆を救いたい。汝はその計画を進めなさい』と言った。戒算は比叡山の僧衆を説得して、安置する場所を東山の神楽岡にすることにした。正暦3年に宣旨を承って寺を建立し、鈴聲山真如堂と名付ける。正暦5年8月11日に比叡山の高僧たちを招請して仏像を遷す供養法会を行う。長保元年の春、戒算は1丈6尺(約5m)の涅槃仏を造刻して後門楼上に安置し、2月中旬より4月の初めの間、涅槃会を開いて不断念仏を行う。毎日午後に戒算は浄土三部経を説く。京都の人々はこぞり来て門前に満ちた。天喜元年正月27日老衰により臨終正念しながら遷化する。享年91才。中世、寺を洛中に移したが度々類焼(移転?)の災いに遭う。元禄年中に旧跡に復帰する。」(苦沙彌現代語訳)。

正暦3年(992)の宣旨。内裏清涼殿。簾の奥には一条天皇。笏を正して宣旨を受け取る公
卿。庭には、戒算にそれを伝達する赤い袍を着た地下人(昇殿を許されない六位以下の人)。
 戒算上人が生まれたのは963年(没年から逆算されたものと思われる)。とすると、「比叡山の僧侶が集まって議論した。大切なお堂の仏さまを下山させることに異論を唱える者が多かったにもかかわらず、阿弥陀如来の伝記に重なる部分がありそれを抑えることができず、戒算の主張通りに下山させた(苦沙彌訳)」と『真如堂縁起』にあるのは、実に戒算上人21才の時。あまりにも若すぎます。また、『本朝高僧伝』に「長い間比叡山で天台の教えを学び」とありましたが、15才ぐらいで得度するのが普通の時代、21才までの期間は決して長くありません。まったく不思議なことです。
 何かとっかかりはないのかなぁ…。そう、「算」という字。坊さんは弟子の名前をつける時、代々受け継いできた法脈の字をもらうことが多々あります。ボクなら「純」という字。先代が「純孝」でした。
 『縁起』には、「とりわけ戒を守ったゆえに戒算の号を得た」と記されています。「戒」の字は、後から付けられたのかも知れませんが、「算」は受け継いできた字かも知れません。
 少々乱暴な推理ながら、早速、同時代頃の「算」の付く天台系の僧侶を探しました。


左端が戒算上人? 仏さまを遷座する話し合いをするのにどうして僧兵の格好をして いるのか…円仁派と円珍派の争いの
さ中、強引に遷座されたのかも知れません。
   その前に、当時の延暦寺の状況について。比叡山はまさに大荒れの時代でした。
 延暦寺の再興責任者 天台座主は、第4代円仁、第5代円珍以後、6・7・8・10・11代と円珍派が続きますが、12〜17代は円仁派に逆転します。
 18代座主に円仁派の良源(元三大師)が就任(966〜984在任)し、荒廃していた延暦寺の復興にあたりますが、その陰で派閥化が一層進みます。19代座主に良源の弟子尋禅が、それまでの修学と年功による席次決定のルールを破って就任(985)、円珍派の反発のためか5年で勅許を得ないまま辞任。20代座主に円珍派の余慶が就任(989)しますが、就任の勅使を円仁派が妨害し、その後もことごとく執務を妨害したため、わずか3ヶ月で辞任。
 円仁派の21代陽生、直弟子の22代暹賀が就任(990)するにいたって、円珍派の勝算・成算が赤山禅院を襲って円仁の遺物を破壊。これに怒った円仁派は円珍派の坊舎を襲い、40余宇を破壊し、門徒千余人を追放。円珍派門徒は円珍の影像を負って、三井寺に入り、確実に決定的に分裂。円仁派を山門派(延暦寺)、円珍派を寺門派(円城寺=三井寺)と呼ぶのはここに由来します。朝廷や摂関家の思惑も相まって、両派はこの後も長く激突を続けます。
 良源は、比叡山の財政確保のために荘園経営にも積極的でした。また、そのために武力も必要で、下級僧侶を僧兵として再編成したともいいます。荘園といえば、弟子の尋禅(19代座主)は藤原師輔の子で、師輔死後、各国の11カ所の荘園が尋禅に財産分与されています。尋禅の資産は師である源信を通じて比叡山の費に充てられ、それは源信の発言力を増す基礎にもなったでしょう。

 前置きが長くなりましたが、「算」の付く天台系の僧は、同時代の円仁・円珍両派に存在します。
 まず、円仁派。門下3000人といわれる良源の弟子の中、源信(恵心僧都)・覚運・尋禅・覚超は四哲と言われます。その覚運の弟子に、長算(991-1057)、広算(-1080)の名が見られます。
 覚運(943?-1007)は、藤原南家(真作家)の出身で、比叡山の大きな流れ檀那流の祖。念仏を宗とし、紫式部に仏教を教えたともされています。長算は藤原北家の出身で良源をバックアップした藤原師輔の曾孫、広算も藤原北家(日野家系)の出身です。
 他にも、円仁派には正算(余慶を排斥後、981年法性寺座主)という名も見られます。  一方、円珍派にも房算、前述した余慶の弟子勝算・成算や穆算、済算という名が見られます。


藤原北家と良源法脈の関係(一部推測)
 また、いずれの派か不明ながら、是算(曼珠院初祖、947年初代北野別当職、菅原氏)、處算(1000年四天王寺別当就任、同年東三条院同寺を参拝)という僧もいます。
 はたして、戒算はどの流れに属していたのでしょう。真如堂本尊阿弥陀如来は円仁の自作であると伝えられること(後述)、円珍の教義は密教を主体としたもので、真如堂の浄土信仰とは流れが違うことなどから考えると、戒算は円仁派の流れを汲んでいると考えるのが自然でしょう。
 藤原詮子は円融天皇崩御(991)の後、出家して、東三条院となられますが、その時の戒師は良源の弟子 多武峰の増賀という説もあります。また、亡くなる6日前に髪を落とされますが、その戒師は覚運(前述)とされています。
 逆に、弟の道長は円珍派に対する信任が篤かったという史実もあります。また、真如堂本尊阿弥陀如来は、円仁自作とされていますが、作風などから見て、康尚(定朝の父)前期の作であろうという学説があります。康尚は道長に重用されていること考え合わせると、円珍派説も捨て切れませんが…。
 永観2年(984)、詮子・道長の父 兼家は、良源に祈祷を依頼。詮子や詮子の子すなわち円融天皇の皇子も参列しています。その翌年、良源は遷化、後を継いで座主になった尋禅は師輔の子で、兼家とは兄弟。詮子にとっては叔父です。永観2年(984)、比叡山の阿弥陀如来が詮子の離宮に遷座され、真如堂の歴史が始まります。やはり、円仁派と考えるのが自然でしょう。
 戒算上人の位牌には、「台嶺除饉男戒算」と彫られています。比叡山の比丘戒算ということです。普通、僧侶には律師・僧都・僧正などという僧階が付きますが、ついていません。当時、僧侶の任官や行政は国が行っていて、その記録『僧綱補任』などが残されていますが、「戒算」やそれらしき名は出てきません。当時の僧の2/3近くは国の許可を受けていない「私度僧」であったとも言われます。
 さて、説明しているボク自身も頭の中がすっかりもつれていますが、ボクの大胆かつごく私的な推測では、戒算上人は詮子に近い藤原北家の出身、円仁−良源−覚運−長算の法脈の中にある人物で、国の僧官システムにのっていない僧侶ではなかったのではないか…念仏という観点からもそう思います。まだまだ検証作業を続けてみないとわかりません。
 それは別として、戒算上人の末弟として、命日には心が引き締まる思いです。
 最後までおつき合いいただき有り難うございます。

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