Impressions of ラサ
8月31日
5:00 モーニングコール、5:30 空港へ向け出発。6:40のフライトで2時間後にはラサへ。
チベットのゴンカル空港はさぞ山間にあって、かろうじて飛行機が離着陸できると思っていたが、どうして、河川敷の平地に作った立派な空港。この成都−ラサはドル箱路線で、個人旅行者はチケットをなかなか入手できないという。
軍や政府の要人が同じ飛行機に乗っていたらしく、出迎えの役人がカタ(薄絹)を、ハワイのレイのように、首にかけていた。飛行機が時間通りに飛んだのも、その人たちのお陰のようだ。彼らはチベットが“中国になった”何周年かの記念行事に出席するために来たようだが、そのために私たちはランク下ののホテルへの変更を余儀なくされた。しかし、これが逆に功を奏した。
空港からラサまでは中尼公路を約100キロ 2時間走る。ほとんど高低差のない平坦な道である(標高3600mほどをあまり上下しないという意味である)。道の脇は岩がゴロゴロした荒れ地が続く。
空港に降り立ったときはそうでもなかったが、ラサへ向かうバスの中で早くも高山病の前兆が現れ、杉本さんは居眠りを始める。高山病には寝るのはよくないらしい。寝ている間は呼吸が低下するためらしい。実際、ラサ滞在中、睡眠から醒める朝が一番体調は思わしくなかった。寄ってたかって杉本さんを起こす。
ツアコンの山村さんは、高山病予防と悪化防止のため、ラサにいる間中、軽い体操と深呼吸、水分補給、脈拍測定を口うるさいほど勧める。
後で聞いた話だが、某大手旅行社のチベット・ツアーでは、参加者20人のうち半数程度しかチベット旅行の目玉であるポタラ宮に行けなかったという。もちろん高山病のためである。旅行社の専門性とノウハウの差をまざまざと見せられる思いであるが、山村さんは6000m級の登山のツアコン経験のあるプロである。
ラサが近くなる頃、キチェ河の畔に色鮮やかな磨崖仏が出現する。この仏はチベット王の招きにより11世紀にこの地を訪れたインドの高僧アティーシャゆかりのものらしい。向かって右側に大きな釈迦如来、その左側の三尊仏は、中央が無量光仏、右が白いターラ、左が尊勝母。無量光仏とは阿弥陀如来の密教版で、日本では馴染みがない。白いターラは、観世音菩薩の妃とされる救いの女尊。尊勝母はよくわからないが仏頂尊勝のことか? 現地ガイドと話が噛み合わない。
チベット密教
多くの人は、チベット仏教のほうが日本の仏教(天台宗・真言宗)より古いという印象を持つだろうが、逆である。日本の仏教は、1世紀頃にインドで隆盛していたものが、シルクロードを経て中国・朝鮮半島経由で伝わったもの。一方、チベットはインドと陸続きであるにも関わらず、7世紀に初めて伝わり、8世紀に本格導入された。釈尊が亡くなられてから1000年以上も経って呪術的な方向へ大きくデフォルメされた仏教、それがチベットに伝わった仏教だった。
仏教の中でも灌頂(かんじょう)などの儀式を受けた者だけに解き明かされる教えを密教というが、最初にチベットに伝わった密教は、仏教に肉欲主義を結びつけ、成仏の唯一最上秘密の方法としてセックスや肉食・飲酒・歌舞などを奨励した。そしてこの方法こそこの悪世において即身成仏を遂げうる方法であると教えた。チベットの仏像によく見られる男女の歓喜仏やおどろおどろしい仏たちを見ても、その教えが伺い知れる。ちなみにこれらは「古派」と呼ばれ、ニンマ派などがそれにあたる。
時代が下り、古派の教えが腐敗を極めていた15世紀、ツォンパカによって戒律を重視し、顕教をマスターした者だけに密教の教えを授ける新教派が出てくる。ダライ・ラマなどで有名なゲルグ派などである。
しかし、歓喜仏などの男女合体の仏はチベットで広く信仰されていたので、新教派は、「男は方便を意味し、女は智慧を意味する。その方便と智慧が合体して仏ができる。セックスをしたから成仏するのではない」と解釈させた。また、「肉食は肉を食えというのではなく、慈悲をあらわしたまでである。酒は持っている智慧をよく用いよと勧めたまでである」と解釈し、歓喜仏などをそのまま新教派の仏教の解釈にあわせて利用した。
ラ サ へ
いよいよラサに入る。
「ラサ」はチベット語で「神の土地」。観世音菩薩の化身であるダライ・ラマの宮殿 ポタラ宮、5体投地で礼拝する者、灯明に使うヤクバターの匂い。いずれも神の土地に相応しい。いや、昔は相応しかったろう。
私はラサに入ってとてもガッカリした。というのは、普通の中国の都市と大した差違はなく、神々しい雰囲気は感じられない。ポタラ宮の正面には「Mobile」の大看板。中国らしい拝金主義が蔓延っている雰囲気である。
ご承知のように、チベットは中国の自治区の一つである。ダライ・ラマ13世の時、清の軍隊がラサに攻め入り、13世はインドに亡命。翌年、中国の革命のため、軍隊は引き上げ、13世はチベットの独立を宣言。1950年には中国共産党軍がチベットに攻め込み、翌年、中国との「平和解放」協定に調印させられる。その後、抵抗する多くのチベット人が虐殺されたというが、1959年、ダライ・ラマ14世はインドに亡命。中国はチベットを自治区や省・州・県などに分け、600万人のチベット人を「少数民族」と呼んで支配を続けている。また、チベットでは文化大革命が1966年に始まり、ほとんどの僧院・仏像などは破壊された。チベットの伝統的なものは「悪」とされ禁止され、教育面などでも漢民族化を強いられる。一方、中国からの入植者が増え、ラサでチベット人は少数派になってしまった。1989年から1年7カ月、戒厳令が敷かれ、多くのチベット人が投獄され、今も600人の政治犯が厳しい牢獄生活を送っている。
ダライ・ラマ14世は、独立要求を放棄してまで中国に話し合いを呼びかけているが、中国は無視。14世のノーベル平和賞受賞に、中国は態度を硬化させている。
ポタラを斜めから望むホテルの庭で 首に掛けているのが歓迎のカタ |
ラサの私たちのホテルは、ポタラ宮と道1本を隔てただけの最高の立地条件だった。最初予定されていたホテルは街の中心部から離れた、しかしグレードの高いホテルだった。前述したように、中国の要人の宿泊のために変更を余儀なくされたわけで、2泊目からはもとのホテルに戻ることも可能だと聞かされた。しかし、ポタラを目前にし、しかも前の道は日常品や食料品の露店が連なる。ツアー参加者はホテルの居心地などより、ローケーション第1という連中ばかり。ラサでの4泊はここに即決した。
航空会社が経営しているこの「航空飯店」は、開設して日が浅く、何かと「準備中」の雰囲気もあったが、お湯は出るし部屋もきれいで、“ラサにしては”文句なしだった。ただ、ご多分に漏れず、中国政府が資金的に援助し、本土から支配人も送り込んでは現地人を下働きに使う、漢民族化の一方途としてのホテル経営らしい。それに乗るのもシャクだが、仕方ない。
Impressions of Rasa
ホテルについて昼食だが、私も頭痛がしてきて食欲がない。チベットでの食事はツァンパ(麦焦がし)とバター茶程度、それもまたオツであろうと思っていたが、普通の中華料理だった。ラサ近郊では野菜はあまり取れず、野菜などは成都から空輸しているものも多いらしいが、期待が外れて、ガッカリしたような安心したような…。
食後、「寝てはいけません。軽く運動して下さい」の号令で、付近を散歩。外は非常に日差しが強い。ラサの8月の平均気温は昼間が35度ほど、夜は10度以下になる。湿度が低く日陰は涼しいので、時折、プラタナスの木陰に入って涼みつつ歩く。
ホテルの前の道を隔ててポタラがあることは書いたが、道のポタラ側は高さ50センチ、直径20センチほどの金色の摩尼車がズラリと並んでいる。1周したわけではないが、正面をのぞいた3方はこの摩尼(まに)車で囲まれているものと思う。チベット人が三々五々、摩尼車を回しながら参拝している。金色の筒の下に持つところがあって、それを回すようになっているが、なかなか上手く回らない。いくつか回すと腕が疲れてくる。参拝はチベットの寺の場合は必ず右回りにする。左回りはチベット土俗の宗教ボン教徒である。
道の両側いっぱいに並んだ露店をひやかす。実にいろいろな物を売っている。
乾物・野菜・肉・香辛料などの食料品、鍋釜・箒・プラスチック製品などの日常品、揚げパンやうどんなどの“ファーストフード”、ミシンを何台も並べて縫製をしている露店もある。
プログラマーの小森さんが、ひまわりの種と干しぶどうを買ってきた。ひまわりの種は煎ってあり、香ばしくて美味い。現地の人は、丸ごと口に入れて、皮だけを上手に吐き出している。見ると、路表は皮が散乱している。干しぶどうは、取れたてのブドウの色がちょっと褪せただけのマスカット色である。ちょっと酸味があるが、適当に甘くて疲労回復にはもってこいである。 チベット人の客室係 グサンダチ(19) |
露店を後にして、ポタラ宮正面のメインストリートの方へ歩いた。大きな交差点の角で、黒あざの子供の見せ物をやっている。テンか狐のような毛皮をいくつも持った男が、それを売るべく通りがかりの人と値段交渉をしている。
ラサは中国の街そのままの交通状態、ただ自転車が少ないだけである。地元の人には秩序ある交通マナーであろうが、われわれは道路を渡るときなど、信号に従っていても、おっかなびっくりである。5元のリクシャー(1元は日本円で約15円)、市内一円10元のタクシーも頻繁に通り、マイクロを使った路線バスの便も良さそうである。
私たちのホテルからは国際電話ができないため、ラサホテル(以前、ホリデーインだった)に行ってテレカを買って電話する。100元のテレカを150元で売っている。ボッタクリも甚だしいが、ラサで最高のホテルである。
2時間ほど散策して疲れたので、タクシーでホテルに帰る。動いては深呼吸の繰り返し。そして、時には脈拍を測る。私の部屋は3階で、エレベーターがないので歩いて上がらざるを得ない。それがまた辛い。みんな、2階にあるフロントの前や廊下を歩きながらも憑かれたかのように深呼吸している。それを見てチベット人の従業員たちは笑っている。深呼吸をする宗教のような有様で、さぞ面白かろう。
夕食も頭痛がひどく、あまりすすまない。アルコール・タバコは誰も欲しない。夕食後また散歩したところ、頭痛はうそのように軽快する。不思議なもので、ちょっと動いた後、深呼吸を20回ほどすると頭痛が取れるようになってくる。少し高地順応したのかも知れない。
「明日の朝が一番辛いかも知れません」と脅かされ、スパイラル・テープを貼って寝る。寝ながらも夢うつつに深呼吸をしている。これほど呼吸を意識したことはなかった。
この頃のラサは、昼間は燦々と太陽が照りつけるが、夜8時頃になると決まって強い雨が降る。このお陰で、緑は案外生き生きとしている。
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