ポタラ宮、そしてノルブリンカ

9月2日

 9:30 ホテルロビー
 昨日までさえない顔だった北山さんがタバコを吸っている。昨日も吸ってみたが大丈夫だったので自信がついたとのこと。皆だんだん高度に順応してきているが、それでも朝は辛い。ロビーの前のベランダに出て、ポタラを見ながら深呼吸するのがすっかり日課になっているが、ラサの空気は排気ガスで汚れていてあまり美味いものではない。
 今日はラサに入って以来、毎日眺めているポタラ宮へ行く日である。ポタラは、いうまでもなくラサ、いやチベットのシンボルである。

 ポタラ宮は、マルポリの丘の南面に立つが、丘の地肌らしきものはほとんど見えず、丘のような建物がそびえ立つ。13層、117mの高さがあり、総面積は13万u、999の部屋があるという。「ポタラ」とは「観世音菩薩が住む地」という意。ダライ・ラマは観世音菩薩の化身と考えられている。

ポタラ宮北側の車道
 7世紀中期、チベットを統一したソンツェンガンポ王が中国人の文成公主妃のために築き、17世紀にダライ・ラマ5世が現在の規模にした。以後、代々のダライ・ラマがここに住み、文字通りチベットの政治・宗教の象徴であった。外観からは、下部の土台のような白い建物(白い宮殿)の中央、頂点に弁柄(べんがら)色の建物(赤い宮殿)がのっかたように見えるが、ダライ・ラマが住んでいた頃、白い宮殿では政治部門と法王の私的生活エリアが、赤い宮殿には宗教部門が置かれたという。ダライ・ラマ亡命後、中国は改築を繰り返し、今は外貨獲得の博物館化しつつあるといっても過言ではない。

 本来の入り口は南側の正面だが、そちらからは長い階段を歩いて登らなければならない。北側からは、途中まで車で行けるので、観光客はみなそちらから入るらしい。しかし、北側の道は狭く、車が行き違いしにくいためか、しばらくゲートで待たされる。
 その束の間に、チベット人の土産物売10人ほどがネックレスや携帯用の摩尼車を売りにやって来た。買う気を見せると付きまとわれるので皆知らん顔をしていたが、その中の1人が北山さんを指さして何やら言っている。北山さんは、「アッ、あの子や! 昨日の子や」と言いつつ、その娘とガラス越しに何やら話している。その子はジェスチャーが非常に上手く、眉間に皺を寄せてみたり口を尖らせたりと顔の表情も実に豊かで、バスの中から見ていたわれわれにもその娘が何を言いたいのかわかった。その娘の言わんとすることはこうである。

ダライ・ラマ5世の霊塔。高さ15m。
 「昨日、アンタは私がネックレスを勧めたとき、一回りしてから買ってやると言ったじゃないの! ワタシゃぁ、ちゃんとアンタの顔を憶えてんだから! でも、アンタ来なかったじゃないの! 嘘つきだよ。これだよ、アンタが見ていたネックレスは! 買ってよ!」
 どうも北山さんに理はない。みんなは口々に、「北山さん、嘘ついたらダメだよ。買ってやらなきゃぁ ほら言ってるよ」と面白がって囃し立てる。彼も悪いことをしたと思っているのか、「わかったよ 買やぁいいんだろ」と声を裏返らせて、値段交渉をし 3727kgの金と無数の宝石で飾られている。て、結局40元で買わされた。しばらくすると別の娘が同じことを言って来た。どうもさっきの娘と姉妹のようだが、昨夜、「ワタシゃぁ、今日、こんな嘘つきの日本人に会ったよ」などと情報交換したのかも知れない。車中のみんなは、「北山さん、こっちの娘にも約束したのかぁ」などと茶化す。
 そうこうして楽しんでいる内に、車が出発し、ポタラへの急坂を登り始めた。距離にしたら200〜300m程しかないかも知れないが、ラサの急坂を歩くのは大変である。マイクロバスさえ、坂道の途中で動けなくなり、結局少し歩いて登った。


時輪タントラの立体曼陀羅
 石造りのポタラの中は少し涼しい。赤い宮殿に入り、暗い通路を抜けると、いきなり歴代のダライ・ラマのミイラを納めた霊廟。その中でもひときわ大きく9m程もある5世の仏塔。それぞれ金色に輝き、宝石をはめ込み、圧倒されるような偉容な姿である。壁には経棚があり、大蔵経のバイタラが納められている。あるいは、極彩色に色づけされている部屋もある。ダライ・ラマの謁見室、玉座、休息室、読書室、仏間、チベット仏教の世界観・宇宙観を表した直径4m程の立体曼陀羅も数点ある。
 ラサに入ってから寺ばかりを見てきたが、ここはさすがに宮殿である。主人不在とはいうものの、法王の威厳を遺憾なく発揮した荘厳である。
 しかし、拝観コースのあちこちに監視用ビデオが設置されているし、写真撮影はいくら料金、この部屋に入るにはいくらと、拝金主義が蔓延る中国そのままで、あまり気持ちよくは見て回れない。また、1日、2日じっくり時間をかけて見てもいいようなコースを3時間ほどで回り、職員の昼休みの休憩時間となって追い出されてしまった。
 ポタラのトイレは、15畳ほどの部屋に、長さ2m、幅20pの長方形の穴がいくつか開いているだけで、それぞれに囲いはない。穴をのぞくと、ずっと下に明るく山肌が見えている。各階の穴は途中で合わさっているようだが、後始末は宮外に山の斜面を利用して垂れ流しているだけ。翌日ホテルのベランダから、この排出口を見つけた。口のあたりの山肌がそれらしく変色していたが、その回りの木々が、他の木々より栄養状態が良いようにも

圓満寂大殿
見えない。湿度の低いラサの気候により、すぐに乾燥して塵となって飛んでいくのか?
 素晴らしいポタラであったが、極めて消化不良で、記述が曖昧かつ少ないのが実に情けない。
 梅原さんは、ガイドがチベット仏教の新教派の祖ツォンパカのことを説明する時、声が裏返るのを、昨日あたりから面白がっている。確かに、「ツォンパカ」と言う時、妙に力が入って面白い。
 帰りは正面口の階段を下りる。途中にタンカや書籍を売る店があり、中に入って品定めをしかかったが、「高いからやめておいた方がいい」というガイドのアドバイスで、冷やかすだけになった。階段の途中の日当たりのいいところに、太陽熱を利用した湯沸かし器がいくつか置いてある。といっても、羽を広げたミラーの真ん中にやかんが置いてあるだけの簡単なものだが、これで十分湯が沸くのだろう。チベットの日差しのつよさを物語る演出だ。
 階段を降りきって正面ゲートに向かう途中、土産物売りの娘たちが地面に敷物を引いて商品を陳列している。朝会った娘も待ちかまえていた。日本人はカモらしい。われわれのメンバーの中にはネギを背負っているようないる人もいる。彼女たちも儲け、われわれも適当に楽しみ、ポタラを後にしてホテルへ戻って昼食を取った。

ノルブリンカ

 昼からはダライ・ラマの夏の別荘ノルブリンカへチベタン・オペラ(アチョ・ラモ)を見に行く。
 ノルブリンカは普段はラサの人のピクニックやデートの場所らしいが、今日はショートン祭。シシカバブや鳥の山賊焼、果物、飲み物、子犬、土産物など露店などが出て大賑わい。まるで日本の縁日の情景である。木陰にはテントが張られ、麻雀をやっていたり、寝そべっていたり、思い思いに過ごしている人々がいる。
 普段は広場であろうと思われるところに大きなテントが張られ、人だかりがしている。どうやらチベタン・オペラの会場のようだ。オペラには悲劇や喜劇などいろいろな種類のものがあり、各地方の劇団が集まってきてコンテストをするのだという。村の小さな劇団がこれに出るまでの苦労談を以前テレビの番組で見たが、農耕の合間に練習し、お金を工面して布地を買って衣装を自作するなど、大変な様子であった。
 何重もの人垣の頭越しに歓声が聞こえてくるが、中の様子はまったく見えない。ようやく台に乗って眺めたが、きれいな衣装に身を飾った役者が何やら台詞を言っている。それを聞いてドッと観客がわく。観客の顔を見ていると実に楽しそうで生き生きしている。チベットの人にとって、このチベタン・オペラがどれほど待ち遠しい楽しみであるか、わかった気がした。
 もっとよく見えるところを探して、直径30m程の丸い人垣をあちこち移動したが、見えるところはまるでない。
 強烈な日差しを避けて木陰に入って、相談をした。森永さんは、ラサに来たときから「蔵医院(メンツィカン)」に行きたがっていた。チベット医学を標榜する病院で、脈診を主体にして漢方薬の処方をする。チベットの仏教行事は暦に基づいて行われるが、それを作っているのもここであるという。また、医学タンカ全集『ギシュ』も売っていて、彼女はそれを購入したがっていた。
 ガイドに相談したところ、祭りのため休みに違いないと言われたが、この暑いノルブリンカであと2時間ほど過ごすのもやっかいであるし、見るものもあまりない。“駄目モト”で医院に行くことにした。ガイドとのやりとりを側で聞いていた飛騨の江崎・前田両氏も同行することになり、タクシーに乗った。
 蔵医院は、昨日参拝したジョカンのすぐ前だった。これだったら昨日来ておけばよかった。ガイドの言った通り、表の鉄扉は閉まっている。もともと午前10時から昼1時までしか開いていないらしいが、急病人用に勝手口は開いているだろうと薄い期待があった。鉄扉をガタガタ揺らしていると、その前で果物を売っていた娘が、開かないというような素振りを見せた。“駄目モト”で来たが、やはり落胆した。
 まだ時間も早いのでその辺りをぶらつくことにした。テレビを見せるのを売り物にしているような茶店、ヤクバターの店、ソーラー発電器の店などが渾然一体になっている。土産物屋を覗いていたら、また朝の物売りの娘にあった。お互い指さして、「また会ったなぁ!」と目で交わしたが、私は疲れと寝不足で頭痛がしていたので、店に入って土産物を見る振りをしてやり過ごした。
 結局何の収穫もなく、タクシーに乗ってノルブリンカへ戻って皆と合流し、門前の土産物屋に寄った。この店はポタラの同じ経営者の店だが、ガイドは「こちらの方が信頼できる。なぜなら店長は自分の友人だからだ」と言う。品揃えはポタラの店の方が良い。タンカなどを買う機会はこれが最後なので、みな熱心に見てまわっている。私は、チベット仏教の仏画を買って帰っても実際に祀るわけにもいかないし、かといって単なる装飾物として取り扱うのも抵抗があったので、結局買わなかった。

チベット料理

 今夜の夕食はチベット料理だ。ポタラの前の外国人向けチベットレストランに行く。ゆったりとくつろげるようなソファーがあり、中国人らしい10名、西洋人5人程の客がすでに食事をしている。コーリャンで作った酒の強い匂いが鼻につく。中国人がそれで乾杯をしては盃の底を見せ合っている。
 匂いのせいか、気分がすぐれない。「食べられない」と直感的に感じたが、せっかくのチベット料理なのでなんとか食べたかった。
 チベット人の主食は「ツァンパ」である。日本でいうなら「麦粉焦がし」風、といっても年輩の人にしかわからないか…。大麦の炒ったものを挽いて粉にし、好みでチーズや砂糖を加えたものに、バター茶を注いで団子状に練ったものである。また、「チャン」と呼ばれるどぶろくや「モモ」と呼ばれる蒸し餃子もある。茶とバターと塩・水で作る「バター茶」がよく飲まれているお茶である。
 この店で出てきたツァンパは、大麦の中に小豆のようなものが混ぜてあり、羊羹のような形に整形して、薄く切ってある。京都の鶴屋に「雲龍」という竿菓子があるが、形はそれそっくりで、甘さを少し押さえたような感じである。梅原さんにいわせると、これは普通のツァンパではなく、外国人向けに上品に洗練されたものらしい。彼は辺境の地の食物に詳しい。モモは家庭料理なのでこのレストランでは出てこなかったが、よほどモモが食べたかったのか、夫妻は翌日探しに行くことになる。
 さて、ツァンパは食べられたが、あとはヤク肉を使った料理ばかりである。ヤクの肉は羊に似た味がして、臭みもなく食べられる。しかし油でギラギラして、見るからに胃にもたれる。私はツァンパをかじり、チャンを飲み、またバター茶をすする程度で済ませていた。
 梅原さんの奥さんに、「進みませんねぇ」と言われ、「どうも脂っこくて…」と返したものの、皆もその後出てくる料理にあまり箸を出さなくなり、私の一言が皆の食欲をそいだような気がした。半分に分かれて座っていたもう一方のテーブルの皿を見ても、ほとんど手つかずで残っていた。
 しばらくしてヨーグルトが出てきた。今までまったく手をつけない皿さえあったのに、大きな鉢に入ったヨーグルトはすぐになくなった。
 日本食の話になり、私がみそ汁や雑炊などを持参してきていると言うと、すぐに話はホテルに帰って日本食パーティーをやることに決まった。
 最後に、「これでもか!」と言わんばかりに野菜料理が1皿出てきたが、せっかく食べたヨーグルトの後、皆はため息を吐くばかりだった。

日本食パーティー!

 ホテルへ帰って、一息ついてから、三々五々、日本食を持ち寄ってパーティーが始まった。
 井戸夫妻は新婚旅行だからと、山村さんの計らいで特別室に入っていたが、そこが広くていいだろうということになった。部屋に行ってみると、幅2m以上もある食器棚様の金色の仏壇が置いてある。このホテルはまだ開店してまもなく、中にはまだ何も祀ってないが、他のホテルのスイートはちゃんと仏像などが祀られているらしい。部屋は10畳くらいの広さがあり、ソファーベッドが3脚置かれている。他に、ベットルームとバス・トイレがついている。
 ご飯・雑炊・チキンラーメン・餅・ドリップコーヒー・日本茶・柿の種・日本酒、コッフェル(登山用の鍋)などの炊事道具など、実にいろいろなものが集まった。杜氏(とうじ)をやったこともあるという杉本さんなど、一升瓶と720mlの瓶それぞれ数本を成田からずっと持ち歩いている。
 胃腸があまり丈夫でなく、海外旅行の後半はたいていお腹の調子を崩す私は、今回の旅行にはコンロと日本食が不可欠だと思っていた。前述したように、日本食はスーパーの買い物袋ほぼ1つ分用意した。チベットは電力事情が悪く、電熱器が使えるかどうかわからなかったが、手持ちのコップ用電熱器ではらちがあかないだろうと、関空で鍋付き電熱器を買った。コッフェルも普段使うものを持参した。「食」に関しては重装備だ。
 好評だったのは、尾崎さんが持ってきたフリ−ズド・ドライのおろし餅で、ジャンケンによる争奪戦が繰り広げられた。3時間ほどで、持ち寄ったインスタントの日本食はほとんど食べ尽くした。また、大いに笑い、それが深呼吸にもなって高山病は吹っ飛んだ。
 最後に小森さんが成都で買ってきた強烈な四川風のインスタントラーメンが出たが、誰もそれを食べたがらない。せっかく日本食を食べたのに、また中国四川に戻りたくない。遅れてきた吉村さんが罰で食べさせられた。
 初めて会った者同士が、わずか5日目の夜にここまで盛り上がることはないと、山村さんは呆れていた。実に楽しい夜だった。
 コッフェルや山となったコップを洗い、新婚さんの部屋を後にした。

 部屋に帰ると、山村さんはまた今夜も宴席が待ちかまえているという。彼は、ラサに着いてから、夜、一段落ついたら毎晩宴会である。この新しいホテルがなんとか今後も使って貰おうと接待攻勢をかけているらしい。山村さんにしたら情報収集にもなる。
 私はいつも鍵を開けて先にベッドに眠っている。この晩は1時頃に帰ってきた。私は目を覚まし「お帰りなさい」と言い、彼もそれに応えたが、呂律が回っていない。「明日はお願いします。明日はお願いします」と言って、一目散にベッドに潜り込んだ。明日は、オプショナル・ツアーでヤムドク湖に行く日である。飲み過ぎて、「明日はひょっとしたらダメかも知れない」と思ったのだろう。私も中国人との付き合いがあるが、彼らとの宴席は酒を飲めない人にとっては大変である。いつもの酔い方と違うなぁと思いつつ、また夢の中に入っていった。