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 新長谷寺縁起 − 境内霊譚奇談集X 


ひっそりたたずむ新長谷寺
 総門から入って、本堂に通じる正面の石段を登らずに、左の坂を上がった途中に「新長谷寺」があります。
 私が子どもの頃には、ご詠歌を唱える老婦人たちがこのお堂に集まって賑やかでしたが、今はその影もなく、参る人もまばらで、忘れられたようにひっそりたたずんでいます。

 全国に、「長谷寺」「新長谷寺」と名のつくお寺は110カ寺もあまりあるといわれていますが、新長谷寺は、明治の神仏分離の時、吉田山からこの地に移築されたものです。

 黒川道祐(1622?〜1691)は、延宝9年(1681)、『東西歴覧記』にこの寺のことを記しています。時代からいって、当然、移築される前に書かれたものです。

 木瓜大明神(吉田神社の今宮社)の前を過ぎ、新長谷寺に行った。
 住持の僧 玄智は妙心寺海福院の出だという。2〜3代は済家(空海の高弟真済の末裔。紀氏)系統の僧が守っていたという。昔は法相宗に属していて、京都の法相宗内では、南都の興福寺に準じた寺だったらしい。
 住職が縁起を出して見せてくれた。それにはこう書いてあった。
 藤原魚名の曽孫に越前守高房(795-852)という人がいた。太宰府に赴任する時、淀川の畔の穂積の橋のところで、漁人が亀を捕らえているのを見かけた。高房は着物と交換にその亀を放してもらった。大きな亀はしばらく浮かんで、高房の船を見送っていた。

新長谷寺ご本尊
 思いがけないことに、高房の幼児を乳母が謝って海に落としてしまった。悲嘆にくれているところに、亀が助けてやってきて、甲にその子を載せて浮き上がった。恩に報いたのである。
 この時、高房は長谷観音を信仰していたが、この出来事から自らも観音像を造りたいと思って、その原木となる香木を求めるべく、遣唐使の太神御井に、中国で香木を入手して欲しいと頼んだ。しかし、中国の人が手放すのを嫌がったために持ち帰れなかった。そこで、秘かに木の元ところに寸尺(銘?)を書いて、御井は帰国した。
 その後、高房の子中納言山蔭(824-888)卿は成長し、中納言に任命されて播磨守となり、亀のために寺を建て、「亀井寺」と称して、観音を安置した。
 また、長谷寺に準じたお堂を京都にも建て、仏師を探して、長谷寺の観音像を模して造らせたいと考えた。(その頃、明石浦に銘の入った香木が漂着した)。そこに(観音の)化身が来て、仏像を造るという。初めはみな疑ったが、本当の観音だということを証明するために、まず観音の小像を造って見せた。これを山蔭卿の家領摂州島上郡総持寺に安置し、もう一体を家領吉田に移し、新長谷寺と称した。これがこの寺である。陽成院(877-884)の時のことである。その時は吉田村の外、田中にあった。(中略)
 新長谷寺は、一條院の母、東三條女院がこの寺を再興した。慧心院を導師とした。東三條女院は大入道兼家公の女御で、圓融院の母である。総持寺の縁起もこの寺にある。

 文中に出てきた摂州(今の大阪府茨木市)の総持寺に残されている縁起も、ほとんど同じ内容ですが、遣唐使以降の記述が少し違います(詳しい)。

亀に助けられる山蔭 『総持寺縁起絵巻』常称寺蔵
「その後、高房卿は亡くなり山蔭卿が太宰府に赴任しました(注 山蔭が実際に赴任したのは太宰府ではなく播磨)。
 ある日浜辺で、中国より流れ着いた香木を発見。驚きと歓喜に包まれ、父高房卿の遺志継続を決心します。
 任期を終え都に帰った山蔭卿は、仏師を探すため奈良の長谷寺に籠もり祈願を重ねました。
 ある朝、観音様のお告げにより童子の姿をした仏師に巡り会いました。山蔭卿は都の屋敷に来るよう童子に告げて、長谷寺を後にしました。山蔭卿の屋敷を尋ねた童子は、いぶかる家来達の前で、見事な十一面観音を刻み一同を驚嘆させました。
 その後、彼の香木を与えられた童子は「仏様を彫刻する千日の間は誰もこの仏舎に入らぬ事。また、山蔭卿自身で私の食事を作ること」と申しました。
 造仏を初めてより千日目の早朝、「長谷の観音様はどちらに」と声が聞こえると仏舎より「行基菩薩よ、今帰るところよ」との答えがあり童子は空に飛び立ちました。
 山蔭卿が急いで仏舎に駆けつけると、千日間の食事を御供えされた千手観音様が亀の座に立った御姿で、お奉りされていました。」

 その他にも、この話は『和州長谷寺観音験記』『今昔物語』『平家物語』などにも取り上げられていますが、少しずつ内容が変わっています。

 貞観年間(859-877)、山蔭卿は平安京の東、神楽岡の西麓である吉田の地に、大和の春日神社の祭神四座(武甕槌命、斎主神、天児屋根命、比売神)を勧請し、山蔭一門の氏神として吉田神社を創建します。吉田神社は山蔭家の鎮守社でしたが、東三條女院が一条天皇の外祖母となるに至って藤原氏全体の社となり、平城京の春日社、長岡京の大原野社と並び列せられて、朝廷の公的祭祀がとり行われるようになりました。
 東三條女院は、この頃、吉田の北、田中にあった新長谷寺建立を吉田に再興されたのでしょう。
 申し上げるまでもなく、東三條女院は真如堂開創の願主です。女院によって再興された新長谷寺が、神仏分離の時に吉田山から女院ゆかりの真如堂に移築されたわけです。

 また、『東西歴覧記』によると、山蔭卿は、まず播磨に「亀井寺」を建て、その後、摂津の総持寺と吉田村の新長谷寺を建てた、つまり総持寺と新長谷寺は兄弟寺のような関係になります。

 岐阜県関市に「吉田山きちでんざん 新長谷寺しんちょうこくじ」というお寺があります。鎌倉時代の創建で、「吉田観音」とも呼ばれているそうですが、この山号と寺名、何か関連がありそうな気がしますね。

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