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 本尊 阿弥陀如来 − 境内霊譚奇談集T 

 いきなり難しい文章ですが……
 真如堂の由緒来歴を記した『真如堂縁起絵巻』に、「天長年中(823〜834)、志賀郡苗鹿のうか 覚(慈覚)大師に対面ありて、如法経堂の番神入衆望請ありける時、栢木柱一本彼の明神より助成あり。此の木の本を切るに、毎夜光明を放つの間、大師怪しみ給いて打ち割りて見給ふに、一片は坐像の仏体、一片は立像の尊形、木の目に鮮やかに見ゆ。よって、この霊木を以て先ず弥陀坐像一体造立し給いて、大師随身奉持し給いしが、後には日吉社念仏堂の本尊となり給ふ。今一片の木、立像の形あるをば、憶念し給ふ事ありて、その時は造立し給はざりしなり。(略)さて以前のこし置かれし木片にて、弥陀立像一刀三礼に彫刻して、彼の船中出現の化仏を腹身し給ふ。当堂の本尊是なり」と、本尊の由緒が記されています。

 簡単に意訳すると、苗鹿明神が慈覚大師に自分を如法経堂の番神のメンバーに加えて欲しいと言って、栢の木を1本贈った。この木が毎夜光るので割ってみると、坐像と立像の阿弥陀如来が現れた。それでまず坐像を造って日吉神社念仏堂の本尊とし、立像の木ではその時仏像を造られなかった。(入唐求法の旅から帰った後)残しておいた立像の木で阿弥陀如来を造られ、帰りの船の中で現れた化仏を胎内仏とされた。これがこのお堂の本尊です、というようなことです。

 161号線雄琴温泉の南「苗鹿」の信号を比叡山側に曲がると、大きな木の生えている場所があり、遠目にもそれが鎮守の森であろうと察しがつきました。
 前まで行くと、「那波加神社」の石碑。「これで“のうか”と読むのかなぁ」と思って、境内に進みました(「なはか」と読むらしい)。神社の境内には、直径1メートル余の朽ちた切り株が残っています。「慈覚大師は、こんな大きな木を明神さまからいただかれたのかなぁ」と想像しました。
 今はほとんど人影のない苗鹿明神ですが、江戸時代に発刊された『日本名所図会』などにも記載されている「人気スポット」でした。

那波加神社の正面。ここの神さまがご本尊の霊木を寄進

 資料によると、「那波加神社の祭神 天太玉命は太古よりこの地に降臨し、天智天皇7年(632)営社、垂仁天皇の皇子小槻氏の始祖である於知別命を配祀し、那波加荒魂社は、平城天皇大同2年3月(807)斎部宿祢廣成天太玉命の荒魂社として本社の別宮として創建されたと伝えられる。醍醐天皇延喜の制(延喜式 神名帳)にもその名を列ね、また天台宗の根本法華経を護る三十番神の29日の神として現在も著名大社の神々に並んで信仰されている」云々。
 苗鹿大明神は三十番神の29番ですので、この神社がと苗鹿明神であることは確かです。「なはか」が「のうか」と音便が変わったのかも知れません。(『古事類苑』)

 話がそれますが、慈覚大師の伝記によると、40才になられた大師は、東国巡礼から比叡山に戻られた時(天長9 832)、栄養の偏りなどが原因と考えられる失明の危機に陥られます。保養より死に備えることが大事と、伝教大師の刻まれた阿弥陀如来の安置場所を求めて横川を開かれ、そこに草庵を設けて、安静臨終の場所と考えられました(杉の木の大穴という説もあり)。法華経読誦などの行を重ねること1年ほど、目の具合はますます悪化し、草庵の外へは一人で出られないほどになったといいます。
 そんなある夜、大師が端座黙然されていた時、天人が天下って来て、瓜に似た果物を差し出しました。大師はそれを割って半分を食べたところ、大変美味で、爽快な気が体中にみなぎったといいます。天人は、「これは帝釈天が法師を助けようと下さった不死の妙薬です。私は法華の行者を守護する松尾の明神です。今日は私の当番の日ゆえ、法師を見守りに来たのです。さぁ、残りもお食べなさい」。こうして大師の視力は回復し、身心も元気を取り戻されました。
 大師はこれを機縁として法華経書写を始められ、草庵(大杉?)近くの小高い丘に法華経を本尊とした「如法堂」を建立されました。そこは次第に多くの行者の集まる修行道場となって、「首楞厳院(=横川中堂)」と呼ばれるようになりました。


如法経堂跡に建つ根本如法塔(延暦寺・横川)
 苗鹿明神が栢の木を寄進して置いたのは、大師が建立された「如法堂」の門内となっている(『真如堂縁起』の挿絵)ことから、その出来事は天長10年か11年(833or834)、慈覚大師が失明の危機から脱して、法華経の書写に打ち込んでおられる頃でしょう。
 松尾の明神とは京都の松尾大社のことで、如法経守護三十番神の第4に数えられています。「今日は私の当番の日ゆえ」というのですから、何月かはわかりませんが、4日の出来事でしょう。ここでも、三十番神なのです。
 三十番神とは、1ヶ月30日間に30の如来や菩薩を割り当てたもので、禁闕守護・法華守護など10種類ほどがあります。
 法華経守護番神は、もともと慈覚大師が首楞厳院に納めた法華経を守護するために、日本国中から著名な12の神々を選んで横川に勧請されたもので、その後、首楞厳院の長吏となった良正阿闍梨によって18神が追加され(1073)、法華経守護三十番神が完成したといいます。
 『真如堂縁起』に「如法経堂の番神入衆望請ありける時」とありましたが、霊木を大師に提供した苗鹿明神は、このことを縁に首楞厳院の法華経を守護する三十番神に加わったのでしょうか? 時代的には矛盾がありますが、興味深い話です。

 皆さんは大津・雄琴温泉をご存じでしょうか? 雄琴は那波加神社の祭神の末裔 勘解由次官小槻今雄宿祢によって開かれていますが、今雄宿禰は清和天皇貞観5年(863)、神社の領地に別当寺の法光寺(天台宗 現存)を建てる勅を奉じます。境内には霊泉が湧き、その泉を飲めば病もたちどころに治るということで、西近江路を往来する旅人がこぞって参詣し、大いに賑わったといいます。30番神に加えられた頃には、苗鹿神社は“人気のある”神社になっていたのではないでしょうか。
 また、慈覚大師は壬生氏の出身ですが、壬生氏の遠祖は小槻今雄宿禰。苗鹿明神(那波加神社)の祭神は、小槻氏の始祖である於知別命。慈覚大師と苗鹿明神(那波加神社)は、もともと縁があったのでしょう。なんと、栃木県壬生町には、小槻今雄を祭神とする「雄琴神社」があります。不思議なつながりです(大津・雄琴にも小槻今雄を祭神とする「雄琴神社」があります)。

 話を戻して、『真如堂縁起絵巻』は本尊の由緒を次のように続けます。(意訳)
 「他の仏像は、眉間に白毫に玉が入ってるが、ご本尊は形取っただけである。それは、慈覚大師がご本尊に白毫を入れようと、「四種三昧を勤める行者の本尊となってください」と言われると、如来は首を3度振られた。「都に下って、すべての人々をお救い下さい。とりわけ罪深いに女人などをお救い下さい」と言われると、如来は3度うなづかれた。この尊像は生身の仏さまなので、さらに彫ることなどはできない。だから、白毫の玉が入っていないのである。
 生身の弥陀であるがゆえに、大師はこの仏さまに執心され、存命中は都に降ろさず比叡山に置かれた。
 その後、戒算上人(真如堂開祖)の夢に、老僧が現れて、「私は常行堂(比叡山)より来た。都に出て、一切の生きとし生けるものを救いたい。とりわけ、女人を救済したい。急いで私を下山させなさい」と告げた。それは度々に及んだ。
 上人は、このことを比叡山の会議に諮ったところ、「そんな夢は本当とは思えない」と反対する者も多かったが、慈覚大師がこの仏像を造られたときにうなずかれたという経緯もあり、結局、戒算上人の見た夢の通り、下山していただくことになった。」

 真如堂のご本尊阿弥陀如来が、「うなづきの弥陀」と呼ばれるのは、このような言い伝えによるのです。

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