紅葉の美しい寺として、近年、多くの方にお参りいただくようになった真如堂。
秋は住んでいる私でさえビックリするほどの人出ですが、それ以外の季節は、犬の散歩の人が往来するようなのんびりとしたお寺。
「苦沙彌のインターネット僧坊」は、その真如堂の塔頭吉祥院の住職が発信している私的なホームページです。
「苦沙彌」=「くしゃみ」と読んでください。時々、「くさや」と読む方がおられます。私の愛読書 漱石の『吾輩は猫である』の飼い主の教師の名で、「沙彌」とは「駆け出しの坊さん」という意味です。
何年経っても駆け出しの坊さんが、境内の四季の移ろうさまや仏教の話題、訪問してくださる方々の交流の場として開いているのが、この僧坊です。
真如堂は、正式には鈴聲山 真正極楽寺といい、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。
真正極楽寺とは、「極楽寺という寺は多いけれど、こここそが正真正銘の極楽の寺である」という意味。一般には「真如堂」と呼ばれていますが、それはもともとは本堂の呼び名でした。
今から、約1千年前の永観2年(984)、比叡山の戒算上人が、比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(慈覚大師作)を東三條女院(藤原詮子。円融天皇の女御・一條天皇の御母)の離宮があった現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりです。
慈覚大師が30才過ぎの頃、滋賀県の苗鹿明神で根元が毎夜光っている霊木を見つけられ、それを割ってみると、座像と立像の阿弥陀さまの形が現れたといいます。大師はこの霊木の片方で阿弥陀如来座像を造立し、自坊に安置。後に日吉大社念仏堂の本尊とされました。立像はそのままご自身で持っておられました。
その後、大師が唐(中国)に留学された帰り、荒れ狂う波間の虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れ、大師に引声念仏の一節を授けました。大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、大切にしまっておいた霊木で阿弥陀如来を完成させ、その胎内にこの3センチほど如来を納められました。
もうすぐ完成するという時、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」と眉間に白毫を入れようとすると、如来は首を振って拒否されました。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言われると、如来がうなづかれたところから、「うなづきの弥陀」とも呼ばれています。
その後、一條天皇の勅願寺となり、また不断念仏の道場として、浄土宗の開祖法然上人や浄土真宗の開祖親鸞聖人をはじめとする多くの念仏行者、多くの民衆の厚い信仰を集め、ことに女人の非常に深い帰依を得てきました。
しかしながら、応仁の乱(1467〜77)の時、この辺り一帯が東陣となって堂塔は打ち壊しなどに遭い、ご本尊は比叡山の黒谷、滋賀県穴太(あのう)に避難。その後も京都室町勘解由小路(足利義輝邸)、一条西洞院(1477)を転々とした後、旧地にもどり再建されました(1519)。その後、秀吉により京極今出川下るに移転(1578)しますが類焼し、ようやく元禄6年(1693)東山天皇の勅により、再び旧地にもどり再建されました。
今でも、寺町今出川下るには「真如堂突抜町」「真如堂前町」、一条西洞院(上京税務署近辺)には「元真如堂町」、烏丸二条に「真如堂町」として名残をとどめています。
本堂は、元禄6年(1693)から享保2年(1717)にかけて建立。十五間四面・総欅・単層入母屋・本瓦葺で、木材にはことごとく「○○家先祖代々菩提の為」と記されています。
正面「真如堂」の大額は享保11年(1726)宝鏡寺宮からの寄付によるものです。
本堂正面の宮殿(徳川五代将軍綱吉公と桂昌院の寄進)の中には、ご本尊阿弥陀如来・不動明王(安倍晴明の念持仏)・千手観音がおまつりされています。
紅葉のピークは年によって前後しますが、11月末〜12月初旬です。お参りは公共交通機関をご利用ください。
○京都駅より、京都市バス乗場(鳥丸中央出口)
乗場A1より5系統 または 乗場A2より17系統に乗車(約40分)
乗場D1より100チンチンバス系統に乗車(約40分)
○阪急四条河原町駅前 京都市バス5系統、17系統に乗車(約20分)
○三条京阪駅前 京都市バス5系統に乗車(約15分)
○京阪電車出町柳駅 京都市バス17系統、102チンチンバス系統、203系統に乗車(約10分)
○地下鉄丸太町駅前 京都市バス乗場 93系統、204系統に乗車(約10分)
→→→「錦林車庫前(きんりんしゃこまえ)」または「真如堂道」で下車、徒歩10分
○タクシーをこ利用の場合
→→→「真如堂のお寺」とおっしゃって下さい(京都駅から約25分、約2000円程度)
自家用車の駐車場はあまりありません。お参りは公共交通機関で。