▲目次

 県井観音 − 境内霊譚奇談集Z 


 三重塔の南側に最近改修されたお堂があります。あがた(縣)観音堂です。
 ご本尊の県井観音様は盗難を避けるために、今は真如山荘の仏間におまつりされていますので、お堂を覗かれてもお目にかかれません。

 県井は、今も京都御苑の宮内庁京都事務所の西側にある井戸で、染井、祐井と共に、御所三名水の一つに数えられています。
 昔、この井戸のそばには「県宮」という社があって、地方官吏に任命されたいと願う人々がこの井戸で身を清めてから社に祈願し、宮中に参内したといわれています。
 「蛙鳴く県の井戸に春暮れて散りやしぬらむ山吹の花(後鳥羽院)」などと蛙や山吹と詠まれることが多く、『枕草子』にも、「家は、近衞御門、二條一條も好し。染殿の宮、清和院、菅原の院、冷泉院、朱雀院、とうゐん、小野宮、紅梅、県井戸、東三條、小六條、小一條(第十九段)」と賞賛されています。菅原道真公や明治天皇の皇后が産湯に使ったとも伝えられています。


御所・県井
 順徳天皇の御代、承久年中(1219〜1222)、洛中洛外に悪疫が流行した際、この病にかかった橘公平が「県井」の水を飲んで観音さまを念じたら、10日程して疫病が治ったといいます。10日目の夜、井戸の水を汲みに行くと井戸の中から黄金の如意輪観音が現れ、「この井戸の水を汲む者、必ず病が癒えるであろう」とお告げになったといいます(県井は『大和物語』で、病気を治す不思議な水と記されています)。
 この話を聞いた天皇はこの像を宮中にまつられましたが、一条東洞院丸にお堂を建て、「法伝寺」と名付けられました。。その後度々兵火に罹って灰燼と帰してしまいましたが、元禄6年(1693)に真如堂尊通大僧正によって、同境内に移されました。
 法伝寺は最初三重塔近くにありましたが、現在は総門前に移転し、本尊は今の県井観音堂にまつられました。

 『大和物語』に橘公平は、「大膳の大夫公平のむすめども、縣の井戸といふ所に住みけり(111段)」などと登場し、3人の女子があって、長女は、醍醐天皇中宮穏子に「少将御」として仕え、三女は源信明らと交渉をもったと記されています。
 『後撰和歌集』には、「 都人きてもをらなむ蛙なくあがたのゐどの山ぶきのはな 橘公平女」という、蛙と山吹がセットになった歌が載っています。
 県井のあったところは、一条北、東洞院西角で、幕末まで五摂家の一つである一条家の邸宅でしたが、東京遷都と共に京都御所の中に取り込まれたといいます。


鋳造の如意輪観音 県井観音
 長く枯れたままになっていた県井でしたが、10年ほど前に、もとの古い県井から10メートルほど南に深さ80メートルの新しい井戸が掘られ、ポンプで地下水が汲み上げられています。飲まないようにとの保健所の指導があり、せっかくの名水も公式には飲んではいけないことになっています。

 でも、一条東洞院にあった法伝寺が、どうして真如堂にという謎が出てきます。
 元禄6年当時、寺町今出川下るにあった真如堂に、旧地(現在の場所)に復してよいという東山天皇の勅が出ています。寺町今出川に移る前の真如堂は、室町勘解由小路や一条西洞院にありました。旧地に戻ることができたのは、真如堂中興と言われる尊通大僧正の力が大だったのでしょうが、その関係で、法伝寺と県井観音も真如堂に移ったのでしょうか。話が尻切れトンボですが、これ以上わかりません。

 県井観音の縁起には、「この尊像を拝むものは諸々の災難をのがれ、ことに女人の難産を救うご誓願がある」と記してあります。
 そのうち県井さんも、もとのご自分のお堂に戻られるでしょう。その折はご参拝ください。

▲目次