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生命の質と「分別」

 ホスピスで死を迎えた友人をもつ人から、こんな話を開いたことがある。
 そのホスピスヘは私も昨年行ったことがあり、そこで見せられた入院患者−もちろん末期ガン患者である−の溢れんばかりの笑顔の写真にずっと私はこだわり続けていた。
 その人の話はこうだった。
 「ホスピスで亡くなった知人の家を訪問しましたが、そこで聞かせていただいたことに私はビックリしました。私がホスビスヘ見舞いに行った時、その知人は溢れんばかりの笑顔で私を迎えてくれました。私も、その顔を見て、“ホスピスというところはなんとすばらしい!”と思いました。ところが初七日の時、その奥さんがこっそり私に、『とても心残りなことがあります』と言われるのです。それは、『主人に“痛い!痛い!”と言いながら死なせてやりたかった。本人は“看護婦さんやお医者さんが一所懸命やってくださっているのにそんなこと言えない。笑顔でいないといけないんだ”と、見ていて辛いほと我慢して亡くなりました』というのです」
 私は、この話を聞いて、ずっと心にくすぶり続けていた正体不明のものを見た思いがした。
 「入院直後はこんな顔でした。しばらくしてこんな笑顔になりました」と、化粧品の使用前、使用後のような写真を見せながら、笑顔で死んでいく患者を自慢するかのごときホスピス担当医の施設説明に、その時私は「笑顔でないと死んだらあかんのか! 苦しいと言うたらダメなのか!」と噛み付きたい心境だった。
 <死にたいように死ねるところがホスビスではないのか>という素朴な疑問が今も私の胸に横たわっている。
 そんなホスピスを訪問して良かったと思ったこともあった。それは、チャプレン(病 院付き牧師)やホスピス病棟婦長と話ができたことだった。
 「医療に従事していない私は、このホスピスでは常に受け身です。普段は影武者的存在で、必要とあらば踏み込む、そういう存在でいいと思っています。あくまで患者主体であって、求めがあれば、それに応じて患者の内なるものを聞く。私はあくまでキリスト教ですが、患者は自分の信じるものでいいと思います」というチャプレンの言葉には、笑顔の死をアピールする担当医と異質なものを感じた。
 病棟ですれ違った婦長は、立ち話の中で「ここの看護婦の平均在職数は約2年です。この病院を辞めた後、すぐ次の病院に行く人はいません。何年か経って、別の病院で看護婦をしているということを聞くことがある程度です」と語った。
 <燃えつき症候群> これもホスピスの一つの現状なのだ。いかに美しく語ろうとも(担当医の説明では、「ここに勤めた看護婦さんは、決して辞めるといわない」と聞かされていたが・‥)。 笑顔で死なせてあげたいとする看護婦の思い入れが、治らない患者、必ず死んでいく患者を目の前にして、真の充足感を得られないまま擦り切れていくのだろう。多情な思い入れがあるからこそ。
 ホスピス。それはいくら快適な空間を提供しようとせいぜい疑似家庭である。完璧に患者やその家族が心から気を許せる場所ではない。大事なことは、死にたいように死ねる場所ということではないだろうか。医療者や看護者が、一定の価値観、例えば<親しい人と心ゆくまで別れをすることが出来て、悩みごとが少ないような死、それが望ましい死である>というようなことを至上のものとし、それに基づいて日夜業務を遂行し、患者やその家族に接していたなら、医者がその心の奥底に患者の死に様を採点するような気持ちを持っていたなら、「規格外」の患者たちは快適な生活を送ることができないだろう。死にたいように死ぬことを邪魔しないこと、これが最高のケアではないか。とても大変なことだけと・・・。
 また、そこにおける宗教家の役割は、その患者や家族に「自分がとのように死にたいか」「とのように看取りたいか」と、考えられる場所(環境)を提供することであり、それを宗教的にサポートしていくことではないか。患者がクリスチャンだったら、「たとえ私が神を憎んでも、神は私をお見捨てにならない」という確信をもてるように支えることかも知れない。

 私は、京都仏教青年会会員として、3年前から病院での法話・病床訪問活動などに携わってきた。
 長期入院して、日々の生きがいもなく、ただ死を待つだけというように見える人もいれば、行事がある度に参加し、好奇心一杯、色気たっぷりという患者もいる。「生命の質」「クオリティー・オブ・ライフ」ということが最近よく言われているが、充実した生を生き抜くのが質の高い「生」であるとするなら、前者はそれが低く、後者は高いということになるのだろう。私も、生き生きと生きている患者さんを見れは「歳をとってもああいうふうに生きたいなあ」と思う。
 しかし、他人の「生命の質」の高い低いを、誰が決めることが出来るのだろう。医療と宗教のブームの中、あるいは高齢化社会を迎え、仏教者が盛んにその「質」を高めることに関与しようとしている。私は、これらの仏教者が「生命の質」という聞こえの良い言葉に踊らされているのではないかという気がしてならない。
 また、日本医師会が脳死を人間の死とする見解を出したことにより、脳死段階での臓器移植実施に拍車がかかっているが、これも脳死患者は人間としての「生命の質」が低い、あるいは皆無であると見た結果である。脳死が不可逆的なものであり、生物学的にそれを個体死と見ることが正しいかどうか、詳しくは知らない。
 しかし、いずれにせよ、「生命の質」という名目で、人間を価値付け、あたかもQCサークルのような形で医師が「品質管理」に関わることが許されるのか?
 今語られている「生命の質」は、医師から見たものであって、本質的にその本人が判断したものではもちろんない。「安らかな死」についても然り。
 「生命の質」「安らかな死」は、あくまでも当事者の問題なのではなかろうか? 医師や僧侶がそんなことの判定にかかわるべきではないのではないか。「社会」が判断するべきことでもなかろう。

 老いは老い以上の何物でもない。死は死以上の何物でもない。生も然り。それを他人が分別して、大きく見たり、小さく見たり、引き伸ばしたり締めたり・・・。

(1988)

分  別  一般に、善悪や条理をわきまえ、世間の常識に基づいた判断をすると「分別」があるといわれる。仏教では、分別は自己中心的な固執や苦悩を産むものとされ、「無分別智(分別を超えた智慧)」をよしとする。
QCサークル  第一線の職場で働く人々が継続的に製品・サービス・仕事などの質の管理・改善を行うグループ。


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