飛騨・桜と水芭蕉の旅へ 

 何となく夕べのお酒が残る中、コンビニでサンドウィッチを買って、駅前レンタへ。
 乗車券や特急券、レンタカー代も安くなるというJRのレール&レンタカーを利用して予約してあったレンタカーを借りに行きました。
 車は、マツダのデミオ、カーナビ付き。
 窓口の人に、飛騨古川から天生峠越えで白川郷へ行く道(R360)を確認したら、通行できないとか。去年の夏にはその道を通って白川郷へ行ったので、通れないと言われても釈然としませんが、その道が通れないとなると、行った道を帰るというピストンコースしかありません。仕方ありません。トホホ。 <近辺地図>

 まずは、サンドウィッチで腹ごしらえ。次に、カーナビをセットしようとしましたが、いまだかつて使ったことがないのでよくわかりません。しゃべったりしゃべらなかったり、余計な画面が出たり、またデーターが古いらしく、新しくできた高速道路などが認識できないみたい。役には立ちそうにありません。まぁ、一本道ですから迷うことはないでしょう。


  荘 川 桜 

 高山から清見を過ぎて荘川へ。そこから川沿いの一本道を北へ。土曜日で混んでいるかと思っていましたが、そんな気配はまったくありません。天気は快晴。極めて順調なドライブです。
 まもなく御母衣ダムが見えてきました。最初の目的、荘川桜はこの御母衣ダムの畔にあるはず。まだかなぁ、まだかなぁとソワソワしながら運転していたら、いきなり道沿いに公園のようなスペースが現れ、そこに枯木のような大木が2本。
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1輪も咲いていない荘川桜の雄姿
 「あーー! あれだぁ!」と、すぐに車を駐車場に入れ、桜のもとに向かいました。  事前の下調べでまだ咲いていないことはわかっていましたし、遠目にもまったく咲いていないことはわかりましたが、とにかくこの桜に出会いたかったのです。

 荘川桜にはある逸話がありました。
 古い話ではありません。昭和27年、政府は電力確保のため、この地にダムを建設すると公表し、174世帯1200人の住む白川村の一部と荘川村、中野地区の他5つの集落が水没予定地に入りました。白川郷などのような合掌造りの民家が多く、農業と山仕事で生計を立てていた豊かな村々だったそうです。
 人々は反対同盟を結成して7年間運動しましたが、国に勝てるわけがなく、結局はダムが建設されることになりました。
 ダム底に沈む村の光輪寺と照蓮寺には、春になると村人の眼を楽しませていた2本の老桜があったそうです。
 電源開発総裁の高碕達之助氏は、水没予定地にあるこの美しい桜を憂い、何とか助けたいと、『桜博士』笹部新太郎の協力を得て、昭和35年、大移植作業が進められました。
 光輪寺の桜は約35トン、照蓮寺の桜が約38トン。それを高低差50メートル、距離にして約600メートルも運搬するという世界にも例のない移植作業でした。
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咲いた時の写真 電源開発「荘川桜」
 移植のため、枝や根を切り取られて無惨な姿になった2本の桜は、移植後10年経った昭和45年、再び花を咲かせるようになりました。

 樹高約20メートル、幹周約6メートル、樹齢450余年の江戸彼岸桜(=東彼岸 etc)の巨木。この桜に出会いたかったのです。
 染井吉野とは比べものにならないほどの気品と雄大さが、江戸彼岸にはあります。真如堂の縦皮桜も江戸彼岸、樹齢370年ほどです。
 巨木の持つ力、樹が歩んできた長い時間を考えるだけでも、ぜひとも逢わなければいけない桜のように思えました。
 残念ながら1輪も咲いてはいませんでしたが、出逢えてよかった。また来ようっと。


  白 川 郷 へ 

 次の目的地は白川郷。トンネルの多い道を、去年立ち寄った平瀬温泉や鳩谷ダムの横を通り、白川郷へ。
 ナビが国道からそれる道を示したので、たまには従うのもよかろうと行くと、いきなり白川郷のメインストリ−トに入ってしまいました。
 車を止めては写真を撮りながら、中心部分に差し掛かったところで駐車場に入れ、カメラと三脚を持って、ブラブラしました。
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吹き替え作業中の合掌造り民家
 桜は満開。鯉のぼりもはためいていて、フォト・ジェニック。
 一昨年来た時はあまり写真を撮らなかったので気づきませんでしたが、いざ写真を撮ろうとすると必ず電線が入ってしまいます。世界遺産と声高にPRしているわりにはちょっとお粗末。
 運良く、屋根の葺き替えをしている場面に出会いました。近くにいると、茅のゴミが一杯飛んできて目に入ります。将来はこの集落の担い手の一員となるであろう少年が、ゴミを避けようと瞬きを繰り返しながら自転車に乗り、屋根葺きを見上げているのが印象的でした。
 たまに観光で訪れる者にはほのぼのとした光景ですが、そこに住みながら景観を保っていくのは実に大変ことだ思います。庭にまで入って来るような人がいたり、家の中を覗かれたり、プライバシーという観点からも、さぞかしご苦労も多いでしょう。

 醤油味のみたらしを食べながらブラブラしては写真を撮り、店を冷やかし、人が増えてきた昼前に、五箇山に向かいました。

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  五 箇 山 

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 白川郷ICから高速に乗り、次のICが五箇山。もうここは富山県。
 五箇山は、庄川沿いの谷間、赤尾谷、上梨、下梨、小谷、利賀谷の5つの集落をさし、「五ヶ谷間」から「ごかやま」と呼ばれるようになったとか。山と谷が続く山峡の地で、白川郷の合掌集落とともに、世界文化遺産に登録されています。
 「合掌造り」という名称は、屋根の形が両手を合わせた形になっていることに由来するそうですが、湿った雪が2メートルも積もることがあるという豪雪地ならではの急勾配の茅葺き屋根。普段は都会に住んでいる人でも、そんな景色を見て懐かしいと思うのは、日本人のDNAのなせるわざなのでしょうか。
 平家の落人伝説もあるこの地を訪れてみたいと思ってから、もう20年以上が経ってしまいました。今回の旅では、高山や白川郷よりも五箇山がメイン。やっと来られたという感じです。

 高速を降りてすぐの菅沼の集落へ。国道から見下ろせるこぢんまりした集落は、とても整備されていて、観光用に新しく作ったのかと思うほどでした。それで少し見て回る気を削がれたのか、菅沼はそこそこに、次なる目的「村上家」へ。


ざる蕎麦セット/堅豆腐の刺身
 村上家の脇に車を止め、50メートルほど離れた「拾遍舎」で、まずは腹ごしらえをすることにしました。
 店内はほぼ満席でしたが、庄川の清流を眺めながら食べることのできる席がちょうど空いたので、そこに陣取りました。
 ざる蕎麦を頼んだところ、五箇山豆腐の揚げ出しがセットになっていました。石臼で挽いたほんのり白く細めの蕎麦は腰があり、シャキッとしていて美味。
 ざる蕎麦って、「これでは足りないなぁ」と思うことが多くありませんか? 持ってこられた蕎麦を見た時は、麺の細さも手伝って、そう思いましたが、食べ出すと、「まだある、まだある、なかなか減らない」という感じで、すっかり満腹になりました。
 堅豆腐の刺身も、大豆の味がして美味しかったぁ。

 思わず食べ過ぎたので、村上家に立ち寄る前に、荘川を渡ったところにある「流刑小屋」へ行くことにしました。
 五箇山の庄川の東岸は断崖絶壁に隔離された流刑の好適地。加賀藩は多くの流刑人を送りました。
 この流刑小屋は40年ほど前に雪で倒壊した江戸時代の実物を復元したもので、住民と
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流刑小屋の罪人
の交流を断つべき罪の重い人が入れられた6畳間ほどの小さな茅葺き造り。入口の柱には20センチ角の食事差し入れ口が開けられて、ここから罪人に食料を与えていたそうです。
 中はどうなっているのだろうと、格子のはまった窓から暗い中を覗いて、「わぁーーー!!!」と腰をぬかしそうになりました。中に裃を着けた人が、こちらを見ているではありませんか! 恐る恐るもう一度見ると、裃を着けた等身大の人形でした。
 重罪人というのですから、もっと汚い格好をさせられて収監されているはずですが、一体どうして裃なのでしょう? 人殺しなどの重罪ではなく、政治犯の武士などを閉じ込めていたと説明したいのでしょうか?
 近年ないほどビックリした場面でした。記念に馬面の流刑人をパチリ!

 「村上家」は五箇山の代表的な合掌造りの家で、今から420年ほど前の天正年間に建てられたもの。古風古式の遺構が昔のまま残り、国の重要文化財に指定されています。
 入ってすぐに「煙硝まや」という火薬製造のために山草を腐らせた室のような場所があり、通路の反対側に小窓が開いていて、愛想の悪い人が受付をしていました。
 靴を脱ごうとすると板戸の向こう側から大きめの人の声がしています。戸を開けたら囲炉裏が切ってあって、すぐに声の主から囲炉裏の側に招かれました。当主が語り部として、村上家や五箇山の説明をされていたのです。
 カワラケツメイというマメ科の薬草を煮た茶釜が囲炉裏に吊してあり、セルフサービスで杓を使って入れて飲んでくださいと言われましたが、先に聞いていた人がボクの分まで入れました。
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語り部をする村上家の御当主
 話の途中から聞きましたが、五箇山のことがよくわかりました。御当主は脇にあったささらで音を出したり、7寸5部に切った煤竹を指先で回して打ち鳴らしながら、♪ 筑子の竹は七寸五分じゃ 長いは袖のカナカイじゃ  踊りたか踊れ泣く子をいくせ ササラは窓の許にある ♪ と『筑子コキリコ唄』を披露。実にいい雰囲気。  越中五箇山こきりこ唄保存会『こきりこ唄』
 よく見ると、御当主の襟元に大きなクリップ。よく見るとマイクが留めてあり、程よい大きな声は拡声器を使っておられるからだったのです。
 一通り終わって、家の中を見学しようと席を立つと、次に来た人のために早速同じ説明が始まりました。エンドレステープのように、客が来る限り、説明を繰り替えされているのでしょう。有り難かったです。
 村上家の2.3階には、かつて使っていた生活道具や煙硝や和紙造りの道具が所狭しと並べられていましたが、床は揺れて少々怖く、囲炉裏の煙が上がってきて煙たく、なおかつ頭上高が低くて薄暗いと、情趣たっぷり。4階まであるそうですから、かなり大きな家屋です。

 次に、20棟の合掌造り家屋が建つ相倉の集落へ。現存する合掌造り家屋の多くは江戸時代末期から明治時代に建てられたもので、最も古いものは17世紀にまで遡るということです。  <五箇山地図>
 集落の入り口には、8時以前に集落に入ることを遠慮して欲しいという立て札が立っていました。相倉集落には現在約80人が生活されているそうですが、観光客の中には早朝に集落
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相倉の集落と山々
に入って、人々の日常生活に支障を来すような行為をする人もいるのでしょう。
 集落入り口の駐車場には観光バスも数台停まっていましたが、白川郷のように観光地化はされた感じではなく、素朴な山村の雰囲気がまだまだ残っていました。
 また白川郷では気になった電線は地下埋設されているようで、空を遮るものはありませんでした。
 数少ない途中の店で蕎麦入りのソフトクリームを買い、ペロペロなめながら歩いていたら、すぐにメインストリ−トは突き当たり。家の横にある、谷水を引いた小さな泥田には水芭蕉が咲いていました。
 来た道を戻り、写真を撮るために少し高くなった脇の地道に入り、そこからメインストリートを歩く観光客を眺めましたが、皆さんのんびりしていて、この原風景の中にそれなりに溶け込んでいるかのようでした。

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冒頭2枚は村上家
にて撮影。残りは
相倉集落にて撮影


 日はすでに傾きかけてきました。これより先へ行ったら、夕暮れまでに臥龍桜に辿り着くことができません。来た道を取って返し、「道の駅上平ささら館」を目指しました。「ささら館」には美味しい岩魚イワナ寿司があるという情報を入手していたのです。

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日が傾いてきた中の岩瀬家
 菅沼の集落を過ぎ、五箇山ICを過ぎてしばらく行くと、「岩瀬家」が見えてきました。
 幅30メートル近いかやぶき屋根の前に鯉のぼりがはためき、その前の湿地には水芭蕉が咲いていました。
 この家は、約300年前に、五箇山周辺で生産した爆薬の塩硝を取りまとめて藩に上納していた藤井長右ェ門によって建設され、約130年前に岩瀬家が譲り受けました。上階も含めると5階建てになるこの家には、往時、使用人も含めて30〜40人の人が住んでいたといいます。
 この家のように切り妻の側面から屋内に入る構造は「平入り」、切り妻側に正面玄関があるのが「妻入り」。菅沼や平村の相倉は妻入りが多く、岐阜県側に近づくほど平入りが主流になるそうです。
 岩瀬家の隣には、蓮如上人の弟子赤尾道宗が室町時代末期に開いた行徳寺があり、茅葺きの門が、いかにも山村の寺らしい面影を見せていました。
 五箇山で浄土真宗が盛んなのは、道宗がこの行徳寺を拠点に教義を弘めたからだそうですが、今はひっそりした感じでした。

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絶品の岩魚寿司
 岩瀬家も行徳寺も、岩魚寿司に辿り着くまでの道すがら。「せっかく前を通るのだから寄っていくかな」の口。
 さて、上平村にある道の駅「ささら館」のその名も「岩魚寿司」。知る人ぞ知る岩魚専門店らしいのですが、「道の駅かぁ、高速のSA程度かなぁ」と、正直あまり期待はしていませんでした。
 店で食べている時間が惜しいので、テイクアウトを頼むと、5分ほど待って欲しいとのこと。板前さんはすぐさま水槽で泳いでいる岩魚をタマですくい、さばき始めました。
 店の中で突っ立って待っているわけにはいかないので、案内所に行って地図などを仕入れ、しばらくして戻ってお支払い。にぎり寿司7貫入り950円なり。
 車に戻って、包装を開け、まずは写真撮影。それから運転席に座って、まずは一口。
 旨い! こんなに美味しいなんて思ってもいませんでした。岩魚を生で食べるなんて、もちろん初めて。川魚特有の臭みもなく、プリプリしていて、それでいて口の中でとろけるような感触。味は淡泊だけど、ほんのり甘く、旨味があります。いやぁー、感動したぁ。
 川沿いのワイディング・ロードを岩魚寿司を食べ食べ南へ。美味しい寿司の7貫なんてあっという間でした。

 とにかく急がないと、日が落ちてしまいます。
 もう一度荘川桜の前を通る時、帰りには1輪でも咲いているかなというはかない幻想を抱きました。
 さようなら、荘川桜。

[]  ようやく荘川まで戻り、郡上八幡方面に曲がって10キロ弱のひるがの高原を目指しました。ひるがの高原には、今回の旅行の目的の一つ、水芭蕉が咲く湿原があります。
 水芭蕉は五箇山の各所ですでに見ていますが、やはり自然の中の水芭蕉が見たかったのです。
 ひるがの高原に着いたものの、国道沿いにはいろいろなお店などがあって、とても湿原があるような感じではありません。
 スキー場の看板に「水芭蕉群生地」と書いてあるのを頼りにその方向に進みましたが、以後は何の案内板もなく、住宅も散在していて、それらしい景色は見えません。ようよう庭先におられた方を見つけ、水芭蕉の在処を尋ねました。
 その方の説明はあっちにも咲く、こっちにも咲くというふうで、どこ
[]行へけば不案内な者が確実に見られるかを的確に教えてくれるものではありませんでしたが、とにかく水芭蕉はまだ咲き出したばかりであること、座禅草も咲いているということがわかりました。
 その家から50メートルほど離れた、とにかく一番近そうなところへ進むと、咲いていました水芭蕉! 座禅草も!
 カメラと三脚を持って花に近づき、熱中するうちに湿原に入って、靴やズボンは水浸しになってしまいました。
 その場所は咲いている面積も狭く、住宅などが迫っていて、木道も設けてありません。これをもって旅の目的の一つが叶ったいうにはちょっとさみしいのですが、とりあえずは目的達成です。
 ひるがの高原の水芭蕉は、日本最南限のものとして学術的にも大変貴重なものだそうです。

 国道の反対側には分水嶺の石碑が建つ公園があるはず。これはすぐに見つかりました。
 以前は、JRで高山の手前に差し掛かると、いま分水嶺のあたりを通過しているという車内放送がありましたが、最近は聞きません。
 分水嶺とは、水が異なる方向に流れる境界のことで、もちろん日本列島の至るところにあります。
 この公園の池を流れ出た水は南北へ分かれて流れ、南へ流れる水系は長良川となり、北は庄川となってそれぞれ海へ向かいます。同じ池の水が太平洋と日本海へ旅立つロマン。ところがどんどん日が傾いて薄暗くなってくるのに急かれ、写真を撮っただけで、水が南北に分かれる現場をしかと見きわめるのを忘れてしまいました。

 さぁ、臥龍桜へ急げ! もう一度荘川まで戻り、高速道路で清見へ。国道を高山に戻り、高山から南へと飛ばし、目指すは飛騨一ノ宮の駅。駅のすぐ前に臥龍桜はあるはず。
[]  普通列車しか止まらず、普段の乗降客がさほど多くないことが容易に想像できる「飛騨一ノ宮」の前には、車がいっぱい停まっていました。運良く帰っていった車の空きスペースに駐車し、駅舎の入り口とは異なる、踏み跡のある土手を上って、いきなりホームへ。歩道橋を渡って線路の向こう側に出ました。
 臥龍桜は、駅前の広場から大幢寺の横に上がっていく緑色の斜面に植わっていました。
 高さ20m、枝張り30m、幹周り7.3m。樹齢1100年の江戸彼岸桜。国の天然記念物に指定されています。
 広場にはテントや幟が並び、もう少し早く来たらいろいろなイベントが催されていたことが想像できました。日も落ちかけの今、人は少なくはないものの、静かに夕暮れ中の桜[] を静かに眺めている
人がほとんどでした。いい時に来ました。
 帰ってから宮村のホームページを見たら、16日は7分咲き、17日が満開、20日は桜花が白っぽくなってきたと記されていました。まさに満開の臥龍桜に出会えたのです。
 ところが、4枚ほど写真を撮ったところで、カメラが電池切れ。日が山の向こうに沈む直前の、写真を撮るにはもうギリギリのタイミングだったので、車に電池を取りに帰るのを諦め、しばらく夕暮れと桜の醸し出す不思議な雰囲気に浸っていました。

 今日の行脚の予定はほぼ終了。
 泊まっているホテルに「臥龍温泉」の日帰り入浴の案内があったので、今朝出発する時に割引入浴券を買っておきました。予定コースを回って、その上温泉にまで入れたらラッキ〜!です。
 高山へ帰る国道沿い、温泉は出ないといわれていた場所で6年前に掘り当てたという湯は、無色透明で微かに硫黄の臭いがしました。露天風呂に入ったり薬草湯に入ったり、珍しく長湯をして、今日の行程を思い出しました。

 さぁ、もう車を返さないといけません。朝の8時から12時間の予定で借りたレンタカーの期限が間近に迫っています。走行距離は約250キロでした。

 さてさて、高山の夜はこれから。いい加減疲れているのですが、高山最後の夜、このままホテルにいるのは勿体ない。
 土曜日の宴たけなわの時間帯、雑誌で見て行きたいと思っていた「寿楽久」。本店と朝日町があり(上二之町にも同名店あり)、両方覗いたのですが満席。一番街を行ったり来たりしながら、昨日行った「甚六」の並びの「かっぱ」に入りました。
 店構えも古そうで、大きな梁のある懐深い店は、地元の方が多い感じでした。抑揚のないしゃべり方をするおかみさんに何かオススメはないかとを聞いたら、「おり菜」がいいと、一転熱く説明してくれました。
 おり菜は、菜の花に似たもので(おかみさんの説明では「菜の花」)、花の下の茎の部分を茹でて、鰹節と醤油であっさり食べます。
 おかみさんは、朝市に行ったら売っている、車で来ていたら持って帰れるのにと、我が事のように残念がってくださいました。それだけオススメの地元の食材ということでしょうが、買って持って帰っても、地元で食べた味はしません。さっぱりして、歯への当たりも程よく、美味しいものでした。たらのめの天ぷらも、もちろん絶品。
 座っていたカウンターの前がちょうど焼き物を調理する場所でしたが、そこに何となく気になる板場さんがおられました。
 白いカッターシャツを着た一見ウェイター風、年の頃は60過ぎ。第1ボタンまできっちり締めて、髪はポマードで固めたかのように一本の乱れもない。店の雰囲気からは浮き上がっていて、ジャパネットの高田社長がもう少し歳を取られたような風采。お年を召した方には、歌謡番組司会の草分け「大久保怜」似といったほうがわかりやすいでしょうか。その方は、時折、軽妙に動いてみたり、さほど忙しくなく手持ちぶさたそうで、調理場を整理してみたり。
 どうしてあんな格好をされているんだろう…ギターを持って流しにでもいかれるのだろうか…どんな人生を送って来られたんだろう…などと想像しながら、頼んだら間髪入れずに出てくる熱燗をチビリチビリいただきました。


こも豆腐/漬物ステーキ
 今夜はもう帰ろうかとも思いましたが、「この時間になったら寿楽久も空いているかなぁ…ちょっと覗いてみようかなぁ」と行ってみました。座敷の宴会は盛り上がりっぱなしのようですが、カウンターには空席がありました。「いらっしゃい!」と声を掛けられたら帰れません。
 この店の売りは、富山から入ってくる新鮮な魚とのこと。高山というと山の中のと思っている人も多いでしょうが、富山までは1時間半。お寿司屋さんも結構多いのです。
 生のホタルイカは、すでに売り切れ。「そうそう、去年、穂高に登った時に こも豆腐が食べたかったんだ」と思い出し、漬物ステーキと共に注文。出汁のきいたこも豆腐は美味しい! 漬物ステーキは、今までにも食べたことがありますが、この店のは火が通りすぎて何だか卵焼きっぽく、ちょっとイマイチでした。
 お勘定を頼んだら、「鉄砲汁を召し上がりますか? 最後にお出ししているのですが」とのこと。鉄砲汁が何たるかよく知りませんでしたが所望し、出てきたものを見ると、蟹の殻とネギの入った味噌汁でした。呑んだ後の味噌汁、これも美味しかったです。そして、店のそういう心遣いも嬉しかったです。

 朝から夜までフルコースの一日でした。

2004/4/17