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 涙でお経が読めなくて

 「オッサン(坊さん)が泣いてくれはったんやから……」
 遺された家族に会うと、今でもそう言われることがある。
 30、40は鼻たれ小僧といわれる坊主の世界だが、鼻たれながらも20年近くやっていると、さまざまな出来事がある。今から10年以上前だが、泣いてお経がよめなくなったことがある。
 当時、まだ私は大学を卒業して間のない、坊主としてはまったく駆け出しで、今から考えると坊主としてのアイデンティティもなく、寺で生まれたから仕方なく跡を嗣いでやっている、というだけの頃だった。
 電話を受けた母から、「おじさんが死なはった」と知らされた。初冬11月の、寒々とした日だった。
 何か行事があると必ず寺に来て、「何か手伝うことはありまへんか?」と言ってくれたおじさんが、私の目から見ても「弱ってきはったなぁ」という感じを受けだしてから久しかった。がんで胃を全摘したが、食道にも転移したらしく、声が出にくい状態がもう何年か続いていた。
 訃報を聞いて、「とうとう亡くなってしまったか…」とは思ったが、来るべき時が来たという感じで、さほど動揺はしなかった。
 私はすぐ、住職と一緒に自宅に駆けつけた。

 この家の、この部屋の思いで

 おじさんの家は、西陣織の家内工場が軒を並べる、棟割り長屋の一番奥にあった。土間が奥まで続く昔ながらの間取りを、土間に立たなくてもすむように台所を改造したり、新たに風呂を作ったりして、暮らしておられた。まわりの家からは、シャカシャカ、シャカシャカと、織機の音が絶え間なく聞こえ、おじさん自身も西陣織のネクタイの職工を若い時からしていた。
 4人の子どもは独立し、奥さんにも10年ほど前に先立たれ、当時30過ぎの次男が一緒に暮らしていたものの、ほとんど独り暮らしに近かった。
 私は、この家に1度だけ泊まったことがあるのを思い出す。小学校5年生か6年生の夏休み、渓流釣りに連れて行ってもらう前夜だった。おじさんは、子どもながらも「大事なお寺の跡取り」である私に対して、いささか遠慮がちで、ぎこちない、しかし大事にされているという実感のわく接待をしてくれた。ほとんど外泊などしたことのない私は、翌日を楽しみにしながらも、不安げに緊張した一夜を過ごした。
 その後、私が20歳ぐらいになると、盆の棚経の運転手として、住職である父についてこの家を訪れるようになった。玄関を入ってすぐ左側の仏壇がおいてある部屋で、集まった子どもや孫を前にして、昼食のにぎり寿司をいただくのが常だった。

 涙でお経が読めなくて

 おじさんは、仏壇のあるいつもの部屋で、顔に白布をかけられ、薄い布団を看て、北枕で横たわっていた。そして、その周りを子どもや孫など10人ほどが取り囲んでいた。
 顔は白く、白い髭がわずかに伸び、最期に大きく息を吸い込んだかのように口は少し開いていた。
 住職は、白木の位牌に戒名を書いた。
 「篤信院圓覚正念居士 享年七十三歳」
 おじさんらしい、いい戒名だ。私は、布団の脇の、住職のすこし後ろに座って、一緒に読経を始めた。
 すぐに、おじさんとの思い出が頭をよぎりだした。
 「思い出してはいけない……。お経がよめなくなる……。他のことを考えないと……」
 目を閉じて試みてみたが、もう止められなかった。
 小学校4年の私が自転車の色を塗りなおしていた時、「それではあきまへん」と手伝ってくれた、私の記憶に残る最初の出会い。
 「映画に行きまへんか」と誘われて行ったのが、高倉健の『唐獅子牡丹』だったこと。
 バスに揺られながら渓流釣りへ何度も連れて行ってもらったこと。
 夏でも必ず腹巻きをしていたこと。
 「どうしても」と私の高校の入学式についてきたこと。
 具合が悪くなってからは、寺へ来ても何も食べられなくなったこと。旧式の自転車で帰る時のさみしげな後ろ姿……。
 そんなに世話になっていながら、結局、何の恩返しもできなかったこと。そして、「あんさんがいはるさかい、安心ですわ。葬式は頼みまっせ」と、最近、力なく言っていたこと……。
 もうどうしようもなかった。読経を始めて3分も経っていなかっただろう、涙が出て出て、泣き声をこらえて肩で息をするような状態になった。お経をよむどころか、木魚を叩き続けるのがやっとだった。
 寺に帰ってから、住職に「お経のよみ方が足らん!」と一喝された。住職も私の思いはわかってはいただろうが、師匠としてはそう言わざるを得なかったのだろう。
 翌日の葬儀の時、「ここは坊主として頑張らねば……。おじさんのためにもちゃんと役目を果たさないと」と、どうにか平静を装った。だが、そのためには大変な力が要った。くたくたになった。
 通夜はどうしたのか、出棺の時はどんな様子だったのかなどは、記憶にポッカリ穴があいたように、ほとんど憶えていない。ただ、帰ってきた遺骨を前にして遺族と浄斎(食事〉をとった時、酒好きの次男に注いでもらった酒がとても不味かったこと。そして、ほとんど呑んでいないのに、悪酔いして2、3日起きられなかったことが思い出されるだけである。

 悲しみと涙と私の気持ち

 こうして、思い出しつつ書き絞っている今日、ちょうど13年目の命日を迎えた。毎月必ず墓参に来ていた次男も、3年前、父親と同じ病気で他界し、今、墓前に花を供える人はあまりいない。
 私は、あの時泣いてお経がよめなかったことは、やはり自慢できることではないと思っている。でも、もし涙一つ流さずに淡々と読経していたとすれば、そういう自分を受け容れることは今もってできなかっただろう。泣けてよかったのかもしれない。
 あれからずいぶん多くの葬式を経験した。今でも悲しい時はあるが、泣いてお経がよめなくなったことは、あの時以来ない。人が死んで悲しいことに変わりはないが、今は、「善いところへ連れていってもらいなよ」「大丈夫だよ、安心していればいいよ」という気持で、お経がよめるようになったからだろう。少しは坊主らしくなったと、自分でも思う。

別冊宝島『お坊さんといっしょ』掲載(95/3)
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