4/8版

今日の真如堂?



三重塔南側の垂れ桜。今日満開に。

 花冷えなのか、ここ数日、肌寒い日が続いています。各地から花便りが聞こえてくるものの、京都の桜はそれに比べ少し遅れていました。
 京都の市街地より気温が低い真如堂では、町中より開花が遅れ、染井吉野は今朝ようやく3〜5分咲き。去年より1週間ほども遅れている気がします。
 来週の土日では少し遅いでしょうから、花見は今日明日が最高潮。たくさんの人出で、京都市内は混むことでしょう。

 花見の客はお酒を呑んで騒いだりしてマナーが悪いと、真如堂では境内に桜を植えるのを控えています。それでも、30本以上はあるでしょうか。いずれも老木で、地盤が固いせいもあるのか、ちょっとひねています。花にも心なしか、勢いがありません。

 真如堂の桜の中でも有名なのは、本堂南側の「たて皮桜」。徳川家光公の乳母春日局が、父斎藤内蔵介利三の菩提を弔うためにお植えになったといい、普通の桜と違って、松の皮に似て縦に表皮が走ることから、この名があります。
 もともと直径1メートル余の巨木でしたが、昭和33年(1958)伊勢湾台風で折れ、枯れる寸前、若芽を接ぎ木し、今では毎春少し小振りな花を咲かせるまでになりました。

 小説家の水上勉氏は、小説『桜守』の中で、この桜のことを次のように書いておられます。
 「その人は宇多野礫平といった。弥吉も戦前から名は知っていた。竹部とも懇親で、京都では桜栽培の第一人者といわれた人である。自宅近くに山をもち、苗囲もあった。戦争中は山も淋しくなり、字多野の苗圃は農地転転換で大半は伐られていた。けれども、良種の桜だけは頑固に匿し植えていて、終戦になると、すぐ苗木の育生にのりだしている。荒廃した京の社寺や、川堤に、品種に富んだ桜林が春を競ったのも、みなこの人の力といえた。円山公園のしだれ桜を植えかえたり、名桜巨桜といわれる市内外の桜を保護育生した隠れた人である。昭和24年の9月だったが、真如堂の巨桜が風で倒れた際、宇多野が折れた巨桜の地上10尺にみたない空洞の樹幹をみて、まだ活力をみせているの

たて皮桜。まだ3分咲き程度かな

に哀れをおぼえ、冒険的に若木の枝をさし接いだ。巨桜は3百年たっていたろうか。樹の芯は洞穴になっていて、倒れた時は無ざんだった。弥吉も見にいって知っているが、皮は裂け、四半分しか残っていなかった。それはまるで、板を立てかけたようだった。宇多野は、この皮に若木を接いだ。桜の寿命は学者によれば50年といわれているけれど、職人にいわせれば樹に寿命はなかった。枯れかけた老木の皮が、若木を活着させて、見ごとに枝を張った。葉も大きかった。宇多野は親桜と同種の桜を接いだのである。弥吉は、めずらしい巨桜の底力をみて感動すると共に、周りに1本の石をたてて、「たてかわ佐久良」と宇多野が命名しているのに涙をおぼえた。京都にも竹部庸太郎のような人がいるものだと、その時、弥吉は思ったものである」と。

 登場人物の「宇多野礫平」は京都の庭師・佐野藤衛門氏がモデルで、佐野氏自身もご自分が接ぎ木したと言っておられるようです。でも、実は佐野さんが接ぎ木されたのはすぐに枯れてしまい、その後、私の父が接ぎ木したのが活着したということです。
 こんなこと「桜守」で名高い佐野さんには聞かせられませんね。

縦に走るたて皮桜の樹皮と小振りな花

 今日から来週末頃までが、春の花のピーク。桜、サンシュユ、馬酔木…花の木の小さな小さな花も咲いていますよ。よーく見ないとわかりませんが。

 普段人気の少ない境内も、今日・明日は、花見の客で賑わうでしょう。
 ちなみに、自分たちの花見の場所を幕で囲んだり、カラオケを持ち込んで大騒ぎするのは禁止ですヨ。

 花のことばかり書いてしまいましたが、今日はお釈迦様の誕生日、「花祭り」です。朝から、本堂でお勤めがあり、誕生仏に甘茶をかけさせていただきました。