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 茶所 善光寺黒如来 − 境内霊譚奇談集Y 


 紅葉シーズンなどには床机が並び、抹茶や甘酒の接待が行われる「茶所」。
 昔ながらの建物、床机に掛けられた赤い毛氈、朱傘と、カメラマンの絶好の被写体でもあります。
 茶所は、ただ湯茶を接待するための建物ではなく、真ん中の仏間には一光三尊の善光寺如来の御分身がまつられています。

 ある時、浄瑠璃などを研究をされているという大学の教員の方から、「善光寺仏開帳の節には、『善光寺物』と呼ばれる浄瑠璃の興行などがよく行われたようですが、そのうち東山での御開帳を当て込んだと思われるものの中に、『洛陽の如来寺の本尊』という表現が出てきます。それは真如堂のご本尊のことでしょうか?」という問い合わせをいただきました。
 今までそのような文献を知りませんでしたので、このお問い合わせを契機に、善光寺の出開帳のことを少し調べてみました。

 茶所にまつられている善光寺如来御分身は、元禄7年(1694)の6月下旬から8月30日、真如堂で行われた善光寺如来のご出開帳(出張御開帳)法要があった時、新たに真如堂に安置された仏さまです。
 善光寺如来像は、鎌倉時代から室町時代初期にかけて模鋳像がたくさん造られ、出開帳のための「善光寺如来」も何体かあったそうですから、この仏像もその一体がそのまま真如堂に奉安されたのか、あるいは新たな模鋳されたものでしょう。

 いっぱんに寺院の開帳は、財政に余裕のなかった幕府が、寺社助成策の一環として許可したもので、この時も善光寺が寺社奉行所に出開帳をしたいという、次のような口上書が出されています。
 「本堂も仮堂ゆえ大破におよび、ことに宝塔・楼門等もただ今は礎石だけが残っています。今度当地ならびに京・大坂において開帳絵縁起講談を行い、寄付が集まれば本堂を修覆し、宝塔・楼門等を再興したい(意訳)」云々。
 現在の善光寺では、7年に1度、前立本尊の御開帳が行われますが、江戸時代は建物の維持修繕や再建のための資金を確保するための目的が大きく、江戸、京都、大阪はもとより全国で出開帳を行ってたようです。
 その頃の善光寺は、豊臣秀頼が再建した本堂が、寛永19年(1642)に再び焼失。慶安3年(1650)、仮堂が完成。寛文6年(1666)、仮堂が建て替えられて新しい本堂が落慶。元禄10年(1697)に本堂の再建大工始めを行ない、宝永4年(1707)にようやく再建されています。これが、現在私たちが見る善光寺本堂です。
 焼失からこの再建までの約50年間、善光寺は仮堂〜粗末な本堂でしのぎ、その間、再建の浄財を仰ぐために、全国で出開帳が行われました。出開帳は大人気だったようで、『善光寺物』と呼ばれる浄瑠璃の興行も、その人出を当て込んで行われたのかも知れません。


 その中でも、元禄5年の江戸深川の回向院、元禄7年の真如堂と大坂四天王寺はいずれも大盛況。その出開帳の収入によって善光寺の再建が始まったのですが、実はその工事途中で門前町の火災による延焼により、再建中の本堂や材木は一度全焼してしまったという記録もあります。

 当時の真如堂は、秀吉の聚楽第建設に伴い、天正15年に一条西洞院より寺町今出川に移転。寛文元年焼失、元禄3年再建、同5年焼失。同6年東山天皇の勅により現在の地に移転。元禄8年総門竣工、16年本堂上棟という怒濤のような流れの中にありました。
 出開帳が行われた元禄7年といえば、移転が決まり、元禄6年から本堂建設の工事が始まったばかり。本堂建設には17年かかっていますから、着工して1年目ではまだ基礎工事段階かも知れません。
 今までの真如堂史では、この善光寺如来の出開帳は、当時、信者が減ってしまった真如堂の信者獲得再建の浄財を集める方策であるなどと解釈されていました。
 ところが、こうして見てくると、出開帳によって集まった浄財を本堂再建の費えに充てたかったのは、むしろ善光寺側だったことがわかります。
 真如堂も、この出開帳の前年に移転の勅命が降り、莫大な費用をどうやって捻出しようかと頭を痛めていたのではないでしょうか。そういう互いの利害が一致しての出開帳だったのかも知れません。
 そんな裏事情があったかどうかはさておき、ありがたい善光寺如来様を一目拝ませていただきたいという人々が、境内を埋めた有り様が、「凉しくも野山にみつる念仏哉」という向井去来の句からも伺えます。浄瑠璃などの興行も行われたのでしょうか。

 その後、善光寺如来御分身は本堂の東側に建てられた善光寺如来堂に安置された後、今の場所に建物ごと遷座されました。
 普段でも、ガラス越しの茶所の仏間に善光寺如来様のお姿が伺えます。ぜひ、お参りください。

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