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病院に法衣姿のお坊さん

★坊さんと病院

 「病院に坊さんが法衣姿で行く」というのを聞かれると、皆さんはどんな印象を持たれるでしょう? 「そんな縁起でもない」「まだ生きている! 早すぎる!」
 「坊さん」といえば、葬式や法事など、人が死んだ後から縁ができる人という印象が強く、そんな黒衣をまとった人が心身が弱っている人、場合によっては死に瀕している人のいる病院へ行くなんてとんでもないという反応は、今の世の中ではごく一般的ともいえます。
 1984年、京都を中心とした仏教伝統教団の僧侶が宗派を超えて「信仰に根ざした社会活動をしよう」というスローガンのもとに京都仏教青年会(現 薄伽梵KYOTO)を結成。その活動の一環として、翌年から病院において患者さんを対象とした法話の会などを始めました。
 最初、病院法話の会場である高雄病院(京都市右京区)を法衣姿で訪れた時のことを今でも思い出します。
 院長の案内のもと、私たちが廊下を歩くと、姿を見た人は一様に「何事か?!」とビックリした顔をされ、通り過ぎた後ろから「霊安室に行かれるのかしら…」というヒソヒソ話が聞こえてきました。私たち自身も、「こんな格好でいいのかなぁ…患者さんが気を悪くしないかなぁ」と気掛かりでした。
 以来10年余、法話会や書道教室をはじめとする様々活動を続け、今日、高雄病院に限っては法衣姿もすっかりとけ込んでいます。入院して日が浅く、私たちのことを知らない患者さんには、先輩の患者さんが「ここはこういう病院や。坊さんが来て話してくれるのや」と説明してくれます。

★病院法話の始まり

 もともと私たちは病院に限った活動をするために会を結成したわけではありません。しかし、結成当時の社会情勢が病院・医療と私たちを結びつけました。
 めざましい医療技術の進歩に伴って結核などの感染症が征圧され、平均寿命も延び、逆に成人病などの増加すると共に、ガンによる死亡が第1位になりました。
 ガン患者の多くは意識が鮮明な状態で死に近づいていく。その身体的・精神的・社会的・宗教的苦しみなどに、医療・看護職のみならず、もっと幅広い職種の関わたチームで対処していこうという動きが、日本では1977年頃から盛んになってきます。そして、身体的な苦痛は医療的処置で緩和できても、「死んだらどうなるのだろう」というような精神的不安は宗教家に対処にして欲しいという要望が高まってきます。
 このような動きに触発される形で、仏教系団体などの動きが84年頃から始まり、以後、仏教を背景としたターミナルケア「ビハーラ」が提唱され、仏教者などが病院で活動することが全国に広まっていきます。
 私たちもこういう流れの中で、全国に先駆けて病院活動を始めました。しかし、私たちは「病院」や「ターミナル」は一つの場であると考えています。
 ターミナル(終末期)というごく限られた一瞬−−確かにそれは密度の濃い大切な時間ですが−−にばかり目を向けず、生まれてから死んで行くまでの長い人生に関わっていこう。また、病める人ばかりではなく、健康な人に対しても、お年寄りにも、若い人にも積極的にアプローチしよう。病院や老人ホームといった施設でだけではなく、寺に引きこもることなく、もっと自由に、あらゆる機会と方法を使って、生きるための仏教を広め、自分の信仰に対しても真摯に求め続けようというのが、私たちの基本的な立場です。仏教の活性化運動といってもよいでしょう。

★何のための法話か

 病院法話を始めてしばらく後は、マスコミ等でその活動が取り上げられたこともあり、一時は5〜6の病院・老人ホームで活動することもありました。また、その他にも希望する病院がありました。
 しかしながら、法話会を重ねると、私たちが病院法話をしようとしている目的とそぐわないと思える病院も出てきます。
 たとえば、ある病院では、「点滴を嫌がらずにさせる聞き分けのいい患者になるよう話をして下さい」と言われたことがありました。「治療のため」と有無を言わさず施療し、嫌だと抵抗する人を「扱いにくい患者」「治療に積極的ではない患者」と考える医療者がいます。しかし、点滴を嫌がるには、嫌がる理由が患者にはあります。ただ痛いからというのではなく、治療方針に納得していないとか、治りたくないと思っているとか、様々な理由があります。そういう気持ちをなおざりにして、錦の御旗のように「治療のため」と医学的処置をすることが、その患者さんを本当に大事にしていることになるでしょうか?
 それでなくとも患者の立場はとても弱いのです。「これからどうなるのだろう…いつになったら退院できるのだろう…」と、不安な気持ちでベッドに寝ていざるを得ないのに、看護婦さんの顔色には神経を使い、先生には面倒がられるような質問はしないでおこうと、治療への不安や疑問を心にしまっておいたり…。何でも話せるのは、利害の絡まない掃除のおばさんだとも言われます。
 私どもは、患者さんが心の底から「ああ、充実した人生だった」と思えるよう応援したいと思っています。病いの中でいろいろ考え、悩み、苦しむ時に、仏教に出会えば何かヒントになるかも知れません。それは人によっても、縁によっても違うでしょう。法話を聞いても何の役に立たない場合が大半です。でも、もしその中の一言が何らかのきっかけになったら…。私たちに愚痴を話される中で、もし、「いつまでもこんなことばかり言っていても始まらない」という気づきがあれば…。法話会の目的ははそういう縁作りです。
 また、法話はあくまで導入です。どうしても一方通行的になりがちですが、かたや「ああ、仏教ってこういうことを言っているのか」「あのお坊さんはとても気さくな人だなぁ」とか、仏教や僧侶との距離を縮める役割もあります。法話でお互いの距離を縮めて、話しやすい雰囲気を作り、その後もし患者さんが望まれるなら個別にお話をする。そういう流れの中の一つのポイントが法話会です。

★高雄病院法話会

 法話は約30分、聞き手は「患者さん」ですので、短めにしています。会場は、現在は患者食堂です。法話の前後に、お勤めや唱歌などの歌を加えて、聞くだけではなく、できるだけ参加していただく形式を目指しています。
 参加は自主的ですが、看護婦さんが「刺激になれば」と思われるのか、車椅子に乗せられ連れてこられる場合もあります。人数は、患者さんや看護婦さんなど20〜30名程度で、高齢者の方が大半です。
 話の内容は、病院だからといって特別ということはありません。例えば、死は話題にしないというようなタブーはありません。ただ、自分のお寺などで特定の方々に話すのと違い、教義的な話より、実体験に基づく話、例えば何処そこへ旅行に行ってどう感じたとか、今こういう花が咲いているとかから広がる話が共感を呼びやすく、テレビで見ることもできるけれど、それより生の話が聞きたいと思っておられるように感じます。旅の話などには、「そこへは私も若い頃に何度も行った」という反応もあり、そこからご自分の人生を思い出させることもあります。
 逆によくやる失敗です。「皆さん方はこんな綺麗な施設に入れていただいて、やさしい看護婦さんにお世話してもらって、本当に幸せですね」などということを、病院や老人ホームなどで話す方がおられます。
 でも、ちょっと考えてみて下さい。病院や老人ホームに入っている人は、本当に自ら喜んでそうされたのでしょうか? 健康であることはもちろん、多少不自由でも住み慣れた家の方がずっといいのではないでしょうか? いくら病院でやさしい看護を受けても、カーテン1枚のプライバシーのない生活、「冷たい、早い、不味い」といわれることもある食事、「化粧をしたら顔色がわからない」と強いられるスッピン顔。「家族に捨てられた」という思いで入っておられる方。ちょっと考えただけで、誰が喜んで入っているだろうということに気付きます。そういう気持ちへの配慮もなく言う「幸せですね」という言葉が、どれだけ患者さんの心を傷つけるか。「気持ちの持ちよう。何とか積極的に毎日を送って欲しい」と願っての発言でしょうが、自分の願いを優先した、相手の気持ちを考えない一方的なものでしかないのではないでしょうか?
 また、患者さんは一様に敏感です。例えば、僧侶自身が信じてもいないことを、さもそれらしく話すと、後で、「今日の人はもう一つやなぁ。あんなこと言ってたけど、本当やろか」という厳しい査定が下ることもあります。

★書道教室

 高雄病院では、月1回、書道教室も開いています。リウマチで満足に手の動かない患者さんも、車椅子にのった方も、一所懸命に筆先に心を集中されます。講師は私ども会員の僧侶ですが、「患者さんからは“今しかない”というものすごい集中力を感じる。元気な者が“いつでも書ける”と思って書く字とは違う」と言います。
 また、字を書く時の精神集中や、その合間のいろいろなコミュニケーションが、患者さんの心を和らげ、痛みがなくなったとか、思いふけっていたのがすっきりしたということがよくあります。
 神経が麻痺する病気で入院されていた若いお母さんが、「好きな字を選んで書いて下さい」というと、迷った挙げ句、2人の幼い子供の名前を書かれたこともありました。その方は、ご自分の人生がもうわずかしか残されていないということをご存じでした。「お母さんがいなくなっても、元気に大きくなるのよ。ゴメンね」と、きっといろいろな思いを込めて名前を書き残されたことと思います。その後、時を経ずして亡くなりました。

★病室訪問

 ベッドは不自由ながらも病院内で患者さん自身が専有できる唯一のスペースです。そんな病室を訪れると、患者さんの表情はまた違います。病を通して、家族や夫婦関係の心が通じ合うこともあれば、恨みごとが絶えないような状態になってしまうこともあります。死後の不安や葬式の心配、患者さん同士のいさかい…。いつもお菓子をくれる方、看護婦さんに隠れて民間療法に精を出す人…。冬は編み物、夏はビーズ細工の流行。
 特にするべきこともなく、1日中病室の天井を見て過ごせば、そこにあるシミも何かに見えてくるようなもので、少しの心配が大きくなったり、真っ直ぐなものが歪んできたりして、不安や悩みが渦巻くこともあるようです。
 そういう方のお話を聞く時、例えば「それは気のせいですよ。考え方をちょっと変えたほうがいいですね」と言ってみたらどうでしょう? また、病気をすると中には精神的に幼児返りされる方があります。そういう姿を見て、「歳を考えてください」とたしなめたらどうでしょう?
 健康な者からすると、自分は常識的なことを言っているようにも思えるかも知れませんが、言われた方からすると、拒否されたような、少しも自分のことを判ってくれていない人としか思えないかも知れません。
 悩んでいる人に何かを言わざるを得ない気持ちになってくるのは、むしろこちらの問題です。
 人には素晴らしい力が備わっています。病気や悩みのどん底に落ち、その力が弱った時でも、最終的には本人がどうしたいと願っているかにかかっています。
 関わる私たちにできることは、その、備わっている力が十全に働くよう手助けすることぐらいです。例えば、病苦の中にある方と関わる場合は、何か示唆的なことを言ったりするよりも、その方のお話に耳を傾ける。話していく中で、自分の心に気付き、整理し、次にどうしようという方向付けを自らしていかれます。その力は素晴らしいものです。書道に治療的側面があるのも、字を書くということを通じて自らの精神を清めていかれるからでしょう。

★在宅活動へ

 私は、いろいろな方とお話する中において、人の孤独や悩みなどのキーワードは「自分自身との和解」であると思うようになりました。「こんな私でも生かされている世界がある」と感じ、平安な境地を得るには、他人ではなく、自分自身との和解が出発点だろうと。
 魂の孤独は、日常の此処其処のすべての人の心の中にあります。そういう意味で、仏教はもっと人々の心に語りかけていく努力をすることが必要でしょう。  とりわけ、老病死が渦巻く病院、そこで呻吟する患者。かかってしまった病気を、自己との和解の大きなチャンスに転換し、「ああ、いい人生だった」と締めくくっていただくお手伝いができればと願います。
 しかし、病院は限られた空間であり、僧侶がそこで活動することは決して容易ではありません。むしろ、「在宅」が盛んに叫ばれるようになってきた今日、病院にこだわらず、従来の寺院活動を活性化する中に、大きな活路が見いだされる気がします。
 たとえば、檀信徒に寝たきりの方が出たら、お見舞いかたがたお話に伺う。家族の方は「汚いですから」と後込みされるかも知れませんが、患者さんにとっては家族以外の者といろいろなことを話す良い機会になるでしょう。お年寄りには自分の葬儀のことを心配されている方く、最初はそういう話になるでしょう。そのうち死後の不安や来世の問題、ご自分が生きてこられた人生を振り返って語り出されるかも知れません。そうして話す中において、心のつかえが次第に取れていくでしょう。
 ターミナルの患者さんでも、これからは在宅で過ごされる方が増えます。若くして死を迎えざるを得ない方には、医療者だけでなく、宗教の立場で関わることがとりわけ大切になってきます。自己との和解は大きな問題です。
 今後、そのようなニーズはますます高まるでしょうが、「お坊さんと話したい」と言ってもらえるかどうかが問題です。やはり、日常の積み重ねが、やがては僧侶=死というイメージを払拭し、法衣でも「縁起でもない」と言われなくなる日を招くでしょう。そして、その大前提に、僧侶自身が「仏教・寺院・僧侶はこのままでいいのだろうか?」と自問し、それに応えるべく努力することが何よりも肝要であることは言うまでもありません。

『大法輪』平成8年10月号(96/10)
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