「現代に仏教問う」考
あるシンポジウム
10数年前から、病院における法話活動などを展開している超宗派の僧侶の団体<薄伽梵KYOTO>が、昨年「現代に仏教を問う」という、いささか古典的かつ使い古されたフレーズのシンポジウムを開いた。
私も会員の一人だが、そもそもそのような会が発足したのは、本誌の「現代に寺院をいかに開くか」というテーマと発想は無関係ではない。
仏教が死以後の儀礼中心になってしまい、いま現に生きている人に対し開かれていない。今に生きる人の指針としての仏教を説いていきたいという思いをバネにして、会を作り、病める人の病床に行って、さまざまな関わりを続けてきた。また、音楽会や演劇などのイベントの開催、出版、研究会・シンポなど、我々のメンバーでできることは続けてきた。超宗派というしがらみにとらわれない組織が柔軟な活動を可能にした。
京都には、我々の会の他にも、似たような趣旨を掲げて活動している僧侶がいる。今回のシンポは、そういう僧のうちの数人をシンポジストとして招き、現代に寺を開いていくことについて、その原点から話し合おうというものだった。話し合いたいと感じたのは、我々の活動が閉息的状況にあり、なんとかそれを打破したいと考えたからに他ならない。
我々の会員の一人は、冒頭こう言った。「何をやっても暖簾に腕押しという感じがしています。何をやっても砂を積んでいるような、もっと言えば、砂を噛んでるような気がして仕方がない。最初から我々のやるようなことは出口は無いんだと、そして目に見える成果というのは無いんだということをわかってやっているわけですが…。何か疲れているのではないかと思います。」
寺を開こうといろいろやってみても、どうも実感が湧いてこない、手応えがない。見えない成果に疲れてしまう。その辺りでクルクル回って、ある者は去り、頓挫し、ある者は細々でもいいから続けていきたいとこだわる。
そこまで行かず、開こうと扉のノブに手を掛けただけで終わるようなケースも多い。
例えば、現在、病院法話などに関わっている団体が全国に50程度ある。最初は意気盛んだが、たいていは数年で衰退傾向に陥る。その原因は、極論すれば僧侶の無気力化現象である。そこに関わる医療関係者やボランティアの多くは、口をそろえたように「坊さんが足を引っ張る」と言う。最初は活動に参加するが、そのうち出てこなくなる。嫌なら最初から関わらなければいいのだが、「僧侶としてやらなければいけない」というような強迫観念に近い気持ちに苛まれて最初は参加し、そのうち「忙しいから…」と出てこなくなる。「出てこなくなる」というのは、何も僧侶に限ったことではなく、多くの集団が抱える一般的な問題だが、周囲の期待を裏切っていることは間違いない。
寺 を 開 く
「寺を開く」必要ってあるんだろうか? 寺を開くか開かないかは、個々の信仰やポリシーの問題であって、開くのが是で開かないのが非であるという考え方はナンセンスかも知れない。しかし一方では、「こころの拠り所が欲しい」「もっと仏教を知りたい」という声が、私には怒濤のように聞こえる。増幅して聞いているつもりはないが…。
開くか、そんな必要はないと考えるかは、僧侶になるモチベーションによって、あるいはどういう僧を目指すかという目標設定によって分かれるだろう。
シンポでは、「来世でしか救われないのだから現世は諦めるというのが浄土系の教義」とか「禅宗では門を開いて布教・教化活動するなどナンセンスである」という発言もあった。その内容が正しいかどうかは別として、はたして教義を盾に論じるほど、その人の中で信仰は息づいているのだろうか。僧侶はよく「教義では」という言い方をするが、「私はこう信じる」と言った方がわかりやすい。また、教義は高僧の頭の中だけで構築されたものではなく、時代のニーズの中で誕生したのであって、「自覚の宗教」といわれる仏教であっても、目前で苦しんでいる人を放っておくことを前提にした教義など端からあるわけない。教義云々に終始するのは“塀の中の仏教ごっこ”と言ったら、言い過ぎだろうか?
今、僧侶の一番の関心事は何だろう? 何にだったら情熱を注げるのだろう? 改築? 車? 跡継ぎ? 墓地? 金儲け? ……それとも信仰?
私自身は、もともとさしたる信仰もなしに坊主になった「できちゃった結婚」ならぬ「なっちゃった坊主」である。そんな私が言っても説得力はないが、今は寺を開こうと試行錯誤する中でこそ充実する自分を感じる。僧としてのアイデンティティーを感じる。小難しいことはどうでもいい。そこに光が見えるから続ける。そこでこそ私の信心が深まるのを体感できるから止められない。私の一番の関心事は、自分の信仰がどこまで深まるかだ。
今年も、来年も、きっと同様のシンポジウムをしよう。
『現代教化ファイル』Vol.5 1997/SUMMER号(97/6/30)
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