忘れ得ぬカンバ・ラ

9月3日

 今日は森永さんと私にとって、今回のチベット旅行中、最も大切な日である。
 散骨をするためにチベット・ツアーに参加したものの、いつ、どこでできるのかというあてはまったくなかった。ラサについて初めて、山村さんや彼を通じて現地ガイドに相談し、いろいろと一緒に考えて貰った。
 まず、日本人がその遺骨をチベットの大地に撒くことに対してチベット人に抵抗がないかということを尋ねた。日本人が遺骨に関連して海外でトラブルを起こしていることを今までに何度となく聞いていたからだ。現地ガイドの応えは、「何も問題ない」というものだった。
 セラやデプンの寺に納骨することも、その裏山に散骨することも可能だという情報をガイドから得たが、故人には相応しくなかろうと思った。
 遺骨を川へ流すことも考えた。ラサを流れるキチュ川はヤルンツァンポ川に合流し、ブラマプトラ川となってガンジスと共に海に注ぐ。私には聖なるイメージがあったので、この川へ遺骨を流すことを提案してみたが、彼女のこだわりはあくまでも「山」だった。
 車をチャーターしてどこかの山へ行くことも、ショートン祭のために手配ができないだろうと言われた。
 山村さんに「山」へのこだわりを話した時、彼はオプショナル・ツアーで訪れる峠のことを話した。チョモランマが見える峠だと聞き、われわれも「それしかない」「それがベストだ」と即決した。
 ただ、散骨のために十分な時間が欲しいと思ったが、ツアーは峠で30分程度しか滞在しない。そのためにチベットまで来たのに、30分というのはどう考えても短い。気持ちを整理する時間も欲しい。
 結局、峠にわれわれを残して湖畔へ観光に行き、再び戻ってくる2時間後、散骨を済ませたわれわれを拾うということが大筋決まった。しかし、突き刺すような日差しの、何の日除けもない峠に、2時間いることができるかどうか、また標高4750mの峠で高山病の心配はないかなど、いくつかの問題を抱えながら、あとは現地で判断することになった。

 9時、ヤムドク湖に向け出発。
 ラサから空港へ向けて、初日走った道を逆走する。

 最初は4人しか参加者がいなかったオプショナル・ツアーだが、ラサでのフリータイムよりもチベットの自然を味わいたいという人が多くなり、加えてわれわれ2人も参加すること決め、結局、数日後同じ道を通って陸路ネパールへ行く横木さん以外はみな参加することになった。

 車中は例によって賑やかだが、彼女と私は黙っている。何も話せない、何を話していいかわからない。彼女の気持ちを考えると、涙がにじみ出てきて仕方がなかったからだ。
 散骨のことは、山村さん以外、まだ誰にも言っていなかった。峠につけばわれわれは別行動をする予定なので、ある程度の事情は話しておいたほうが良かろうと、休憩を終えてバスが再び走り出したとき、森永さんが説明した。
 「主人もタダで皆さんと旅行ができ、喜んでいると思います」と軽く言ったのでホッとした。涙ながらに説明をされたら、私も泣いてしまう。どうしようと思っていた。「上手に言えたね」と、私自身が泣かなくてすんだお礼のようなつもりで言った。


バスを降りて深呼吸
 ヤルンツァンポ川の大橋を越え、東へ取れば空港のところ、われわれは西へ行く。あたりは尖った岩がゴロゴロしている荒涼とした光景である。やがてすぐに道は細くなる。小さな村がいくつかあり、屋根の上にはタルチョがはためき、壁には牛かヤクの糞がお好み焼き状にして張ってある。糞を乾かして燃料にするのだ。この光景はインドなどでもよく見られる。
 やがて地道となり、山の間をグングンと登り出すと、岩だらけだった光景が一時ひらけ、段々になった麦畑が広がる。ここで“雉打ち”タイム。原住民が歩きながら羊の毛を紡いで、われわれの様子を眺めている。
 またしばらく走ると、急な山肌にヤクや羊が放牧されている光景が見える。もう畑作はできない荒れ地である。今度は深呼吸タイム。少し離れた丘まで歩いて行った。青や黄色の小さな花がきれいだったが、岩の間に瓶の欠片がたくさん落ちているのには興ざめだった。
 ツアー中に私も含めての3人、高度が測れる時計を持っていた。3人の高度計の数値は50m程違っていたが、じきに「----」という表示になり、計測不能となった。「日本では4000mという想定はないんだ」と、みんなでチベットの山の高さを再確認した。今でも私の時計は「MAX 9・3 P12:06 3995M」と、今まで計測した中の最高高度を表示する。今まではその高度表示を高度の目安の一つとしていたが、これからはなく、いささか不安である。まだまだ登る。森永さんが手が硬直して動かないと訴えだした。みな寡黙になり、深呼吸を繰り返している。
 小雨が車の窓を濡らし出す。

カンバ・ラ そして散骨

束の間の晴れ間に見えるヤムドク湖。晴れた日には山の向こうにチョモランマが見えるという

 12時30分、カンバ・ラ(峠)のタルチョが目に飛び込んできた。「いよいよだ」と気持ちに重みが増した。
 車から降りて、ヤムドク湖が見えるほうへ行った。あいにくの天候不良で、湖にはガスがかかっていた。しかし、アッという間にガスが風に吹かれて動き、どんどん湖面が、色がエメラルド、濃いブルー、黒と様々に変化する。ヤムドク湖は、1日に7回、色を変えると言われている。実に美しい。晴れた日には湖の向こうにチョモランマが見えるはずだ。また、チベットの大地の魂が宿ると信じられているともいう。
 河口慧海はこの道を往復してネパールとラサの間を行き来した。旅行記には、彼が早朝この道を歩いた時に、湖の向こうの雪山の頂に暁の星が輝き、それが湖面に反射して美しく、しばらく見とれていたということが書き記されている。
 晴天で暑いことを予想していたわれわれだが、悪天候の峠は寒く、風も強い。山村さんと私は、無防備な状態でここに2時間留まることは不可能であると判断し、帰路に天候が回復することを願って、皆と一緒に湖畔まで降りることを決めた。森永さんに相談したら、「どうしても残る」と言いそうだったからでもある。
 湖畔に降りてランチボックスの昼食をとる。しかし、大きな仕事を残してきたようで落ち着かず、あまり話もしなかった。景色を見ても虚ろだった。
 比較的大きな集落を湖畔に見ながら、バスはまたもと来た道を峠目指して急登する。峠の天候は来る時より悪くなり、冷たい小雨が降り出していた。
 残された機会は今しかない。

 バスを降りる直前、森永さんが「すみませんが、タルチョを張るのを手伝っていただけませんか?」と頼むと、大林さんや北山さんが岩の上のポールにしがみついて、チョモランマが見える方角向けて張ってくれた。岸田さんが、「よかったら、ビデオに撮らせていただきますが…」と控えめに尋ねてくれたので、有り難くお願いした。梅原さんは写真での記録を申し出てくれた。他の人たちもそれぞれ心から協力してくれたが、思ったより強い雨で皆の服の色が変わっていくのが気がかりだった。
 少し高いところにある、晴れていればチョモランマがよく見えるだろうケルン状の台の上に遺骨を広げ、果物や菓子、ビールなどを供え、灯明と線香に火を付けた。
 遺骨は、故人の登山部の友人でもある寺の僧侶が亡くなって以来預かり、チベットに来る直前、森永さんと夜遅くまでかかって粉にした。「何の感情もわかなかった」という彼女の言葉は、4年間の彼女の悲しみを想像させるには十分過ぎた。その後、家に持ち帰って、粉状の遺骨に小さく切った金紙を混ぜたという。ラサに来てからも、彼女はいつも遺骨をザックに入れて持ち歩いていた。いつでも適当な場所があれば散骨できるように備えるためだった。
 用意が整い、読経する場面になったが、いろいろと計画してきたわりに、いざこの時どうするかは何も決めていなかった。また、僧侶としての私は袈裟をつけてその場を取り仕切っていたが、ほとんど友人として同行して来ているため、どこまで仏教色を出していいのか躊躇した。彼女の気持ちによどみはなかった。「読経して欲しい」といい、故人の戒名を言った。私はすっかり混乱していて、いつも彼女の家に行ったときに読む位牌の文字が出てこなかったのだ。ゆっくり読経すれば泣いてしまうと思い、一気に般若心経をあげた。途中、数秒間声が途絶えたように自分では感じた。気持ちがこみ上げたのか、空気の薄い中での読経だったせいかわからない。念仏を唱えているうちに少し落ち着き、彼女が一緒に唱えているのに気がついた。ほんの数分のことだったが、随分長いように感じた。「走馬燈のように」という文句があるが、彼女が悲しみを耐え抜いてきたこと、ラサに来ていろいろ準備をしてきたことなどが頭を駆けめぐった。
 冷たい雨が横殴りに降りしきっていたので、読経がすむと皆にお礼を言って、写真撮影ををしてもらっている岸田さんと梅原さんを除いて、バスに戻ってもらうようお願いした。
 そして、峠道から少し外れた、ヤムドク湖を見下す、晴れた日にはチョモランマが見渡せるはずの、誰も踏み込まない急斜面に立ち、彼女は散骨した。粉になった遺骨が煙のようにたなびき、小さな金紙がヒラヒラと舞った。
 しばらくは無心に撒いていたが、しばらくして、「これで自由になれるね」、そう彼女は呟いた。私は念仏を唱え、背後ではビデオを撮る岸田さんの鼻をすする音がしていた。
 すぐに彼女は「ありがとうございました」とこっちを向いたが、それが皆を待たせていることを気遣った行動であることはわかった。「まだいいですよ」と伝え、私たちは強い風に吹かれながらしばらく遠くを見ていた。気のきいた言葉一つかけられない自分をつくずく歯がゆく思ったが、言葉の入り込む余地などありはしなかった。
 フッと気持ちに区切りがつく瞬間が訪れ、「晴れたらいつでもチョモランマが見えるね」と言いながら、彼女と、岸田さんと、梅原さんと、私はバスに向かった。濡れたタルチョが風に煽られてパタパタと音を立てていた。
 「ありがとうございました」と、バスに乗った彼女は皆にお礼を言ったが、誰も何も言わない。何と言っていいのか、皆も言葉を失っていた。バスはその雰囲気を察知したかのようにすぐに動き出し、峠の急坂を大きく揺れながら降り始めた。随分長い間、誰も口をきかなかずに外を眺めていたが、やさしい雰囲気が漂っていた。ヤクが放牧されている辺りまで降りてきた時、誰かがささやいたのに契機に、「みんな同じこと考えているね。あのヤクが転がって落ちてきたら、今夜はヤク料理ですね」と彼女が口火を切った。誰もすぐには呼応できなかったが、それから段々と何気ない会話が交わされるようになった。峠からラサまでは3時間弱の道のり。平地(といっても高地には違いないが)に降りた時、山村さんが、「もう寝てもいいですよ」と言った。その言葉に緊張が解けたのか、ほとんどの人がすっかり寝入ってしまった。

ラサ最後の夜

 ホテルに着いたのは6時前だったろうか、夕食はツアー予定に入っていなかったので各自行動になった。
 彼女と一緒に屋台のうどん屋に立ち寄った。明日でラサを発ち、“平地”に降りるので、少々お腹をこわすようなことがあってもいいだろうと思ったからだ。直径50pほどの円形の鉄板に溶いた小麦粉を延ばし、熱を加えて固まったものを、外側からきしめん状に長く切って作っている。毎日横目に美味しそうだと思って見ていたうどんだったが、不味くなかった。汁を上からちょっと掛け、豆板醤をのせたものを下から混ぜて食べるのだが、暖かくも冷たくもなく常温で生ぬるい。鉢は、陶器製のものにスーパーのビニール製袋の薄いものをかぶせて、使った後はそれを付け替えれば洗わなくてすむようにしてある。それがまた汚く、油でツルツルしている。極めつけは、何軒か並んでいた他のうどん屋の女が、私の頭のバンダナや森永さんの眼鏡やバッグを取っていたずらばかりすることで、とても落ち着いて食べていられない。向こうはお近づきの挨拶のつも

カンバ・ラ に旗めくタルチョ
りなのか? 美味くないのと腹が立つのとで、食べきる前に席を立った。
 これでは夜に小腹がへるだろうと、数件の店を覗いた末、ガイドに「ネズミ男の店」と記されている店に入った。何のことはない。店の主人が『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくるネズミ男に似ていると、取材の時に噂になったというだけのことである。普通の中華料理屋だったが、極めて明朗会計である。店の表に値段を書いた看板が出ている。こんな店はラサにはそうない。店の中のメニューもきっちり作られている。オーダーを取りに来ても、長い料理名と値段をちゃんと書いていく。ビールを頼めば、ラサビールにするか、バドワイザーにするかと聞く。この正確さはチベット人にはない、外国人客を相手にする中国人の手腕であろう。
 野菜料理2品と「石鍋」というのをオーダーした。野菜料理は油漬けのようなものだったが、石鍋は、鳥の砂肝やマイ茸などでとったスープに豆腐が入っている、あっさりとしたものだった。峠以来冷えていた身体が暖まる思いがし、やっと落ち着いた。
 ホテルに帰り、彼女と私は私の部屋でしばらく放心状態になっていた。客室係の女性がお湯を持ってきたが、変な顔をして出ていった。

 他のメンバーも思い思いの夕食をとっていた。梅原さんはどうしてもモモが食べたかったらしく、山村さんを案内役にして10人ほどで出かけていった。しかし結局叶わず、シシカバブを1人10本ほどとラーメンを食べたそうだ。大林さんや飛騨コンビはわれわれと同じうどんなどを食べたそうだ。そうして皆が帰ってきたのは10時頃だったろうか。
 山村さんは例によって招待を受けて出ていった。何でも、昨年、ラサに日本人を送り込んだNo1が山村さんの勤める旅行社だということで、今夜はラサ市長の接待だそうだ。
 ラサの夜もこれが最後。明日の朝5:30には荷物を出さなければならない。みんなはいろいろな思いを胸に抱きながら荷造りを始めた。