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お 坊 さ ん は ど こ へ 行 く の か

「葬式坊主」は返上したいが、儀式をおろそかにはしたくない。
伝統は継承すべきだが、オリジナルの活動も必要だ。
意欲的な若手が模索する、これからの仏教とお坊さんのありかた。

【座談会】竹内純照・長谷川大真・奥田正叡

構成 別冊宝島編集部

☆☆みなさんお寺の跡継ぎという道を選んで、既成仏教のある部分を引き継ぐわけですけれども、一方では今までと違うことをやりたいと思っているわけですよね。どの部分が継承で、どの部分が「このままではいけない」なんですか。
竹内▼重点を、もっと死ぬ前に移さなあかんなというのは、総論的には思ってますねえ。葬式と法事だけでええと思てる坊さんは、あまりいないとは思うんですけどね。
長谷川▼仏教全体的に、このままではあかんな、みたいなのはありますね。でもたぶんね、自分の寺が安泰やったら、このままでもええと思ってるんですよ。
☆☆総論賛成、各論反対ですか。
長谷川▼そうそう。まあまあ安泰を基本において、それ以上のものを、みたいなものでしょ。その中で、お寺がよくなっていけばいいなという感じがあるんですね。
竹内▼しょうもない失敗して、今までの伝統とか信頼とかをなくすようなことは、絶対に許されませんからね。
奥田▼うん、基盤があると思うんですよね、みんなね。
 でも、発展的に考えれば、今の住職と同じことをやっていたらいけないなと思いますよ。檀信徒は、お寺についてくるようにみえるけれど、結局は住職の人柄についてくると思います。自分自身で教化して、心から自分についてきてくれる信徒を育てること。今ある檀家を本当の意味での信者にしていく。それをしなかったら、本当の寺の継承はできないと思いますよ。
竹内▼「副住職さん、最近、新しいことしてはりますね」みたいなことを言われて嬉しいときもあるね。自分のカラーをわかってきてくれてはるかなみたいなね。
長谷川▼喜んで言うてくれてはるならね。でも先住さんに似れば似たで、「最近、似てきはった」とかって、そっちを喜ぶ檀家さんもいはるでしょ。「仏壇に座った後ろ姿がそっくりですね」とか、「声まで一緒ですね」とか言われてね(笑)。そんなんまで見てはるのやなあみたいなね。
奥田▼檀信徒は、いろんな視点から見ていますからねえ…。

生きた人の悩みを聞いていますか?

竹内▼言葉は悪いけど、しんどいことせんでも、今のままでやっていけるわけでしょう。実際に生きた人にかかわっていこうというお寺は、そんなにないんじやないですか。
長谷川▼うん。でも、あるはずねんけどね。
竹内▼お寺という器も、道具も、本人も、全部、揃うてるのにね。それを当たり前みたいに思てて、生かそうともしてない。一所懸命、金儲けに生かしてる寺もあるけど(笑)。生かしかたが違っとる。
奥田▼でも、一所懸命やってるところもありりますよ。
竹内▼あるけど、それは少数で、ごく優秀なとこですって(笑)。
奥田▼まあ、少数かもしれない…。でも、けっこう信徒さんの相談を受けているんじやないですか?
☆☆何か困ったことがあったときに、お寺さんに相談に行こうという発想になる人そのものが少数という気がしますが。
奥田▼私のところは、何でも相談に来ますよ。それはふだんのかかわりだと思うんです。うちは月に平均5つぐらい行事があるでしょ。檀信徒の過半数が来ますからね。
長谷川▼行事がないとこはないとこなりに、お墓参りに来はったらね、話でもするとか。
奥田▼それはお寺によって、全部、違うわけですね。
長谷川▼相談に来る人だって、どこに相談に行ってもええんやったら、拝み屋さんにも行けばね、神社にも行けるし、どこにでも行かはるわけですよ。でも、お寺に来やはるというのは、お寺としての意見を聞いてみたい、みたいなものがありますよね。
奥田▼この問題は、お坊さんだったらどう思うかな、どう答えてくれるのかな、って聞きに来るわけですよ。自分自身で答えは持っていても、悩みを聞いてもらうだけで安心する場合もありますしね。
長谷川▼そう。こっちは、坊さんやからこうですよ、というんじやなしに、普通にしゃべれば、相手が、坊さんやと思って聞いてくれはる部分がありますからね。
 実際、どうしましよう、いうて聞きに来はった時に、私らが「今、あなたが一番ええと思ったことをしなさいよ」と言うのと、ほかのカウンセラーみたいな人が、「あなたが一番いいと思ったことをしなさいよ」と言うのとで、相手の受け取り方というのはまったく違うと思うんですよ。
 それはたぶん、坊さんとして、きっと誰もが持ってることが根底にあるやろうし。カウンセラーさんはカウンセラーさんで、自分の根底にあるものが、きっとあると思いますけれどもね。

確固としたやり方があるのですか?

☆☆何度も同じようなことを聞きますけれど、たとえば生きている人のために何かをする、悩んでいる人に答えてあげなければいけないというときに、それはお坊さんでなくてもいいんじやないかと思うんです。でも、それを、お坊さんはお坊さんとして、お坊さんでしかできないやり方で、しようとしているわけでしょう。それが何なのかということが、よくわからないんです。
長谷川▼求めに応じて決まることやと思うんですけれどもね。
☆☆それは違うと思うんです。
長谷川▼そうですかねえ。でも、そんなん、あまり気にしたことないよ。
☆☆だって、お坊さんの側が提供したいと考えているものと、普通の人が求めているものと、合っている感じがしますか。
竹内▼合ってないねえ。
長谷川▼合ってたり、合ってなかったりやけどもね。
竹内▼こっちの責任もあるけど、普通、人が仏教に求めるものは、けっこう即物的というか、仏教の本来的なこととはちょっと違うと思うねえ。仏教のすばらしさはもっと深いものだと思うな。
☆☆そこにずれがあるとすれば、求めに応じるんだと受け身に構えていたら、どんどん違うほうへ行ってしまいませんか。
竹内▼うん、それはそうやね。
長谷川▼そればっかりしてればね。でも、相手も変われば、話をすれば、ぜんぜんまた違いますよ。
竹内▼今、われわれの日常のまわりにあるきっかけは、逆にずれている部分がいちばん大きいきっかけなんですよ、きっと。葬式なり、法事なり、儀式なりね。そういうところをとっかかりにしていくのが、やはり日常的やし、いちばん入りやすい切り口と違ぅかなという気はするけど。
長谷川▼それがないと、何の意味もないですから。
奥田▼うちの寺は明治初年まで檀林、お坊さんの学校でしたから、檀家も少なく、葬式や法事も少ないんですね。ですから、寺の年中行事や信行会、団参や生け花などの行事を活発にして、檀信徒との接点を作っているわけです。
竹内▼ぼくら、十年ほど前から病院などへ話をしに行っているでしょう。お寺から一歩踏み出して、そういうことをするのはいいことやし、気持の上での収穫がすごいあるけど、ちょこっと病院行って帰ってくるんやったら、それはそれで終わりやねえ。見方によったら、安易やわ。やっぱり、もっと自分の日常に近いとこで、いろんなことを、いろんな形で始めるということが、いちばん、われわれにとつても自分の現実に根ざした方法やなという気がするから。
☆☆日常に近いところで、というのは、お葬式もやっているお寺で、ということですか。
竹内▼そうそう、葬式は大きいですよ。たとえば、葬式をやりっぱなしにするんじゃなくて、そこでいろんな話をするというようなことを切り口にするとか、今やってる身近なところから生かしていくことのほうが…。そりゃあ、毎日の積み重ねやからしんどいけども、その方がたえず自分自身の信仰もチェックできるし、かかわりを練り直すというか、そのためにもええんやないかなという気がする。
 求められることを、というと受け身にみえるけれど、それは単なる切り口ですよ。いろんな形で発信して、切り口をばらまいて、そのどれからでもいいから仏教を知るきっかけにしてほしいんですよ。
 でも、現実は、切り口だけで終わらせてしまっていることのほうが多いのかもしれんなあ。もったいない。腐ってる切り口もあるし(笑)。
長谷川▼受け身的やと言わはるけども、実際、そうではないわけですよ。自分の中ではね、わりと。

お坊さんは何のプロフェッショナルなんですか?

竹内▼たとえば、病院に行って患者さんと話をするでしょ。それはね、誰がやってもいいんですよ。でもね、その次、たとえばいのちの連続性みたいなものを、普通のカウンセラーとかソーシャルワーカーとかは、話せないわけですね。霊的な癒しみたいなことは、できないんです。
長谷川▼坊さんがかかわったら、ぜんぜん違うわなあ。
竹内▼きっちりした坊さんやったらね(笑)。そのへんが、坊さんとして人の生きざまにかかわることの違いという気がするんやね。話を聞くこと自体の技術としては、カウンセラーのほうがずっとうまいですよ。でも、その奥の大きな世界、それを扱えるかどうか、というところは、やっぱり違うと思ぅんです。
☆☆技術といえば、あるお坊さんと話していたら、何でも仕事は同じだと、人とかかわっていくという点では同じだというんです。ただ、技術が違うというんです。医者には医者の、会計士には会計士の技術があると。じやあ、お坊さんの技術というのは何なんですか、ということが問題になってくると思うんです。
長谷川▼難しいとこやなあ。
奥田▼もちろん、坊さんにはそれぞれ法話とかご祈祷とか、自分なりの技術があります。でも、その技術を生かすには、日常の檀信徒との密接な信頼関係が必要になるわけです。大事なのは、技術、ハードそのものより、相手が技術をどう受け止めていくかという、ソフトの方だと思います。
☆☆信頼関係が確かなものであれば、技術はいらないということですか。
奥田▼技術は方法として必要だけれど、それだけではダメですよ、ということです。お経や法話も、そのお坊さんの修行や人柄を通して相手に伝わるものです。技術だけを考えれば、カセットテープのお経の方が確実ですよ(笑)。
長谷川▼坊さんというのはやっばりプロなんですね、ある意味で。
☆☆そうなんです。確実に専門性がある。
長谷川▼で、何がプロなんや、ということなんでしようね。
竹内▼それが見えにくいんですよ。
長谷川▼そうなんです。
竹内▼衣を着ているとか、お経を読めるとか、そういう形では見えるんだけども、じゃ、何がお坊さんは違うんですか、みたいなところを言われると、そこのところは見えないわけだよね。形の奥にあるというか…。
奥田▼体験したらわかるんだけどなあ。日常のやりとりを見るとかね、そうするとわかってもらえるところが多いと思うんです。
竹内▼見るというよりはね、やっぱり、そこで宗教的な発心みたいなところが、ビビビッとこないと、そこのところは感じられないんです。こう言うとごまかされたみたいに感じられるかもしれんけども。
長谷川▼外から見たらなあ。でも、中に入ってみたら、ようわかるとこだけどね。
竹内▼その、ようわかるとこが、なんできっちり説明できない、ということを言われたら…。これは既成仏教の弱さなんかなあ。でも、きっちり見せてやるという宗教はもっと恐いよ(笑)。
長谷川▼言葉で説明しにくい部分ですね。言葉に出したら、それこそ、経本ぐらいのことを言わないとわからんですからね。

お坊さんの技術って何ですか?

☆☆「お坊さんの技術」という表現は、お坊さん自身から出てきたので…。お坊さんにはできるけれども、ほかの職業の人にはできない、そういう技術があるというんですね。ですから「その技術って、何ですか」と聞いたらば、「う−ん、お経ですね」と言われて、それは違うだろうと私は思ったんですけれども。
竹内▼それは違うわ(笑)。
長谷川▼そんなこと言うたら、大工さんは釘を真っすぐに打てます、3べんで打てますというのと一緒やねえ。
 そうじゃなくて、その向こうにある技術があるという意味でそのお坊さんは言いたかったんやと思うなあ、たぶん。普通の人が鉋(かんな)で削って、ちやんと同じように削れても、大工さんは大工さんなりに、やっばり違うでしょ。建てて、100年、200年たったら絶対に違いますよ。それと一緒で、目に見える技術の向こう側に、もうひとつの技術があるんだと思いますよ。
奥田▼おっしゃるようなもうひとつの技術を確立するために、それぞれの修行があるのだと思うんですけど…。そこで培われるお坊さん自身の信仰や信念、生きざまとか、そういうものが「見えない技術」の基本になっていると思います。

別冊宝島『お坊さんといっしょ』掲載(95/3)
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