1/12版 

真如堂 NOW !!


暖かい日差しをうけてキラキラ光って喜んでいるかのような枝

 高気圧に広く覆われた今日は、春を感じさせるような陽気。コートなしで歩いていても、少し寒さを感じません。3月下旬〜4月上旬の気温です。
 ほとんど人影のない境内にもあたたかい陽が差し込み、木々の枝が明るく輝いています。新芽はまだまだ小さく堅いものの、梅のつぼみは膨らみ、開花までもう少し。水仙やロウバイなどは、陽射しを受けたことによってますます香り立ち、目をつぶって歩いていても、近くにあることがわかります。
 連休中はこの陽気が続くとか。出かける予定の方には有り難いですね。


陽光に咲く水仙。苦沙彌の大好きな花の一つ
 今朝早く、滋賀県志賀町まで行かなければならない急用ができました。真如堂から八瀬・大原を通って、滋賀県との境である途中峠を越え、琵琶湖沿いを比良山の麓辺りまで、車で向かいました。
 陽光は車中に降り注ぎ、まるで初春のドライブ気分。大原まで来ると田畑がうっすらと霜で白くなっていて、ビックリ。さらに途中峠の手前まで来ると、残雪の塊が所々に認められ、さらなる驚き。「さすが 大原!」。琵琶湖側から眺める比良山系は、頂上付近や尾根あたりが白くなっていました。

 小一時間で所用を済ませ、せっかくの好天をこのまま帰る手はないと、ちょっと回り道をして、以前から訪れたかった場所を訪問。

 まずは、「苗鹿(のうか)明神」。
 『真如堂縁起絵巻』に、「天長年中(823〜834)、志賀郡苗鹿明神 覚(慈覚)大師に対面ありて、如法経堂の番神入衆望請ありける時、栢木柱一本彼の明神より助成あり。此の木の本を切るに、毎夜光明を放つの間、大師怪しみ給いて打ち割りて見給ふに、一片は坐像

苗鹿明神の差し出す木を割ってみると、坐像と立像の阿弥陀如来が浮かび出た
の仏体、一片は立像の尊形、木の目に鮮やかに見ゆ。よって、この霊木を以て先ず弥陀坐像一体造立し給いて、大師随身奉持し給いしが、後には日吉社念仏堂の本尊となり給ふ。今一片の木、立像の形あるをば、憶念し給ふ事ありて、その時は造立し給はざりしなり。(略)さて以前のこし置かれし木片にて、弥陀立像一刀三礼に彫刻して、彼の船中出現の化仏を腹身し給ふ。当堂の本尊是なり」と、本尊の由緒が記されています。
 慈覚大師が真如堂の本尊を彫られた霊木は、苗鹿明神からいただいたものだというのです。
 161号線沿いに「苗鹿」という交差点があり、苗鹿明神がその辺りにあるだろうということは以前から知っていましたが、今日こそ訪ねようと思い立ったのです。
 161号線雄琴温泉の南「苗鹿」の信号を比叡山側に曲がると、大きな木の生えている場所があり、遠目にもそれが鎮守の森であろうと察しがつきました。
 前まで行くと、「那波加神社」の石碑。「これで“のうか”と読むのかなぁ」と思って、境内に進みました(「なはか」と読むらしい)。社務所は無人、社殿もさほど大きくはありません。50mほど離れたところには「那波加荒魂神社」。こちらにも大きなケヤキの木が生えていました。
 那波加神社の境内には、直径1メートル余の朽ちた切り株が残っています。「慈覚大師は、こんな大きな木を明神さまからいただかれたのかなぁ」と想像しました。
 しかし、那波加神社と苗鹿明神が本当に同一の神社か不安。苗鹿地区の地図では、他の神社の存在は確かめられませんし、神社の由緒書きは字が薄れてよくわかりません。帰ってから、地図やWEBで2時間ほどの調べに調べた末、ようやく資料を発見。苗鹿明神は、江戸時代に発刊された『日本名所図会』などにも記載されている「人気スポット」でありながら、どうしてこんなに資料が少ないんだろう…。

那波加神社の正面。ここの神さまがご本尊の霊木を寄進
 「那波加神社の祭神 天太玉命は太古よりこの地に降臨し、天智天皇7年(632)営社、垂仁天皇の皇子小槻氏の始祖である於知別命を配祀し、那波加荒魂社は、平城天皇大同2年3月(807)斎部宿祢廣成天太玉命の荒魂社として本社の別宮として創建されたと伝えられる。醍醐天皇延喜の制(延喜式 神名帳)にもその名を列ね、また天台宗の根本法華経を護る三十番神の29日の神として現在も著名大社の神々に並んで信仰されている」云々。酒井神社
 苗鹿大明神は三十番神の29番ですので、これらをつき合わせると那波加神社と苗鹿明神が同一であることは確かです。「なはか」が「のうか」と音便が変わったのかも知れません。(『古事類苑』)

 話がそれますが、慈覚大師の伝記によると、40才になられた大師は、東国巡礼から比叡山に戻られた時(天長9.832)、栄養の偏りなどが原因と考えられる失明の危機に陥られます。保養より死に備えることが大事と、伝教大師の刻まれた阿弥陀如来の安置場所を求めて横川を開かれ、そこに草庵を設けて、安静臨終の場所と考えられました(杉の木の大穴という説もあり)。法華経読誦などの行を重ねること1年ほど、目の具合はますます悪化し、草庵の外へは一人で出られないほどになったといいます。
 そんなある夜、大師が端座黙然されていた時、天人が天下って来て、瓜に似た果物を差し出しました。大師はそれを割って半分を食べたところ、大変美味で、爽快な気が体中にみなぎったといいます。天人は、「これは帝釈天が法師を助けようと下さった不死の妙薬です。私は法華の行者を守護する松尾の明神です。今日は私の当番の日ゆえ、法師を見守りに来たのです。さぁ、残りもお食べなさい」。こうして大師の視力は回復し、身心も元気を取り戻されました。
 大師はこれを機縁として法華経書写を始められ、草庵(大杉?)近くの小高い丘に法華経を本尊とした「如法堂」を建立されました。そこは次第に多くの行者の集まる修行道場となって、「首楞厳院(=横川中堂)」と呼ばれるようになりました。

 苗鹿明神が栢の木を寄進して置いたのは、大師が建立された「如法堂」の門内となっている(『真如堂縁起』の挿絵)ことから、その出来事は天長10年か11年(833or834)、慈覚大師が失明の危機から脱して、法華経の書写に打ち込んでおられる頃でしょう。
 松尾の明神とは京都の松尾大社のことで、如法経守護三十番神の第4に数えられています。「今日は私の当番の日ゆえ」というのですから、何月かはわかりませんが、4日の出来事でしょう。ここでも、三十番神なのです。
 三十番神とは、1ヶ月30日間に30の如来や菩薩を割り当てたもので、禁闕守護・法華守護など10種類ほどがあります。
 法華経守護番神は、もともと慈覚大師が首楞厳院に納めた法華経を守護するために、日本国中から著名な12の神々を選んで横川に勧請されたものです。その後、首楞厳院の長吏となった良正阿闍梨によって18神が追加され(1073)、法華経守護三十番神が完成したといいます。
 『真如堂縁起』に「如法経堂の番神入衆望請ありける時」とありましたが、霊木を大師に提供した苗鹿明神は、このことを縁に首楞厳院の法華経を守護する三十番神に加わったのでしょうか? 時代的には矛盾がありますが、興味深い話です。

 皆さんは大津・雄琴温泉をご存じでしょうか? 雄琴は那波加神社の祭神の末裔 勘解由次官小槻今雄宿祢によって開かれていますが、今雄宿禰は清和天皇貞観5年(863)、神社の領地に別当寺の法光寺(天台宗 現存)を建てる勅を奉じます。境内には霊泉が湧き、その泉を飲めば病もたちどころに治るということで、西近江路を往来する旅人がこぞって参詣し、大いに賑わったといいます。30番神に加えられた頃には、苗鹿神社は“人気のある”神社になっていたのではないでしょうか。
 また、慈覚大師は壬生氏の出身ですが、壬生氏の遠祖は小槻今雄宿禰。苗鹿明神(那波加神社)の祭神は、小槻氏の始祖である於知別命。慈覚大師と苗鹿明神(那波加神社)は、もともと縁があったのですね。なんと、栃木県壬生町には、小槻今雄を祭神とする「雄琴神社」まであります。不思議なつながりです(大津・雄琴にも小槻今雄を祭神とする「雄琴神社」があります)。
 こうして、史実や伝説をつき合わせていくと、いろいろなことが紐解かれてきて、もちろん作話だと思われることも多いですが、とても面白いですね。でも、だんだん頭の中が混んがらがってきました。

 今日の「真如堂 NOW !!」は、とても長くてスミマセン。もうしばらくご辛抱を。


穴太 真如堂(宝光寺)。門の前の石碑には「元真如堂 寶光寺」の文字
 さて、もう1カ所は「穴太(あのう)真如堂」。
 応仁の乱の頃、真如堂のご本尊は、応仁2年(1468) 比叡山黒谷青龍寺に遷座。しばらくして、もとの堂舎は西軍によって打ち壊しにあい、荒野となってしまいます。
 延暦寺では、本尊を坂本へ移した方がいいだろうかと相談をしていました。その折もおり、
 「穴太下司竹内と申すが夢に老僧ありて、『我は洛陽東山辺りの者なり。近頃青龍寺にあり。緇素利益ために下山すべし。汝が敷地 東の方、我に与えよ」と宣ふと覚えて夢覚めぬ』(中略)『さては疑いなし』とて、やがて敷地を寄進申せしかば、穴太に一宇を建立して、文明2年(1470)3月15日に、穴太真如堂(宝光寺と号す)へ之を移し奉る。貴賤群衆、今に本所を恥じざるものなり」 『真如堂縁起』

穴太 真如堂の造立。左奥は琵琶湖。手前の家で寝ているのは穴太下司竹内
 こうして、真如堂本尊は文明9年までの7年間を法光寺で過ごされることになりました。
 穴太は、穴太積で有名な石工集団 穴太衆の故郷です。
 宝光寺へは、坂本に住んでいた比叡山高校時代(30年ほど前)に、前を通り過ぎた記憶はありますが、場所も憶えていません。細い道を南へ北へ、登ったり下がったり。脱輪するなどさんざんでしたが、ようやく見つけました(後から考えると、1〜2ヶ月に1度は通る道のすぐ近くでした。(^_^;)
 最近、再建されたと思われる本堂の扁額には「鈴聲山」と、“本家”と同じ山号。門の右に立つ石碑には、「元真如堂 寶光寺」。まさしくここに間違いありません。
 法光寺は、現在、天台真盛宗に属しています。残念ながら、本堂内を拝することはできませんでしたが、これまた満足の一時でした。
 14日は慈覚大師の命日。今日、この2カ所を回れたのも何かの縁のような気がします。

 明日は全国都道府県対抗女子駅伝。また、駅伝を避けた移動経路を考えなければなりません。
 それにしても、更新完了が夜になってしまいました。あ〜、疲れた。