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 木食正禅上人と阿弥陀如来露仏 − 境内霊譚奇談集\ 


 本堂の右横に、大きな金仏さんが鎮座されています。その台座の蓮弁の石には、「木食正禅もくじきしょうぜん造立」と刻まれています。
 「木食」とは米穀などの五穀を断ち、木の実を生のままで食べる修行をすることで、そのような修行をする僧を「木食上人」と呼びます。
 木食正禅養阿ようあ上人(1687〜1763)は、江戸時代中期の木食上人の一人。出家する前の名前は村上茂八郎といい、丹波の国桑田郡保津村の村上庄右衛門の子。先祖は遠江(現静岡県西部)の出身で、家康に仕えた武士でしたが、父親の代に本家が断絶し、跡目相続を願い出たものの、その許可を得る前に亡くなったといいます。茂八郎は京の下屋敷七条大宮で生まれ、父親が亡くなったのは8才の時でした。
 茂八郎は武士の道をあきらめ、一時期は京都銀座の手代をつとめましたが、23才で能勢妙見にお参りした時、泉涌寺雲龍院の恵雄上人に出会って徒弟になることを許され、出家得度をして「朋厚坊正禅」と改名します。当時、雲龍院は天台・真言・禅・律の四宗兼学の道場として栄えていました。
 正徳元年(1711)、恵雄上人の計らいで高野山の木食上人恵昌について木食行を修めた正禅は、高野山を降りて甲賀郡安養寺(現嶺南寺)で加行をし、再び高野山で木食大戒を修めて大阿闍梨となります。その後、信濃の善光寺、美濃の国一円を回り、病人や民衆の救援に奔走しました。
 四宗(天台、真言、禅宗、浄土)兼学した正禅上人は、大衆の教化をするには念仏がふさわしいと考え、京都に戻って七条大宮に庵を設けて、衣の裾を短く掲げ、素足でわらじ姿で、笠をかぶって胸には鉦をぶら下げ、「南無阿弥陀仏」を唱えて街を念仏行脚するなど念仏聖の行を実践していきます。

日ノ岡の名号碑
 厳冬寒夜には、洛中・洛外にあった6墓(南無地蔵、大谷、西ノ土手、粟田口、最勝河原、元三昧)と、5三昧(狐塚、阿弥陀ケ峰、中山、千本、七条金光寺)の無縁墓地や刑場近くにある墓地など、一般の僧侶が敬遠した重罪無縁、不遇の人々の亡霊を回向するための寒夜墓参りを3年間続け、享保2年(1717)には、大谷を除く10ヶ所に供養のための名号碑を建立。それらは今も4ヶ所に残っているそうです。
 皆さんは、蹴上から九条山を越えて日ノ岡に出た左手に、「南無阿弥陀佛」と刻まれた4メートルほどもある大きな石碑があるのをご覧になったことはありませんか?
 九条山と日ノ岡の間には、京都で一番大きな粟田口の刑場がありました。正禅上人は、この場所には特大の名号碑を建立しました。石碑は明治の廃仏毀釈によって切断され、道路などに流用された後、現在は日ノ岡に移され、上半分が補修されて立っています。もともとは、「南無阿弥陀佛木食正禅 粟田口寒念佛墓廻回向 享保二丁酉七月十五日」と彫られていたようです。今、背面には「京津国道工事ニ於ケル犠牲者ノ為ニ 昭和八年三月」と彫ってありますが、これはこの名号碑を流用したときのものでしょう。
 翌年、正禅上人は一乗寺の狸谷の石の洞に籠もりますが、正禅を慕う民衆が山に登ってきて病気平癒の加持祈祷を受けたりするようになっていきます。
 狸谷を降りた上人は、真如堂の銅製の阿弥陀如来座像の造立にかかります。その勧進のため、3人の弟子とともに張子でつくった阿弥陀如来の首模型を担いで廻ったといい、公家たちも銅鏡などを寄進しています。その甲斐あって、1年ほどで勧進は成就します。

阿弥陀仏の背面
 阿弥陀如来は正禅上人自ら模範を作り、享保4年(1719)8月、六条大宮あたりの鋳物師庄右衛門・喜兵衛に鋳造させています。五条坂にある安祥院(通称東山木食寺)の縁起には、その翌年5月、鋳上がった像を大きな地車にのせ、大勢の人が長い綱を付けて真如堂まで曳いてきた様子が描かれています。
 台座正面の石造の蓮弁には「木食正禅造立」と彫られていて、像の背面には「寒夜三十日念佛修行例年墓回り成就廻向佛併書寫大乗妙典血經一部御内服納之 木食正禅造立 享保四巳亥歳八月十五日 弟子 蓮入 朋真 願真」と記されています。
 なぜ、正禅上人は真如堂に銅製阿弥陀如来座像を建立されたのでしょう? 当時の真如堂は、東山天皇の勅により、寺町今出川から現在の地に遷る大事業の最中で、真如堂28世尊通の勧進によって、本堂が享保2年(1717)に17年間かけて建立されたばかりでした。その後も、伽藍を整えるために、諸堂の建築が続いています。
 正禅上人は、念仏信仰の一大拠点であり、再建の‘勢い’に溢れていた真如堂を、阿弥陀如来の安置場所として選ばれたのかも知れません。
 真如堂は、京都六阿弥陀仏巡拝の第1番ですが、これを始めたのも正禅上人です。
 六阿弥陀巡りは、1番 真如堂、2番 永観堂、3番 清水寺、4番 安祥院、5番 安養寺、6番 誓願寺で、定められた功徳日参りを3年3ヶ月続けてすれば、無病息災、家運隆盛、祈願成就がかなうと伝えられています。
 安祥院は、享保10年(1725)、正禅上人によって再建された寺です。元々は平安時代に乙訓郡大藪村に創建された仁王護国院という寺でしたが、長い間に退廃していたのを、木食正禅上人が寄進を受けて移築再興しました。安祥院には、正禅上人の作の阿弥陀如来像や、毎月、日を限ってお参りすると願いが適えられるという「日限り地蔵」が安置されています。

『拾遺都名所図会』(1787)に描かれた木食寺と日ノ岡峠 (着彩苦沙彌)
 この後、正禅上人は日ノ岡峠道の改修など事業に取りかかります。
 日ノ岡峠は、いつの時代も京都に入る交通の要所でした。今は峠という感じがしないほど掘り下げられていますが、『日本紀略』の「天歴三年(949)条」には「粟田山路は俄に頽砂するを以て、己に損害をなす。車馬の往還、甚煩多し」と、すでにその難所ぶりと車馬の多さを伝えています。また、峠道の掘り下げや修復工事は、古くから頻繁に行われています。
 正禅上人当時、日ノ岡の峠道は車馬が通行する道と人が通行する道とに分かれ、車馬の道は深くえぐられて、人が通行する道とは所によっては2メートル近い段差が生じ、雨が降るとそこに水が溜まって車馬を悩ませていました。上人はこれを改善するために、峠の頂部分を60間に渡って掘り下げ、その土砂を麓に敷いて緩やかな勾配としました。そして、道の表面に「車石」を敷設し、車馬によってえぐられないようにしました。
 3年に渡る工事は元文3年(1738)秋に完成し、峠の交通は随分改善されました。上人の偉業を称えた碑が、日ノ岡峠上の花鳥橋西、人家裏の畑に今も建っています。

亀の口から水が流れ落ち、その奥には不動尊がまつられています
 正禅上人は、峠の途中に、京都での最初の庵と同じ名前の「梅香庵(木食寺)」を建て、峠道の管理をすると共に、掘り当てた井戸の水を亀の口より落として旅人や牛馬などの乾きを潤したり、石の竈を設けて湯茶の接待をしながら暮らしました。日ノ岡の旧道にあるこの亀の口からは、現在も清水が流れ落ちています。
 その石の竈には、「南無阿弥陀佛 此の攝待量救水をもって貴賤の往来にそなへ また牛馬等も喉口を潤し 往来無障ため通行有之やうに相企つ 是梅香院守真省方尼公の志願につき 猶又永代退転無之様に量救水に加修覆奉供養者也 木食養阿 宝暦二壬申年(1752)十一月二十九日」と記されていたといいます(竈を見つけることができませんでした)。
 正禅上人は、この他にも渋谷街道の補修(1747頃)や松明殿稲荷神社に街の人のための井戸を造ったりと(1752)、精力的に社会事業に取り組んでいます。
 なお、正禅上人は元文6年(1741)に「法橋」の位を授かり、それを機に名を「養阿」と改めています。
 晩年については詳しくわかりませんが、宝暦13年(1763)、梅香庵で入寂し、五条坂の安祥寺に埋葬されました。
こうして調べてみると、木食正禅養阿上人は念仏信仰に生き、それを社会事業として具現化した‘市の聖’に他なりません。活躍の場が主に京都に限られていたためか、今では名前を知る人もほとんどおられませんが、もっともっと評価されてしかるべき方だと思います。
 境内の大きな金仏さんの前で、そんな木食正禅養阿上人の願いをお感じになってみてください。

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