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今日の真如堂?


真如堂開山 戒算上人949回忌の法要

 寒さがゆるんだ京都。今日は、夕方まで雨。東京は大雪警報が出るほどのお天気とか。わずかな距離ながら、ずいぶんと違うものです。

 今日は真如堂の開祖である戒算上人の949回忌。朝11時から、本堂で「法華三昧(ほっけざんまい)」の法要が営まれ、檀信徒を代表して、塔頭の総代などが参列されました。
 寒さがゆるんだというものの、本堂は他よりずっと冷え込みます。参列の人たちは受付で携帯カイロを貰い、本堂へ。「これは修行ですなぁ」と言う初めて参列の人にベテランは、「例年はこんなもんやないですよ」「今日は暖かいです」と。
 この法要では、「長素絹(ながそけん)」という裾の長い衣を着ます。堂内で行道する時も、この長い裾を引きずって。ところが、時々、裾が引っかかってあわてることも。


臨終の時、阿弥陀如来が二十五菩薩を従えて西方浄土から来迎。合掌する戒算(左から2人目の僧)

 『真如堂縁起』は、「天喜元年(1053)正月27日、臨終に際して、戒算は静かに顔を西に向けた。上人の眼底にはありありと聖衆の来迎の姿が写った」と臨終間際の様子を伝えています。享年91才の長寿でした。
 「戒算」は歴史上にも名前を見ない僧侶で、戒律をよく守ったところからその名をおくられています。藤原氏の出身であるとか諸説ありますが、本当のところはわかりません。
 上人の没年齢から単純計算すると、真如堂開創は上人の22才の時。いくら高徳の僧であったとしても、その若さで比叡山の重要なお堂の本尊を下山させ、天皇の女御が願主となった真如堂の開祖になれたかどうか。
 一方、願主である東三条院(藤原詮子)は真如堂開創の時(984)23才。980年に男子(後の一条天皇)を出産したものの、まだ権力の第一線にはいません。986年にその子が即位。991年には出家して「東三条院」と称しています。
 真如堂が建てられたのは、藤原一族の所領地の中。これはあくまでも想像の域を出ませんが、藤原詮子が寺の建立を発願し、比叡山の協力を得て(命じて?)、常行堂の阿弥陀如来を奉じて真如堂を建立。その時、併せて下山した若い僧侶が戒算上人だったのではないでしょうか。また、991年の詮子出家は時の天台座主が戒師をつとめている経過などからみて、戒算はその座主の弟子関係にあった人物か、あるいは詮子の人脈の藤原一門から出家した者ではないか、などといろいろな想像が膨らみます。
 いずれにしても、お寺を開いた人のことがこんなにわからないお寺ってあるのでしょうか?

 例年、この開山忌から2月12日の東三条女院の命日までが、真如堂の寒さのピークです。
 来週は節分。また雪かなぁ。