▲目次
【座談会】お寺の跡継ぎに生まれて
オレの人生、自分で決められへんのか!
家族旅行はできないし、「坊主丸儲け」とは言われるし、お寺の子なんていやだった…。
 それでもお坊さんになった3人の転機はどこにあったのか?
  子供時代の淋しさや父への反発、青年期の葛藤を振り返る。

竹内純照・長谷川大真・奥田正叡  

■出席者3は、京都を中心とした超宗派の会「薄伽梵KYOTO(バガヴァンきょうと)」のメンバー。同会は、「信仰に根ざした社会活動」を目的に1984年結成され、主に病院法話などの活動を行っている。会員資格は僧侶であるということのみで、居住地、年齢は不問。現在15宗派から21名が集っている。
構成 竹内純照  

竹内▼ここに集まつている3人が、若手の坊さんの代表というのはどうかな。みんな一風変わってるし(笑)、兼職しなくてもやっていけるような、まあまあの寺やし……。
長谷川▼まあまあかなあ……。でもだからといって、お寺の子でええ思いをしたなんていうことはないですよ。
奥田▼小さいころは、いやなことのほうが多かったと思うけど。
竹内▼日曜日だってどこも遊びに連れて行ってもらえへんしね。とくに父親と行ったという印象なんて、ないですよ、ぜんぜん。
奥田▼そうそう、家庭のことってないですよ、お寺は。家族旅行とかね。そういうことがなかなかしにくいから、夏休みにみんなで楽しく旅行に行って来たとか、友だちなんかに聞かされるとね、子どもにとって……。
竹内▼それは淋しい思いをしますわね。
奥田▼そう。うちはお寺だから無理だなあ、そんなことできないなあと、淋しいなあというのがありましたね。 両親と楽しく旅行するというより、掃除や片づけなど、ふだんの生活であれやこれやと言いつけられることが多かったですね。
竹内▼目の前にいて、ちらちらしながら、あまりかかわってもらえんというのも、辛いものがあるな。忙しいんやなと、子どもなりに納得しないとならんところがありますからね。
奥田▼それと、お寺って、子ども心にもなんとなく縁起が悪いという雰囲気があるでしょ。絶えずお葬式ばかり見ているわけですから。なんとなく悲しいことをやってるなという雰囲気がありましたね。
竹内▼そうですね、それはありますね。葬式坊主・坊主丸儲けとか、そんなこと言われたりとかいうこともあるし。
長谷川▼昔、よう言われたね。

 お盆が来れば思い出す

奥田
▼私はあ盆の棚経を小学校4年ぐらいの時からしていましたけれど、それはいやでした。
長谷川▼田舎のほうに行くと、けっこう、小学校ぐらいでさせはると思います。
奥田▼そう。衣も母親の紋付の紋を塗って蓋してしまって着るとかでね。最初は兄貴に連れられて行って、次はぼくが弟を連れて行くようになって、3人、バタバ タと。
竹内▼檀家さんも、それが楽しみで待ってはるんですね。
長谷川▼最初のうち、いっペん目、にへん目ぐらいは、みんなちやほやしてね、「可愛いのがいる」と。そのころは嬉しいやろうけど、あとは、だんだんいやになるでしょうね。
竹内▼同級生の家に行ったりするわけですからね。女の子とかいると、よけいかなわんよね。どんな顔してたらいいか……(笑)。
奥田▼そうそう(笑)。ふだん一緒に遊んでいる友だちの家に行って、その時ばかりはおとなしくお経をあげるんですからね(笑)。お盆のお参りなんか、いつも高校野球のころでしょ。そうすると、友だちはたいてい高校野球を見ているんですよ。こっちは夕方まで、足が痛いのにお参りするでしょ。なんでこんなことを、みんな盆踊りとかで遊んでるのに、と思いましたよ(笑)。
長谷川▼難しいわな、それは。わしは家の手伝いをしたことはないけども。
竹内▼ぼくは高校のころからですね。お盆の棚経にちょこっと回ったぐらいです。最初のころ、自転車に乗って行ったりしたら、襟やら裾やら、ぐちゃぐちゃや、着物が(笑)。
竹内純照(たけうち・じゅんしょう) 1957年、天台宗の名刹真如堂の塔頭である吉祥院の長男に生まれる。宗門立の比叡山高校を卒業するも、キリスト教系の同志社大学へ進学。卒業後、京都仏教会勤務などを経て、吉祥院副住職。

長谷川▼角、曲がったとたんに、着なれん衣がパッと……。
竹内▼うん(笑)。今でもお盆のころになったら街角におるやないですか。一目見 て、「あれ、寺の息子や。いやそうな顔して」というのが(笑)。
奥田▼そうそう。袂をそこらに引っ掛けたりしてる(笑)。
竹内▼やっばり、それで、こんな格好悪いことするのはいややなというのもあったしね。坊さんというのは、あまり格好のええもんと違うないうのもあったし。
長谷川▼それから子どものころは、まわりのみんなと違うというのがいややな、というのがありましたね。全体的にね、休みも違えば、家のつくりも違う、親父の生活のパターンも、よそと違う。
奥田▼子どものころは、友だちのささいな一言が気になったり、あの時一緒に遊べなかった、というような単純なことで、お寺に生まれていやだな、と思ってしまうんですよ。
 まわりは、お寺というのは別格に見ますでしょ。「お寺だから」ということ を、よく言われました。お寺の子だからこうなきゃあかん、とかというのが…… 。
長谷川▼いややね、マイナス・ポイントですね。
 
時間が解決すること


竹内
▼でも、今は坊さんになってよかったと思ってるわけでしょう。
長谷川▼それはな。
竹内▼いやや思てても、時間が解決するみたいなところがあるね(笑)。だんだんと坊さんになっていくというか。
奥田▼お寺で生まれ育った子にすると、生活はずっと変わらないわけだから、出家したといっても、どこから息子でなくなって、どこからお坊さんになったかというところが、それぞれあると思うんです。
長谷川▼どうなんやろうなあ。自然というか、まわりの町内、みな、寺やからね、うちらは。特別にないですね、私はね。いつ諦めたかというだけでね(笑)。
奥田▼禅宗らしい発想かもしれませんね(笑)。
長谷川▼小さいころから、その環境の中にいるから、よその家の人と違うのは、いやというか……。絶対違う、何で違うんや、というのは、それは子どものころからずうっとあったけど。でも、それを脱皮できないというのはわかってるから。もう幼少のみぎりより(笑)。
竹内▼ぼくは本山の学校、比叡山高校に行ったんですけれども、それは、べつにお寺を継ごうとか、そういうつもりではなかったんやね。そこには寮があったので、単にちょっと家を出て外で生活したいなということで。
長谷川▼あるね、そういうのがね。生まれも育ちもずっと寺やもんね。
竹内▼ええ。 でも、寮は寺の子弟ばかりなんで、結局、朝は6時前ぐらいから起こされて、朝のおつとめとか、晩のおつとめとか、雑巾掛けとか、そういうのをずうっとやらされて(笑)。それで、卒業して1年間浪人して、やっばり仏教の 大学にはいきたくないと思って、キリスト教の同志社に行ったんです。
長谷川▼やっばり仏教系の大学はいややったんですか。わしもいややったんや(笑) 。そやけど、駒沢が受かったから(笑)。
竹内▼ぼくも仏教の大学受かったんやけど、やめて(笑)。ここで坊さんの学校行ったらしまいやと思って(笑)。
長谷川▼せめて大学だけでもよそへ行こうかなといって、筑波大の芸術とか受けましたよ。日大の芸術とかね(笑)。現役一発では、なかなか入れへんとこですね。それまでしたことないような受験勉強を、アホみたいに(笑)。
 駒沢は、最初、受けるつもりなかったんです。知り合いの大徳寺派の和尚さ んに、「わし、駒沢で応援団やった。お前、受けぇ。あそこはええぞお」とか言 われてね(笑)。だから、その大学に入ったときに、「おっさんが言うたはった とおりのところに入ってしもうたさかい、これは、ご縁やなあ」と(笑)。
竹内▼えらい簡単に締めましたね(笑)。
長谷川▼そうそう。でも、まだ約半分ぐらいですね。
 
ああ、もう、これで坊主や


長谷川
▼駒沢はまあ、環境がよかったんですね。まわりにボツボツと「わしは寺の息子や」「うちは何宗の寺や」というのがおるしね。曹洞宗でありながら、総合大学やし。あれが坊さんばっかりの大学やったらいやになったかもしれんけどね。
 それで、簡単な刺激を、ずっと4年間ですね。そこでだいたい、7割ぐらい蹄めて(笑)。
竹内▼5割から始まって7割ぐらいまでを、4年間かけて……。
長谷川▼じわじわ、じわじわ、とね。 残りの3割が、大学を出て、頭を剃って僧堂に行くというときですね。一気に。そこで紐がプチンと切れるみたいな感じですね。これはドカンとくるから、重みからしたら、元の七割よりはよっぼど重たいですね。
 自分の髪の毛がボーツと落ちるのを見て、「ああ、もう、これで坊主や…… 」と(笑)。だけとはいえ、あと死ぬまでこれやなというのがありましたね。
奥田▼小さいころ、ずっとツルツルじやなかったんですか。
長谷川▼のばしてました。長い髪がはやった時期とかもありましたよね。大学の4回生ぐらいになると、もう残り少ないさかい、というんで、パーマ当てたり、角刈りしたり、いろいろして(笑)。つまりもう、そのころには諦めて、坊さんになるつもりがほとんどだったですね……と思います(笑)。
竹内▼ぼくも大学のころは肩まで髪のばして、ヒゲもはやしてた(笑)。
奥田▼最後の抵抗というかね。
長谷川▼そういうようなことやろうね。
 僧堂に行く2日ぐらい前、親父が頭を剃って、バサッとやられて「あ、終わ った」と(笑)。それまでの、たらたらしていたのは、これで終わりやという( 笑)。
奥田▼ほんとに終わったんですか?
長谷川▼いや、終わったと思ったということですな(笑)。
 
勉強したい・修行したい・僧侶になりたい
             

奥田
▼私は次男だし、普通に一般の大学に行って、何か自分の、お寺以外の生き方をしたいと思いました、最初は。 ところが、中央大学4年の時に祖母が、「仏 飯を食べて大きくなったんやから、何か、やっばりやらなきゃあかんな。お坊さ んにならなくても、それなりのことは、ひとつぐらいは」と言ったことがあるん です。それがきつかけです。
奥田正叡(おくだ・しょうえい) 1955年、日蓮宗総本山身延山久遠寺の別院・上行寺に3人兄弟の次男として生まれる。中央大学卒業後、仏教を学ぶべく立正大学へ進学、引き続いて身延山久遠寺で数年の修行。同寺山務を経て1983年、師の紹介で常照寺副住職となる。日蓮宗大荒行再々行(400日)成満。

 兄貴もお坊さんだし、自分はお坊さんになるといっても、実家を継ぐわけでもない。だけど、仏飯を食べてここまでなったんだから、社会に出る前に、僧侶の世界もきちっと自分で知らなきやいけないと。で、立正大学へ行って仏教学をやり直して。立正で僧階取って、やっばり修行してなかったら話にならないと思い、身延山へ行ったわけです。
長谷川▼立正に行った時点では、まだ、お寺をするというか、お坊さんになるということは確定していなかった感じですか。
奥田▼まず専門的な勉強をしたいな、と思ったんです。祖父も父親もお坊さんで、ぼくは3代目になるわけです。兄貴は立正大学へ行っているし、父親も立正を出ているわけです。弟は身延山の短大に行きましたしね。だから、話が通じないんです、勉強していないと。
 立正で仏教学を学んだあと、自分から身延山の門をたたきました。その身延山で素晴らしい師匠に出合うことができたんです。いつか、この師匠のような僧侶になりたいという目標というか、あこがれがありましたね。修行が終わってからは後輩を指導しながら、本山勤務をしました。勤務しながら、修行も続けました。そういう過程で僧侶になろうと決心していきました。
長谷川▼優秀やなあ(笑)。坊さんの鑑みたいな人ですわ(笑)。
竹内▼ほんまや、そばに寄りがたいなあ(笑)。
奥田▼修行をしながら、自然にその道に入っつていったんですね。もっとも、小さいころから得度してたし、「お前は坊さんになるのがいちばんいい」と両親に言われていましたけれど……。
 
父親はややこしい


奥田
▼次男という自由な立場で親の強制もなかったですから、自ら発心して僧道に入っていきましたね。
 だいたい父親って、お経とか、教えないでしょ。
竹内▼教えないですね。
奥田▼私もぜんぜん。師匠は伯父さんだったですよ。
長谷川▼わし、僧堂に入るまで、お経、知らんかったから。
奥田▼みんなそうだと思うんですね。教えないんですよ、弟子でありながらね、父親は。そういう関係があるんですよ。
竹内▼あれは師匠として教えないのか、親の照れとして教えないのか、そのへんが、ようわからんなあ。
奥田▼息子のほうも、なんとなく父親に聞きたくない部分ってありませんか。
長谷川▼ありますね。なるべく聞かないように(笑)。
奥田▼頭下げて、お願いしますなんて、なんとなく照れがあって、そんなことなら自分でと……。
竹内▼師匠であり、父親でありというのはややこしいですよね。向こうもそうやと思いますよ、やっばり。
長谷川大真(はせがわ・だいしん) 1957年生まれ。臨済宗三玄院の一人息子(姉一人)として育つ。三玄院は臨済宗大徳寺派総本山大徳寺の塔頭。駒沢大学仏教学部卒業。相国寺僧堂で約6年修行の後、三玄院副住職。

長谷川▼こんなことを言うた奴もおるんやけども、自分がちゃんとしてたら、それを見て育った息子も、いくら、いやや、いやや言うても、最終的には、ええようにいてくれるやろう、みたいなこと。それは、ある面では正しいかなあという気がするけど。
竹内▼それ、親が言うてんにやろ(笑)、ケース・バイ・ケースやで。
長谷川▼やっばり職種的に特殊やからね、見てもらわんことにはわかってもらえん、みたいなところがありますでしょ。いくら口で言うてもね。
 そういう部分がね、やっばり小さいころから、行動を見ているとわかってくるだろうと。そこが、寺の息子と、そうでない人の違いといえば違いでしようけどね。
奥田▼いちばん身近な父親を通して、坊さんというのを見るわけですからね。そこで、いやな面もあるけど、尊敬できる部分があるから、同じ道を歩めたと思います。
 もし、それが、めちゃくちゃやっていてね、親父みたいに絶対になりたくないっていう存在であれば、ならないかもしれないですよ。 私の寺には、信者さんがよく相談に来ていました。そうすると、厳しくて頑固な父親だけど、檀信徒には信頼されているということが、だんだんわかってくるんです。それがいつしか尊敬に変わっていくんですね。
長谷川▼それが最終的にわかるまでに葛藤があるんですよね。
奥田▼そうそう、そういうことが小さいころはわからないんですよ。厳しい親父だなとしか思えないですから。
 実家の父は、高校の先生もちょつとやっていたんです。それで、ある工業高校でものすごい暴力事件を起こして少年院か何かに入っていた生徒が、そこから出てきて、いきなり、うちに訪ねて来たんです。ぼくが小学生か、それぐらいのときだと思うんですよ。父親は学校だったんで、電話して、すぐに帰ってきたんです。
 その人はお礼参りに、変な意味でなくて、ほんとにお礼に来たんです。施設の中で作った彫り物みたいなものを持って。あとで聞いた話では、うちの父親にめちゃくちゃ叱られた。そのことがいちばん気持に残ってると。だから今、このように立ち直ろうと思ったと言って、心からお礼に来たんです。涙ながらに語っていました。
 ぼくにとってはけっこう厳しい父親でしたからね、だけど、これは何かやっはり違うんだなあというのを、ふっと感じたんです、その時に。こんな悪い奴を怒って、ありがとうと言われる存在なのかなと……。
 
オレの人生、逃げんといてみよか


竹内▼父親とか、そういうのがすごいきっかけになったということだけれども、ぼくは、それよりも、自分の中の問題のほうが大きいんですよね。
 ぼくは長男やし、小さいときから「お前はこの寺を継がなあかん」と言われてたでしょう。だから、逆に「オレの人生、自分で決められへんのか!」という反発がありました。
長谷川▼あったなあ。
竹内▼それで、逆らつて、仏教の大学に行かんかったんです。でも、それがぼくにはよかったんですね、今から思うと。いろんな他界が見れたし、そのうちに「逃げてんとやってみよか」と、気持が変化していったんです。反発した分、今は充実してますよ、おかげさんで(笑)。
奥田▼なるほどね。
竹内▼でも、それに至るまでに、いちばん近くでみる坊さんというのは父親やから、影響は大きいやろけど。
長谷川▼ああ……。もっつと言うたら、反面教師みたいなのもあるでしょ。
竹内▼いやな面もあるからね。「親父みたいになりたくない」とか、そういうのもあるけどもね。 細かいことやけど、たとえば、急いでて、お経の節を省略したり、そそくさととなえたりとかね。そんなとき、ぼくはわざとゆっくりと木魚た たいたり……(笑)。
 それとか、「法話で言うてることと、自分の生活、ちょっと違うやないか」とかね、そんなんありますよ(笑)。やっぱりきれいごとを言うときがあるでしよ。「そんなきれいごと言うても、自分はなんやねん」という場合がありましたよ。今は、「しゃあないなあ」と思ってるけど……。
奥田▼自分に向かって言ってるんと違うか?とかね(笑)。
長谷川▼自分の刺激ですよ、あれは(笑)。言うたからには責任、持たないかん(笑)。たまに言わんと怠けてしまう。たぶんね、頭の中にあるんですよ。「そうせなあかんのや」みたいなのが。
竹内▼「だったら、もうちょっと自分は何とかしたらどうやん」というのがねぇ……。
長谷川▼でも、その言うてるときは、私は言う立場なんやから(笑)。あんたは聞く立場なんやからと(笑)。
奥田▼実際、自分が法話をするようになったらわかりますよ、そういう感覚って(笑)。今、子どもにそう見られてるのかなあ(笑)。
長谷川▼聞かしたらあかん(笑)。
奥田▼自分の毎日を赤裸々に振り返りながら言っていたらねえ……。
長谷川▼言えません、何にも。
竹内▼それも、坊主になるのがいややったひとつの理由やな。「言うてることと、やってることがバラバラやないか」、いうのがね。
奥田▼かなり客観的に見ていたんですね。
竹内▼アウーサイダーっていうか、批判屋っていうか(笑)。
長谷川▼坊さんになってみてわかるんですね。それでも話してもらうことを求めてる人が、ここに実際、いるんやというようにね。
 
ええことが増えてきた


長谷川
▼でも、こういうことって、それだけしかなかったら、今でもいややと思いますよ。ほかに、いっぱい、ええことがどんどん増えてきたから、いやでなくなったんやと思いますね。
竹内▼それだけの生活やったら、今でもいやでしょうね。きっとね。
奥田▼そうそう。だから、いやじじゃないように自分で努力していくんですよね。
 小さいときから寺に対するマイナスの先入観がありますから、そうじゃないということをどっかで出したいという気持があるんですね。その思いが、今、私たちが病院や老人ホームでのボランティア活動をやっていることの、精神的原動力の一つになっているような気がします。

別冊宝島『お坊さんといっしょ』掲載(95/3)
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