エ ピ ロ ー グ

中国人の「食」

 9月5日 今朝は久しぶりに熟睡した。ラサにいるときは寝ながらも呼吸を意識し、夜中に度々目が醒めたが、夕べは枕が合ったせいもありよく眠れた。
 一流ホテルだが、朝食はあまり美味くはない。美味しいパンが食べられるかと思ったが、パサパサしている。パンの美味い不味いはホテルのランクとは必ずしも一致しない。
 食後、ホテルの裏にある青天の市場に行った。ブラブラ歩いていたのでどれくらいの距離かわからないが、500m程両側に店が続いていたのではないだろうか。骨董・植木・金魚・野菜・肉・魚・鳥・乾物、思い出せないくらい多くの種類の店がある。
 また、骨董屋を冷やかす。昨夜より高いと言って誰も買わない。
 盆栽は実に立派だ。中国4000年とまではいかないが、歴史を感じさせる。
 金魚屋が何軒もあり、タライで売っている。そういえば昨日の動物園にも金魚舎があった。成都では金魚を飼うのが盛んなのか?
 食材は言うまでもなく無数にある。生きた鳥が籠に入れられて並べてある。ホロホロ鳥、雉、にわとりも数種類いる。岸田さんは有機の養鶏を生業としているが、その鳥の種類の多さにはビックリしていた。
 カエルがいる。ザリガニが逃げ出して道を歩く。エビがタライから飛び出す。ウナギ・ドジョウなら許せるが、蛇もいる。とても見ていられない。ブタや牛がさばかれていく。腸詰めがブラブラしている。
 そんな中、霊茸を入りマオタイ酒のようなもののキャンペーンガールがウロウロしている。
 まさに、中国人のバイタリティーの源を見る思いである。「こんなものを食べている人たちにはかなわない」と素直に思った。
 面白くて時の経つのを忘れていたが、気が付くともう戻らなければならない時間である。同じ道を戻ると、またこっちで引っかかり、あっちで止まりという具合になるのは目に見えていたので、愛想のないメインストリートを帰路に選ぶ。
 ホテルに着くと集合時間を少し過ぎていた。ツアコンまでが一緒に遅れているのだから、仕方ない。
 遅れついでに、ホテルの売店で、「芝芝月餅」を買う。月餅のブランド品だそうだ。1つ250円程だったが、日本に帰って食べたら美味しかった。
 11時にホテルを出て、昼食がてら博物館付属の土産物店に行く。博物館らしく骨董品の売り物があるが、値段は夕べの露店の3〜4倍である。
 「これは戦国時代の本物だ」と店員は言う。「レプリカだろう?」と聞くと、「そうだ」とも言う。「本物なんだろう?」と確かめると、「本物」と言う。真偽はわからないが、「博物館付属で売っているのだから本物」というのが口上らしい。兵馬俑でも売る国だから本物かも知れない。
 偽物でも本物でも買う気にはならず、「現地ガイドの儲けがなくなるなぁ」などと言いながらも、ほとんどが向かいのデパートに行ってしまう。特に何を買うでもないが、ブラブラと店内を散策。ちょうど昼御飯時だったが、女店員たちはそれぞれの持ち場で、直径20センチほどのホーローのボールのようなものを食器にして、ビビンバのようなものを立ち食いしている。朝見た食材の豊富さと格段に差がある貧弱な食事であり、陶器の国にしてホーローの食器とは情けない。
 食後北京へフライト。また機内食が出る。
 大林さんが、「ネパールに行ってしまった2人がいないのが寂しいねぇ」と誰に言うとでもなくポツリと呟いた。

北 京 へ

 北京の空気も不味い。夜の闇は漆黒ではなく、埃混じりのグレーだ。
 杉本さんが成都の女性ガイドに「キープ」しておいた日本酒がまだ残っているというので、今夜も10時から宴会。
 もう大したつまみは残っていないが、最後の夜である。数日間の思い出話、江上弁護士の失恋の話、映画『ガイヤ・シンフォニー』の話、有機農業の話や環境の話など、時間が経つに連れ、1人減り、2人減り、最後は6人になったが、真摯に話ができる関係であることを嬉しく思った。「もう寝ないと…」と立ち上がったのは朝4時半だった。
 気分は充実しているが、体がついて来ない。5:45のモーニングコールまであと1時間。私は夜更かしが最も苦手なのに…。寸暇を惜しんで倒れ込むように寝た。
 山村さんは「今から寝ると起きられない」とダイアナ妃の特別番組を見ていた。

最後のアクシデント

 9月6日 今日、日本へ帰る。
 われわれとは別の関空帰着便に搭乗する梅原さん夫婦を残して、早朝ホテルを出発。車中、朝食のランチボックスを食べる。
 空港で、成田へ帰る組、関空へ帰る組に分かれて、チェックインをする。
 ここで思わぬアクシデントが起きた。
 森永さんが、「帰りの飛行機のチケットは持っていない」と平然と言った。皆、目が点になった。
 往路、関空組は各自で北京まで行って集合したため、帰りのチケットは成田組に同行するツアコンが管理せず、それぞれが持っているはずだった。しかし、森永さんは当然のごとく、チケットを持っていないという。正直、「来たか…」と思った。彼女は時々大ボケをするからだ。
 トランクや手荷物の中を、3人ほどで繰り返し点検したが出てこない。彼女は、「ないと思う。どこかで荷物を整理したときに捨ててしまったと思う」と言う。「まさか、でも彼女ならあり得る」と、万が一の可能性を祈念して、また荷物をひっくり返した。
 結局出てこない。大騒動だ。成田便は出発が1時間早いため、山村さんはそのチェックイン・出国手続きもしなければならない。関空組は北京に着いたときに帰りの便のリカバリーをしているので、彼女の名前は搭乗者名簿には載っている。紛失で処理できないかと、チェックイン・カウンターとの交渉が続く。カウンターの係員は会社に判断を仰いでいるが、なかなか連絡が来ない。われわれはその判断を待ちながら20分以上呆然と立っていた。
 私は、「北京でもう1泊しなければいけないかな…」と思った。しかし、翌日は従妹の結婚式がある。一番近い身内で、伯父たちにもずいぶん世話になっているので、欠席するわけにもいかない。かといって、彼女1人を置いて帰れない。知り合いの北京の旅行社に連絡して、翌日でもいいから彼女を日本へ帰れるようにしてもらおうかなどと、万一の時のために持ってきた旅行社の名刺を探したりした。こういう時は、ごく短時間のうちにいろいろなことを考えるものである。
 成田組のみんなから「もう限界だ」と呼ばれ、山村さんは「紛失がダメだったら、最終手段として、もう一度チケットを買って下さい」言って出国口に消えた。みんなも心配そうにこっちを見て手を振った。成田組の人たちとゆっくり別れを惜しむ暇がなかったのが残念だ。
 さて、残されたのは井戸夫婦、北山さん、森永さん、私の5人。少しは英語ができる北山さんが交渉したが、本社からの指示はチケットを「買い直せ」というもの。他の乗客のチェックインはほとんど終わり、人気がなくなって益々心細くなってきたわれわれに、片言の英語で交渉を続ける余裕はない。急いで航空会社のカウンターに行って5000元で購入した。
 再度チュックイン・カウンターで手続きをし、搭乗口に行ったが、「本当に帰れるだろうか」とまだ心もとない。座席に座ってもまだ落ち着かない。飛行機が飛び立ったとき、やっと「これで帰れる」と思った。
 初めての海外旅行の、しかも“大仕事”をしに来た森永さんのチケットを、私が預かっておくべきだった。
 機内の中国紙はダイアナ妃のカラー写真を大きく一面に載せていた。

エ ピ ロ ー グ

 あれから1カ月。今こうして旅の記録を締めくくろうとしている。
 繰り返し思い出しながら綴ってきた私の心の中によみがえってくるのは、ポタラでも

イメージ画像(「風の旅行社」パンフレットより)
ショートン祭でもない。やはり、カンバ・ラである。
 あの時、ヤムドク湖の向こうにチョモランマは見えなかった。しかし、今私の中に浮かんでくる情景の中には、限りなく青い湖面に白い雲が写るヤムドク湖、山の向こうに白く神々しく眩しいほどに輝くチョモランマがある。森永さんも、きっと同じだろう。
 故人もその美しい情景を眺めながら、チベットの大地と化し、やがて天球を駆けめぐる。われわれもその大きな流れの中にあって、やがて同じ道をたどるのだ。そんな悠久の時の流れの中に、自分が吸い込まれていくのを実感する。

 ありがとう、チベット…

1997/10/05      
旅の友に感謝しつつ 

※ 本文作成に当たり、『チベット』(旅行人発行)『チベット密教の本』(学研)『チベット−マンダラの国』(小学館)より、写真等を引用させていただきました。