真如堂開祖 戒算上人 消息 − 境内霊譚奇談集U
真如堂開祖の戒算上人について、『本朝高僧伝』(1702 卍元師蠻著)は、次のように記しています。
また、『本朝高僧伝』に「長い間比叡山で天台の教えを学び」とあります、年齢から考えると、決して長い間、比叡山で学ばれたとは考えられません。 何かとっかかりはないのかなぁ…。そう、「算」という字。坊さんは弟子の名前をつける時、代々受け継いできた法脈の字をもらうことが多々あります。ボクなら「純」という字。先代が「純孝」でした。 『縁起』には、「とりわけ戒を守ったゆえに戒算の号を得た」と記されています。「戒」の字は、後から付けられたのかも知れませんが、「算」は受け継いできた字かも知れません。 当時の延暦寺はまさに大荒れの時代でした。 延暦寺の再興責任者 天台座主は、第4代円仁、第5代円珍以後、6・7・8・10・11代と円珍派が続きますが、12〜17代は円仁派に逆転します。 18代座主に円仁派の良源(元三大師)が就任(966〜984在任)し、荒廃していた延暦寺の復興にあたりますが、その陰で派閥化が一層進みます。19代座主に良源の弟子尋禅が、それまでの修学と年功による席次決定のルールを破って就任(985)、円珍派の反発のためか5年で勅許を得ないまま辞任。20代座主に円珍派の余慶が就任(989)しますが、就任の勅使を円仁派が妨害し、その後もことごとく執務を妨害したため、わずか3ヶ月で辞任。 円仁派の21代陽生、直弟子の22代暹賀が就任(990)するにいたって、円珍派の勝算・成算が赤山禅院を襲って円仁の遺物を破壊。これに怒った円仁派は円珍派の坊舎を襲い、40余宇を破壊し、門徒千余人を追放。円珍派門徒は円珍の影像を負って、三井寺に入り、確実に決定的に分裂。円仁派を山門派(延暦寺)、円珍派を寺門派(円城寺=三井寺)と呼ぶのはここに由来します。朝廷や摂関家の思惑も相まって、両派はこの後も長く激突を続けます。 良源は、比叡山の財政確保のために荘園経営にも積極的でした。また、そのために武力も必要で、下級僧侶を僧兵として再編成したともいいます。荘園といえば、弟子の尋禅(19代座主)は藤原師輔の子で、師輔死後、各国の11カ所の荘園が尋禅に財産分与されています。尋禅の資産は師である源信を通じて比叡山の費に充てられ、それは源信の発言力を増す基礎にもなったでしょう。 少々乱暴な推理ながら、早速、同時代頃の「算」の付く天台系の僧侶を探しました。 「算」の付く天台系の僧は、同時代の円仁・円珍両派に存在します。 まず、円仁派。門下3000人といわれる良源の弟子の中、源信(恵心僧都)・覚運・尋禅・覚超は四哲と言われます。その覚運の弟子に、長算(991-1057)、広算(-1080)の名が見られます。 覚運(943?-1007)は、藤原南家(真作家)の出身で、比叡山の大きな流れ檀那流の祖。念仏を宗とし、紫式部に仏教を教えたともされています。長算は藤原北家の出身で良源をバックアップした藤原師輔の曾孫、広算も藤原北家(日野家系)の出身です。 他にも、円仁派には正算(余慶を排斥後、981年法性寺座主)という名も見られます。 一方、円珍派にも房算、前述した余慶の弟子勝算・成算や穆算、済算という名が見られます。
はたして、戒算はどの流れに属していたのでしょう。 真如堂本尊阿弥陀如来は円仁の自作であると伝えられること(後述)、円珍の教義は密教を主体としたもので、真如堂の浄土信仰とは流れが違うことなどから考えると、戒算は円仁派の流れを汲んでいると考えるのが自然でしょう。 真如堂開創の願主 藤原詮子は円融天皇崩御(991)の後、出家して、東三条院となられますが、その時の戒師は良源の弟子 多武峰の増賀という説もあります。また、亡くなる6日前に髪を落とされますが、その戒師は覚運(前述)とされています。 逆に、弟の道長は円珍派に対する信任が篤かったという史実もあります。また、真如堂本尊阿弥陀如来は、円仁自作とされていますが、作風などから見て、康尚(定朝の父)前期の作であろうという学説があります。康尚は道長に重用されていること考え合わせると、円珍派説も捨て切れませんが…。 永観2年(984)、詮子・道長の父 兼家は、良源に祈祷を依頼。詮子や詮子の子すなわち円融天皇の皇子も参列しています。その翌年、良源は遷化、後を継いで座主になった尋禅は師輔の子で、兼家とは兄弟。詮子にとっては叔父です。永観2年(984)、比叡山の阿弥陀如来が詮子の離宮に遷座され、真如堂の歴史が始まります。やはり、円仁派と考えるのが自然でしょう。 戒算上人の位牌には、「台嶺除饉男戒算」と彫られています。比叡山の比丘戒算ということです。普通、僧侶には律師・僧都・僧正などという僧階が付きますが、位牌にはついていません。 当時、僧侶の任官や行政は国が行っていて、その記録『僧綱補任』などが残されていますが、「戒算」やそれらしき名は出てきません。当時の僧の2/3近くは国の許可を受けていない「私度僧」であったとも言われます。 さて、推理しているボク自身も頭の中がすっかりもつれていますが、ボクの大胆かつごく私的な推測では、戒算上人は詮子に近い藤原北家の出身、円仁−良源−覚運−長算の法脈の中にある人物で、国の僧官システムにのっていない僧侶ではなかったのではないか…まだまだ検証作業を続けてみないとわかりませんが、それも千年時に拒まれてしまいます。 はっきりわからないのが、またいいのかも知れません。 −絵巻画像は、中央公論社刊『清水寺縁起 真如堂縁起』より−
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