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 こころ − 友への手紙

寒中お見舞い申し上げます。
 いただいた喪中のおはがきを拝見するにつけ、あなたの心中いかばかりかとお察し申し上げます。
 あの日から半年余。ご子息にしてあげられなかったことなどばかりが思い出され、ご自分を責め悔いる毎日をお過ごしではないかと心配しております。
 私は、必死に悲しみをこらえていらっしゃるあなたを見ていて、ふとこんな話を思い出しました。
 「かけがえのない一人息子に先立たれた悲しみのあまり、死語数日たった遺骸を抱いて、気がふれたかのようにさ迷い歩いている母親がいた。彼女に出会った釈尊は、『芥子(けし)の実をもらってきたら、私が法力であなたの子供を生きき返らせてあげよう。ただし、その芥子の実は、今まで一度も葬式を出したことのない家からもらってきなさい』とおっしゃった。母親は力尽きるまで家々を回ったが、どうしても手にいれることが出来ず、落胆して帰ってきた。釈尊は、彼女に生者必滅の理(ことわり)を教え、これからの人生をしっかり生きるよう諭された」
 これは単に自明のことをいうための説話ではないと思います。
 母親は釈尊の言葉に一縷(る)の望みを託し、「お宅では今までに一度もお葬式を出されたことがありませんか?」などと、クタクタになるまで家々を訪ね歩いたことでしょう。そして、「実はうちは昨年主人を亡くしました」などという会話をしながら、二人して涙を流したこともあったでしょう。あるいは、そんな悲しみを超えて、充実した日々を送っている人も見たでしょう。
 今まで悲しみに打ちひしがれて家に閉じこもりがちだった母親が、世間に出、他人との気持ちの交流を重ねることによって、自らを顧み、悲しみを癒していった。そういうプロセスを通じて、今まで目をそらしていた息子の死を受け入れていった。そんなことも教えているような気がします。
 私たちは辛いこと悲しいことなど、受け入れにくいことなどがあると、とかくその気持ちから目をそらそうとしたり、ごまかしたりしがちです。
 息子の死という事実を受け入れられなかった先ほどの母親も、釈尊の方便によって動き、自分の目で現実を見ていったのです。
 愛する気持ちが深いければ深いほど、それを失った悲しみは大きいでしょう。ご子息が亡くなられたことを認めることは、とても辛く、悲しいことでしょう。でも、しっかりと現実を見つめてください。悲しみのあまり見えなかったことがきっとたくさん見えてくると思います。あなたはそれがお出来になると確信して、辛いことを申し上げました。
 「いま、ここに生きる。ありのままの自分を受け入れよ。自分に正直であれ。環境をじかに見つめ、思惑を持たず、かかわりを持て。変化や成長に対して心を大きく開け」 F・Sパールズという人の言葉です。
 ご自愛ください。

合 掌  

京都新聞『こころ−友への手紙』掲載(90)
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