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  よみがえれ神戸−心のいとなみ

(1)

 私は、救援物資搬送・慰霊・炊き出しなどの活動のため、1〜6月頃の間、10数回被災地に伺いました。
 1月23日に初めて現地入りした時は、まるで巨人に踏みつぶされたかのように粉々に壊れた家々、物の燃える臭いや壁土の臭い、粉塵だらけの埃っぽさなど、「テレビで見るより何倍もひどい」という印象を受けました。地震以後、毎日、テレビの画面に釘付けになってはいましたが、それは圧倒されるほどの現地の惨状にはまるで及ばないものでした。
 1月26日に兵庫区の空き地で慰霊法要を勤め、その前で初めての炊き出しをした時、参列した人の口からは誰からとなく、「あったかいで。みんなに知らせようや。年寄りのところから鍋を借りてきて、持って行ってやればいい。電気の工事の人も呼んでやったらどうや」というような言葉が聞かれ、しばらくすると、垂れ下がった電線をくぐり、瓦礫を踏み越えて、徐々に人が集まって来られました。
 「さぁ、どうぞ」と器を差し出すと、「先にお参りさせていただきます」という人も多く、最後に「ごめん、もうこれだけしかないにゃ」と鍋の底を見せると、「じゃぁ、少しずつでも分けよう」と言ってくださり、ほっとしたということもありました。
 老若男女を問わず、気持ちが通い合い、焚き火を囲んで自然と話の輪ができていました。なんだか、諦めきって吹っ切れたような明るさもありました。
 しかし、そういう雰囲気もあまり長続きはしませんでした。炊き出しなどの回数を重ねた3月頃からでしょうか、「あいつらにやる必要はないよ! 本当にがめついんだから…。家は残っているんだし、もうガスや水道もきてるんだから、なんぼでも自分で作れるやないか!」というような言葉を聞くようになりました。炊き出しの食事を配ろうとし始めた時、避難所にいる人たちが、かろうじて壊れなかった家に住んでいて、食事をもらいに来た人たちに向かって言うのでした。
 「災害の体験を共有し、それをくぐり抜けている連帯感が被災者の間に強い時期を<ハネムーン期>といい、それが過ぎると被災者の忍耐が限界に達しトラブルが続出する<幻滅期>がやってくる」。地域差などもあるでしょうが、それが教科書通りやってきたのです。
 「あいつらにやる必要はないよ!」。比較的被害が軽く、家は壊れずに残った人と、何もかも失い、しかも先に希望が持てない人との格差がそういうことを言わせるのでしょう。
 残念ながら、たまに行くだけの我々には、そういう人々の気持ちにまで踏み込むことはできませんでした。
 ある寺の門前に、こんな文句が掲示してありました。
  「貧しい時は肩を寄せ合い 豊かになったらケンケンガクガク」
 復興が進む中で、人の心はどうなっていくのでしょう。

(2)

 阪神大震災では多くの寺院も被害を受け、空間を多く、壁を少なくした寺の建物がいかに地震に弱いかを見せつけられた思いがします。
 そんな中、今回、どれだけの救援・支援活動を仏教界がなしえたかを総括をすることが、今後の寺院の行方を考えていく上でも不可欠ではないかと思っています。
 今回、多くの青年僧が現地に駆けつけ、救援物資を運んだり、炊き出しなどの活動を続けました。それは、おそらく、日本の仏教の歴史の中でも前例のないほど大規模な活動だったのではないかと思います。
 しかし、宗派レベルの救援の多くは被災寺院の救済であり、寺院復興の支援でした。倒壊した町並みの真っ直中に寺だけ再建して何の意味があるのか、私にははなはだ疑問です。地域にとって、檀信徒にとって、本当に不可欠な寺であれば、時間はかかっても、自ずから、必ず復興するものだと思います。
 また、テント村などのすぐ傍らに、鉄筋コンクリートづくりの立派な本堂が、周りの倒壊家屋を後目に、威容さ誇示しているかのように突っ立っていて、しかも入り口の鉄の門扉は「誰一人も入れない」とばかりに堅く閉ざされている光景に出くわしました。
 寺の再建にばかり重点を置く宗派、堅く門を閉ざした寺院、それは仏教界の姿勢の一端を如実に物語っているようで、心寂しく、末恐ろしい思いがしてなりません。

◇    ◇    ◇

 被災地は復興一色。「鉄筋むき出しになった高架を、どうやってこんなに早く修復できたのだろう」と驚きます。
 私どもは、技術が優れていれば自然をも黙らせることができるという価値観を持って、ここ数十年過ごしてきたように思います。そして、復興もまたそういう価値観の基に進められている気がします。それも素晴らしいことではあるでしょう。
 思い返せば、今回多くの避難所ができた中に、スムーズに運営された所と諍いが絶えなかった所がありました。その差は何でできたのでしょう。結局、人と人との気持ちの通い合いの濃度の差ではなかったでしょうか。
 人間社会を根底から支えているのは、山を削って海を埋めるような技術ではなく、消費仕切れないほどの物質でもなく、人と人との「縁」や「和」ではないかということをあらためて痛感させられたような気がします。
 そしてさらに、技術で自然を黙らようというのではなく、宇宙も、地球も、動植物も、すべてがつながり合って生きているという壮大な「縁」を念頭に置いて、その中の一つの要素として分をわきまえて生きていくことが必要ではないかと考えさせられます。
 いずれ避難所も消え、何年か経って仮設住宅もなくなるでしょう。しかし、建物や施設を再建するのと併せて、今までにもましてあつい「縁」で人や自然と結んでいこうとすることが、本当の意味での復興ではないでしょうか。
 そしてそれは、戦後50年を迎えた我々が、未来に向かっての生きていく上においても大切な生き方ではないかと思います。

京都新聞掲載(95/8/29.30)
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