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  病院に行く坊主

■「ビハーラ」が流行る

 「ビハーラ」などといって、坊さんが病院に行って法話をしたり、患者さんの話を聞いたりするのが流行(はや)っている。先日、大阪でそのような活動をして いる人たちの集まりがあり参加した。
 「病気の人と同じ立場にたって、お気持ちをお聞きするの。そうすれば患者さんも『ありがとう、ありがとう。こうしてあなたが来て下さるのも仏様のお陰です』と手を合わされますの…」などというそんな“信心深い”活動の報告を聞くと、「大丈夫なのだろうか」と、つい私は唸(うな)ってしまう。
 何が何でも最後に仏様を引っぱり出してきて自分の信仰の深さを語る小道具に使ったり、自分がどれだけ慈愛に満ちているかを恥ずかしげもなく語る人を、私は信じない。まるで、子供に対する愛情に自信のない親が、子供に向かうたびに「愛してるんだよ、お前が一番大事だよ」と、言い訳がましい言葉を吐いているかのように聞こえるのだ。
 仏の名を自分の都合の良いように使って人の心に介入することは、人の尊厳を犯し、仏を私利私欲のために引きずり回していることに他ならないのではないだろうか。人が人を変えたり、人が人と仏を引き合わすなどということはできっこないはずだ。

■誰が自分を変えるのか

 私は自坊で相談室を開いている。いろいろな人が相談に来るが、最初から「今はこの人と話をする時期ではない」と思うことがよくある。それは、本人が縦のものを横にする労もとらずに、「何とかしてください」と、まるで私に“解決”に至る一挙手一投足まで指示して欲しいと望んでいる場合だ。自分は血も汗も流さずに安楽を決め込んでいながら、「何とかしてくれ」と言われたって、そんなの変わりっこないじやない。

■林の中に住む象のごとく

 釈尊の言葉に、「なんじら弟子たちよ、林の中に住む象のごとく一人行けよ」というのがある。独りで行くことは淋しいこと。誰かに頼りたいし、人の暖かみも感じたいもの。そういう時もなくてはならないが、人と慰め合っているだけでは、それっきりのものしか見えてこない。自分を変えられるのは自分しかいない。生死は決して共有できるものではないのだ。厳しく自己を見つめ続けることを通じてのみ、自己の変革と成長はあるのだ。そう釈尊はおっしやつているのではないだろうか。
 われわれは人の生死に関わろうなどと易々と思ってはならないのだ。せいぜいわれわれに出来ることといえば、人の邪魔をしないこと。そう思った上で人と関わることが、人としての尊厳を軽んじないことであり、仏を見いだしていく道であろうと思う。
 そういう私も病院へ行く坊主の一人。
 「邪魔しない、邪魔しない。患者さんの人生は患者さんのもの。出しゃばるなよ、お前の信心で何が出来る…」と念仏のように頭の中で繰りかえしながら、うつ向き加減で病院の廊下を歩いていると、
 「おっさん、うかん顔してるやないか、お茶でもどうや」
と、ベテランの患者さんから声をかけられる。
 「おおきに、気にしてもろうて…」
と、あったかいお茶をよばれる。

 寒風にクルクル舞う落ち葉のような独り言である。

『薄伽梵−いのちをみつめる仏教』2号(94/1)

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