シ ョ ー ト ン 祭

9月1日

 翌朝、聞いてみると、やはり夜中に息苦しくなり深呼吸をしたという人が何人もいた。予告された通り、寝ている間に呼吸が浅くなり、朝は辛い。特に、今朝はデプン寺にタンカを拝しに行くため、4:30のモーニングコール、5:00朝食、6:00出発。みな腫れぼったい顔をしている。

デプン寺

 デプン寺まではマイクロバスで約20分(われわれのラサでの移動はすべて“トヨタ・コースター”)。あたりはまだ真っ暗。バスを降りてから、約30分のなだらかな坂道を、頭にヘッドランプをつけて、息絶え絶えに登る。まだ高地順応しきっていないうちの、しかも朝の登坂は厳しい。もちろんチベット人は平気である。
 ツアーの中に大阪の新婚 井戸夫婦がいた。夫の方がラサについて以来ずっと高山病のため不調。一行からかなり遅れて、それでも今回のツアーのメインの一つである大タンカ(曼陀羅)ご開帳を拝するために必死に登っている。一方、医師の横木さんは、登り着いたところでタバコを吸っているではないか! 聞くと、「頭は痛い」という。高山病の影響の個人差がはっきりしてきた。
 デプン寺は新教派の開祖ツォンパカの弟子によって建てられたチベット最大規模の僧院である。一時は1万人もの僧侶が学んだ大学都市だったそうだが、今は400〜500人。ダライ・ラマ14世もここで学んだ。ダライ・ラマ亡命後、デプン寺はインド・ムンゴッドにも再建され、こちらには3500人程の僧侶がいるという。
 今日9月1日からチベット最大の夏の祭 ショートン祭が始まる。15メートル四方ほどもある大タンカが運ばれてきて、夜明けと共に山の斜面を使って広げられる。次第に人があふれてくる。タンカを広げる場所の回りの山肌は人で埋まりつつある。
 タンカが広げられる斜面の一番上に陣取っている僧侶たちが綱を引くと、タンカが下部から姿を現し、釈迦如来が出現する。ラッパが「ブォー」と低く響く。刻一刻とタンカが広げられていく。五体投地をする者、白い布をタンカに投げる人、人がますます増える。タンカの下では僧侶が儀式を行っている。
 私はタンカの一番下の、僧侶たちが読経をするテントの横に行き、袈裟をつけて、「南無釈迦牟尼如来」と念じていた。
 私の隣に日本人らしい女性が同じようにタンカを見つめていたが、突然、「お坊さま、お祈り中申し訳ありません。私は女優の吉田日出子です」と言って、こちらを向いたが、テレビで見る顔と違っていた。彼女は1週間ほど前からチベットに来ているそうで、このときは現地のガイドと2人だった。
 一通り気が済むまでタンカの下から拝んだので、タンカの直下まで行って、チベット人がするのを真似て五体投地礼をした。チベット式と日本式とは違うが、私のしたのは日本式である。そして、また現地の人を真似て、タンカの最下部の下に頭を突っ込ませてもらった。礼拝の意味だろうと思う。それから、今度はタンカの左横を登って最上部に行き、売り子からカタ(薄絹)を買って、タンカの上部から投じた。花を供えるのと同じような意味なのか? ガイドに聞きそびれてわからない。タンカの最上部を支える足場の下を通って、右側へ。そこでは3m程ある大きなラッパを2人の僧侶が吹いていた。そして、タンカの左横を大きく迂回してタンカの下の方へ降りていった。

デプンでの読経

 せっかくチベットに来たのだから、時間の許す限り読経をしたいと思っていた。そのために袈裟や経本、線香に灯明を持参してきた。私はタンカの左横下の石の上に陣取って、読経の準備をした。
 そこへチベット僧が3人やってきて、何やら言っている。「ジャパン・ラマ」だと自己紹介すると、彼らは納得したように見えた。私の持っている経本に興味ありげだったので、パラパラとめくって見せたが、漢字の経典より梵語の経典の方がわかるかも知れないと気づき、観世音菩薩の陀羅尼(ダラニ)を見せた。しかし彼らには読めないようなので、私が「ナモアラタンナ タラヤアヤア ナモアリャアバロキテイシンバラヤ…」と唱えると、そのうちの1人がついてくるではないか! 私が止めても彼は先を唱える。熱い思いが私の胸を突き上げた。今までチベット密教とはほとんど実際的なつながりを感じなかったが、ここに来てチベット僧と私が同じ経を唱えている。陀羅尼の字こそ違うが、音はほとんど正確にチベットと日本に伝わっているのである。彼もそう感じたのであろう。笑顔を残して、他の僧侶に満足げに何か言い、小走りに去っていった。
 再び、姿勢を正し、読経の準備をした。ツアーの集合時間の関係もあるので、そう長くは唱えられない。何がこの場の私に相応しいかと考え、『法華経』の『安楽行品』に決め、読経を始めた。『安楽行品』は、法華経行者の心がけを釈尊が説いた形になっている。何が相応しいのか説明しにくいが、あえていうなら仏教を信奉し、困難を乗り越えてもそれを説いていきたい私が居たとでも言おうか…。それを読み終えると、自然と念仏になった。念仏三昧の境地に至れれば最高であると願っていたが、とても集中できない。私は目を閉じて念仏していたが、回りがザワザワしてきた。どうも集中できないと思い、念仏を止めて目を開けると、6〜7人の中国人が私の前と横にいる。かと思った瞬間、1人が私の横に来て、正面にいる仲間に記念写真を撮ってもらった。そして、また何やら私に言ってきたので、私は自分を指さし、「ジャパン・ラマ」と唯一知っている単語を言った。彼らはうなずくように首を大きく振ったが、私は邪魔されたようないささか不愉快な気持ちで、犬の小便臭いその石の上から去った。

 集合場所に向かいつつ、途中、大きなお堂に参拝する。文殊菩薩などが祀ってあるが、堂内の写真を撮るのには20元を払わなければならないと番をしている僧は言う。また、普通は仏像を撮らせないが日本人ならいい、とも言う。チベット人は漢民族を好きではないらしい。
 集合場所に戻りしばらく山を下ると、日本のテレビ局がチベット旅行について取材に来ていた。新婚旅行でチベットに来るのは珍しいと、井戸夫妻がインタビューを受ける。
 横で聞いていると、チベット旅行は新婦の希望だそうだ。さすがにチベットに行きたいというだけあって、彼女は度胸がすわっている。チベットのトイレは中国と同じで、かろうじて男女に分かれているが、ただ共同の溝があるだけで囲いのないところが多い。また、ちょっと郊外に出ればトイレなどなく、青天で“雉打ち”である。私は見たわけではないが、彼女は平気らしい。また、高山病の夫を始終気遣いながらも甘えるところは甘え、かつ自分の時間も十分に楽しんでいる点など、実に上手い。
 続いて、飛騨の江崎さんがインタビューを受けた。昔のままの変わらぬチベットでいて欲しいという趣旨の回答をされていた。私も同感であるが、旅行者の身勝手といえばそれまでである。
 登ってきた道の脇道を降りて、駐車場のバスに戻った。

セ ラ 寺 へ

 バスは一路セラ寺へ。
 セラ寺は、デプン寺とならんでラサを代表する僧院で、やはりツォンパカの弟子によって1419年に建てられた。3つの学堂があり、仏教基礎コース・密教コースなどがあるという。
 私が旅行前に読んだ『チベット旅行記』の著者河口もここに学んだが、その頃は7000人程の僧侶がいて、18の僧舎に分かれて生活していたという。しかし、河口は現地で知り合った前大蔵大臣宅などに寓居していた期間の方が長い。
 河口によると、当時の僧侶には2種あり、一つは修学僧侶、もう一つは壮士坊主であるという。前者は学費を払って仏教の勉強に来ていて、約20年間をここで過ごすという。後者は、学費もなく寺に来ていて、野原のヤクの糞を集めるとか薪の運搬などしたり、修学僧侶の下僕となったり、笛や太鼓を叩くなどの法要の下座役を勤めたりしているという。また僻地へ行くときの護衛や用心棒にもなる腕自慢で、喧嘩や果たし合いが絶えないという。デプン寺やセラ寺の参道で喜捨を求めて経を唱えている僧侶は、この壮士坊主の流れを汲む連中かも知れない。

鳥 葬

 セラ寺は鳥葬の場としても知られている。チベットの葬儀方法として最上なのは鳥葬で、これは高僧などの場合に用いられる。あとは火葬、水葬、土葬の順である。土葬は最も嫌われていて、伝染病などで死んだ場合、鳥葬や水葬にすれば鳥にうつりや水が汚染する危険があるので、土葬にしたといわれている。いずれも、地・水・火・風という仏教が考えるこの世を構成する4大要素に返す葬り方で、鳥葬は風(ふう)に帰るのである。
 『チベット旅行記』から、鳥葬の模様を、ちょっと長いが引用しよう。
 「まずセラの大学から出て東へ向かって行くと川の端に山る。その川辺を北へ廻り山の端について2、3町も行きますと、同じく川端でしかも山の間に高さ6、7間もあろうかという平面の大きな天然の巌があります。その平面の所は広さ15、16坪もある。そ

100年前の鳥葬(川口師挿絵)
こがすなわち墓場でして、墓場のぐるりの山の上あるいは巌の尖には、怖ろしい眼つきをした大きな坊主鷲が沢山居りますが、それらは人の死骸の運んで来るのを待って居るのです。まずその死骸の布片を取って巌の上に置く。で坊さんがこちらで太鼓を敲き鉦を鳴らして御経を読みかけると一人の男が大いなる刀を持ってまずその死人の腹をたち割るです。そうして腸を出してしまう。それから首、両手、両足と順々に切り落として、皆別々になると其屍を取り扱う多くの人達(その中には僧侶もあり)が料理を始めるのです。肉は肉、骨は骨で切り放してしまいますと、峰の上あるいは巌の尖に居るところの坊主鷲はだんだん下の方に降りて来て、其の墓場の近所に集まるです。まず最初に大腿のの肉とか何とか良い肉をやり出すと沢山な鷺が皆舞い下って来る。
 もっとも肉は少しは残してあります。骨はどうしてそのチャ・ゴエにやるかというに、大きな石を持って来てドジドジと非常な力を入れてその骨を叩砕くてす。その砕かれる場所も極まっている。巌上に穴が10ばかりあって、その穴の中へ大勢の人が骨も頭蓋骨も脳味噌も一緒に打ち込んで細かく叩き砕いたその上へ、麦焦しの粉を少し入れてごた混ぜにしたところの団子のような物を拵えて鳥にやると、鳥はうまがって喰ってしまって残るのはただ髪の毛だけです。
 さて、その死骸を被うて行ったところの片布その他の物は御坊が貰います。その御坊は俗人であってその仕事を僧侶が手伝うのです。骨を砕くといったところがなかなか暇が掛かるものですから、やはりその間には麦焦しの粉も食わなければならん。またチベット人は茶を飲みづめに飲んで居る種族ですからお茶を沢山持って行くです。ところが先生らの手には死骸の肉や骨砕や脳味噌などが沢山ついて居るけれども、一向平気なもので「さあお茶を喫れ、麦焦しを喫れ」という時分には、その御坊なり手伝いたる僧侶なりが手を洗いもせず、ただバチバチと手を拍って払ったきりで茶を喫むです。その脳味噌や肉の端切のついて居る汚い手でじきに麦焦しの粉を引っ掴んでで、自分の椀の中に入れてその手で捏ねるです。
 だから自分の手についている死骸の肉や脳味噌が麦焦しの粉と一緒になってしまうけれども平気で食って居る。どうも驚かざるを得ないです。あまり遣り方が残酷でもあり不潔ですから「そんな不潔な事をせずに手を一度洗ったらどうか」と私がいいましたら「そんな気の弱いことで坊主の役が勤まるものか」とこういう挨拶。で「実はこれがうまいのだ。汚いなんて嫌わずにこうして食って遣れば仏も大いに悦ぶのだ」といってちっとも意に介しない。いかにもチベットという国は昔は羅苦又鬼(らくしゃき)の住家で人の肉を喰った国人であって、今の人民もその子孫であるということですが、成程 羅苦又鬼の子孫たるにはじないところの人類であると思って実に驚いたです。」
 この場所はセラ寺の裏山にあたり、かつては観光スポットだったようだが、今行くと外国人は石を投げられるという。100年前の記述だが、今もそう変わってはいまい。
 鳥葬は早朝行われる。

 さて、ショートン祭の時にはセラ寺でもタンカのご開帳がある。こちらのタンカはデプンのより少し小振りだが、それでも見応えがある。境内はチベット人でごった返している。あちこちで枯れ草が燻されているが、香をあげるような意味があるのだろう。アロマテラピーに詳しい梅原夫人によると、草はローズマリーの類らしい。ただでさえ息が苦しいのに煙を吸うとたまったものじゃない。私はタンカの際までは行ったが、あと20メートルほど歩いて直下まで行く気力を失っていた。
 来た道を少し戻って、あるお堂に入った。実はツアコンの山村さんが井戸夫妻の結婚式をラサのどこかの寺で挙げようと計画していた。「まさかセラ寺でできるとは!」と彼も驚いていたが、実現できることとなった。
 若い僧侶が出てきて、式を執り行った。何やら唱えた後、夫妻に自分のやることを真似ように言って、穀物のようなものを供えるような投げるようなふうをした。彼らはそれを真似、最後に僧侶からカタを掛けてもらって式は5分足らずで終わった。私はビデオでこの様子を撮影していたが、彼女の目から大きな涙がこぼれるのをファインダーから感激しながら見つめていた。
 ブレないように息を殺してビデオを撮るのは、チベットでは至難の業である。
 暑い暑い日差しの中をバスに戻り、ラサ中心部のレストランで昼食をとった。


大昭寺−ジョカンへ

 ホテルで1時間ほど休憩した後、にぎやかな市街地にある、ラサの最も聖なる寺院ジョカン(大昭寺)へ参拝。ラサへの巡礼者はここジョカンを目指す。
 ジョカンは7世紀、ソンツェン・ガンポ王の死後、2人の妃のうちのネパール人の妃が十一面観音を祀って建てたと言われている。本尊は、もう1人の妃である中国人の妃 文成公主が嫁入りの時に持参したインド伝来のお釈迦さま。阿弥陀如来や薬師如来、弥勒菩薩のお堂もある。
 この場所はもともと湖で、占星術の結果に従ってそれを埋め立てて寺を建てた。埋め立てに使う土を運搬するのに山羊が活躍したので、この土地を“Ra(やぎ)Sa(土地)”と呼ぶようになったという説もあるらしい。ジョカンには山羊も祀られている。
 正面には巨大な摩尼車があり、それを回しつつ中に入ると、ヤクバターの灯明の匂いに圧倒された。地元のガイドは随分一所懸命に説明してくれたが、私はじきに息苦しくなり、中庭に出てお堂の回りの摩尼車を回しながら1周した。それでもヤクバターの匂いに耐えきれず、寺の外に出てしまった。
 外は「バルコル(八角街)」と呼ばれる寺を中心とした環状バザール。ラサでもっともにぎやかな商店街である。食料品はあまりないが、衣類・装飾品・雑貨・日用品・仏具、ありとあらゆるもののが店が連なる。やはりここでも右回りに回らなければならない。私は土産用に布製カバンとアクセサリをかったが、カバンはネパール製であった。どの店も大して掛け値は言っていないようで、値引きは30%程度まで。もとの言い値が数百円のものなので、あまり値切るのも気の毒になり、ある程度交渉を楽しんだ後、すんなり買った。
 ジョカンの正面に戻り、散骨の時に使うタルチョを買う。タルチョは緑(黒)・黄・赤・白・青(色使いは日本仏教でも同じ)の5色で1セットになっていて、1メートル50センチ程ある。これを10セット用意した。
 時刻はすでに6:30になっていたが、太陽はまだ照りつけている。日本とチベットの時差は−1時間しかない。これは北京の時間にあわせているためだが、太陽の具合からいうともう2時間ばかり遅らせた方が生活しやすいかも知れない。

日本食で披露宴?

 ジョカンの前に集まって、夕食へと向かった。レストランの看板には、アメリカ・イタリア・日本などいくつもの国の料理ができるように書いてある。「今日は日本食だ」「寿司だ」との噂にみな期待する。寿司ではなかったが、旅行社が気をきかせて日本食のバイキングを用意させた。みそ汁もある。
 私は郷に従いその地の食事を進んで食べる方だが、高山病で疲れ、枕があわなくて寝不足気味。その上、今日のような内容の濃い日程で、少々身体も疲れていたので、日本食は有り難かった。
 が、期待したみそ汁の不味いこと。まるでヌカをお湯で溶いたような味で、具の豆腐も癖がある。7月にEUの招待でギリシアに声明公演に行ったときの日本食も大して美味しくなかったが、こっちは見かけだけの日本食である。でも、気持ちは嬉しかったので、生野菜などのサラダを主体に食べた。
 さて、説明が遅れたが、その席は昼間セラ寺で結婚式を挙げた井戸夫妻の披露宴である。賑やかなことが好きな、また人の喜びを倍にして自分たちも楽しもうという今回のツアーのメンバーは、カンパを集めて、旅行社の提案した2人の結婚式と披露宴の企画に乗ったのだった。
 チベットの民族衣装をつけた2人は幸せそうだ。背の高い井戸夫人に合う民族衣装の晴れ着がなかなかなく、調達には苦労したらしい。2人とも結構似合っている。店から、ちゃんと2人の名前の入っているウェディングケーキのプレゼントもあった。男女2人ずつと子供、合計5人のチベット人家族の楽団がおめでたの歌を添える。
 皆は2人の馴れ初めを聞いてひやかし、歓声の中、夜は更けていった。
 涼しくなってきた。ホテルに帰って休む。