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  お 十 夜  

十夜お練り
Photo by Tsuchimura Seiji
 「お十夜おじゅうや」は正式には「十日十夜別時念仏会じゅうにちじゅうやべつじねんぶつえ」といい、今では浄土宗のお寺で多く行われている法要です。
 お十夜は、今から550年程前、足利義教公の執権職をしていた伊勢守貞経の弟 平貞国が世の無常を感じ、出家して仏道に生きようと、真如堂にこもって念仏の行をされたことに始まります。
 3日3夜のお勤めが済んだら髪を落として出家しようと決意していた3日目の明け方、貞国の夢枕にお坊さんが現れて、「阿弥陀さまを信じる気持が本当なら、出家するしないは関係ないではないか。出家するのは待ちなさい」とお告げをされました。貞国が出家を思いとどまって家に帰ってみると、兄は上意に背き吉野に謹慎処分。代わりに貞国が家督を継ぐようにという命令が下っていました。
 貞国は、「兄は謹慎だし、自分も出家をしていたら家督を継ぐ者がいなくなって、執権職を受けるどころか、家も断絶していただろう。これは阿弥陀さまのお陰だ」と感激し、あと7日7夜、合計10日10夜の念仏をしました。これが「お十夜」の始まりです。
 後に後土御門天皇の勅命により鎌倉光明寺で行われ、全国の浄土宗寺院にも広まりました。
 お十夜は、「この世で十日十夜善いことをすれば、仏国土で千年善いことをしたことに勝る」という教え(「無量寿経」)をもとに、阿弥陀如来の法恩に感謝し、お念仏の尊さを感得する法要です。
 真如堂では、11月5日から15日にかけて修せられ、毎夜6時半から、講員が8つの音階の違う直径約30センチの鉦(かね)を打って阿弥陀仏を念じます。15日には結願大法要もいとなまれます。

  お十夜法要 11月15日   午後2時 結願お練り大法要
                 午後5時 本尊ご閉帳法要
            本尊結縁 9時〜4時頃本尊のすぐ前でご参拝いただけます)


鉦講
真如堂鉦講 鉦を叩きながら「なむあみだぶつ」に節を付けて称える

十夜粥と茶碗について
 11月15日、十夜結願大法要の日、中風除け(タレコ止め)の十夜粥が参詣の方々に接待されます。もともと十夜粥は、ご本尊に供えた小豆飯のお下がりをお粥にして、参拝の方々に振る舞ったのが始まりだといわれています。
 小豆はその赤い色に呪力があるとされ、古くから災厄除けとして多く用いられてきました。また、今のように冬場に新鮮な野菜を口に出来なかった時代、小豆を粥などにして食べることはビタミンB1・B2などの栄養の補給になり、健康維持・向上に役立ちました。小豆はまた古代には薬としても利用されていました。小豆に含まれるサポニンには溶血作用があり、血栓(血のかたまり)を溶かす働きをもっているため、昔の人は産後の肥立ちが悪い女性に小豆粥を食べさせて、お産の時にできた血栓が体内をめぐって心臓や脳でつまらないようにしたといいます。
 十夜粥も、脳梗塞などの脳血管障害で身体が不自由になって排便・排尿の世話をしてもらわなくても済むようにと、小豆粥の薬効を経験的に活用し、秋の収穫への感謝と合わさって、古くから伝承されてきたものと考えられます。
 また、十夜粥茶碗はこの粥の接待をするときに使われているもので、阿弥陀さまの余薫をいただいて、中風などの長患いで下の世話をしてもらわずともよいようにとの祈祷が施してあります。茶碗の底には阿弥陀さまを表す文字が、外側にはその年の干支が記されています。
 阿弥陀さまを念じながら、常日頃よりお使い下さい。


 お十夜は、もちろんインドや中国などにはない、日本の、真如堂で始まった行事です。いろいろ調べてみると面白いことがたくさんあります。
 これよりは、お十夜に関する苦沙彌の私論です。前述の説明と重なる部分があったり、学術的な裏付けのない想像なども含まれていますが、いろいろ歴史を推察してみるのも面白く、書いてみました。

 真如堂の由緒などを記録した『真如堂縁起絵巻』には、次のように記されています。

 「永享の頃(1429〜41)、伊勢守貞経の実弟に貞国 法名真蓮 という人がいた。貞国は若い頃から阿弥陀如来の救いを深く信じ、一心に念仏を称え、現世・来世とも阿弥陀如来におすがりしたいと念じてやまなかった。
 ある時、つくづく此の世の万物流転の様を悲嘆し、生老病死の無常を思った。たとえ自分が千年も長生きをしようと、千年の齢を保つ松でさえ最後は朽ちるように、同じ運命をたどるのだ。どれだけ長寿を誇っても、仙人が住んでいるという蓬莱山でさえ朽ち破れるのは本当に空しいことだ、と。
 過去からずっと繰り返してきた零落、そしてこれからもそんな憂いが繰り返すであろうことに心を痛め、この堂に夜が明けるまで参拝し、夜が明けたら剃髪しようと心に決めてウトウトしていると、明け方近くなった枕元に僧侶の姿をした人が立って、「お前の、現世も来世も私を信仰してに身を任せようとする気持に嘘偽りのないことはよくわかっている。来世は阿弥陀如来の衆生救済の悲願に任せなさい。現世のこと(剃髪しようとすること)はあと3日待ちなさい」とお告げになった。夢だとも思えず、「どうしてなんだろう…」と考えていると、(その僧は)歌を詠まれた。
  心だに立てし誓ひに叶ひなば 世のいとなみはとにもかくにも
 この夢のお告げに従って、ひとまず剃髪して隠遁しようということを思いとどまった。翌日、実兄の貞経は上意に背いて都を追われ、吉野の奥に謹慎処分となった。その代わりに実弟の貞国が呼び出され、不思議な夢の通り、3日経つと家督を継ぐことになった。(その後)家は非常に栄えたが、(貞国は)常に参詣することは怠らなかった。
 また、彼の母である隆慶院信元禅尼は禅に帰依していたが、通り一遍の信心で、参禅などをすることもなかった。真蓮(貞国)はこれを嘆いて、春野遊びにかこつけて、真如堂に参詣させたが、本尊を拝むことができなかった。その悲嘆は大きく、寺中に草庵(無量寿院と号す)を建てて、ひたすら一心に念仏した。その後、うれしいことに如来を拝むことができ、往生されたという」   

(解釈 苦沙彌)

 ここで「伊勢守貞経の実弟 貞国」と記されているのは、伊勢貞国のことです。
 伊勢氏は、貞国の曾祖父にあたる貞継が足利尊氏の養育にあたったといわれる足利氏の近臣で、以来、代々政所・執事を務め(足利義政元服のときに二階堂忠行が一時執事となった時以外)、貞国自身も、足利義教の頃、この職に就いています。
 余談ですが、戦国の武将 北條早雲は伊勢氏の分流(備中伊勢氏)で、早雲の母は貞国の娘だと考えられています。また、「一休さん」に出てくる「シンエモンさん」、すなわち蜷川氏は伊勢氏の部下にあたり、政所代というポストを務めています。

 足利義教が将軍となってから、鎌倉公方足利持氏の反幕府的行動・朝廷との対立・旧南朝勢力の挙兵・徳政一揆の蜂起などの問題が次々と発生し、社会的不安は増大していきました。それに対抗して、義教は奉行人・奉公衆など将軍直属の官僚や軍隊を編成し、将軍へ権力を集中させ、かつ有力守護家の家督継承に介入してその勢力を弱めさせました。このような姿勢は公家・寺社に対しても同様で、比叡山延暦寺の根本中堂を焼き払ったりする事件も起こり、このような義教の恐怖政治は「万人恐怖」と、当時の人に評されました。
 そんな不安定な社会情勢に嫌気がさしたのでしょうか、普段から信仰の篤かった貞国は、世の無常を感じて出家しようと決心して、真如堂に参籠します。その貞国の夢枕にお坊さんの姿をした人が現れて、「阿弥陀さまを信じる気持が本当なら、出家するしないは関係ないではないか。出家するのを3日待ちなさい」とお告げをされます。
 貞国がそのお告げに従って出家を思いとどまると、兄は上意に背き吉野に謹慎処分。代わりに貞国が家督を継ぐようにという命令が下っていました。
 貞国は、「兄は謹慎だし、自分も出家をしていたら家督を継ぐ者がいなくなって、政所・執事職を受けるどころか、家も断絶していただろう。これは阿弥陀さまのお陰だ」と感激した(この部分は想像です)。以後、家は大変栄えたが、貞国は信仰を怠ることはなかった。
 貞国の母は落飾して隆慶院信元となり、禅宗に帰依していたけれど、信仰は篤くなかった。
 貞国の勧めで遊山の時に真如堂を参拝した母の目には、ご本尊の姿が見えなかったといいます(これは信仰の浅さを言いたいのでしょう)。絵巻の絵には、ご本尊の姿が顕わに描かれています。嘆き悲しむ母の左横で本尊を指さしているのが貞国でしょう。お供の女御には本尊が見えているのでしょう。
 母は境内に庵を建てて念仏三昧に明け暮れ、やがてご本尊を拝することが出来るようになった、ということです。

 『真如堂縁起絵巻』に記されているのはここまでです。
 しかし、十夜の起源を語る時、「貞国は阿弥陀如来への報恩感謝として更に7日7夜の念仏をした。先の3日3夜と合わせて合計10日10夜の念仏をした。これが十夜の始まりだ」と説明されます。
 縁起には一言も「十夜」という言葉も、7日7夜追加して念仏したということも縁起にも記されていないのです。そして、これがいつの頃に追加されたのかも定かではありません(縁起の奥書は大永4年(1524))。

 10日10夜というのは、『無量寿経』に「善をなすことが難しい此の世において10日10夜 善をなすことは、仏の国での千年の善行にも勝る」とあるのを教義的な裏付けとしています。(注1)
 貞国の真如堂参籠から50〜60年経った明応4年(1495)、鎌倉光明寺の第9世長蓮社観誉祐崇上人は、後土御門天皇に招かれて『阿弥陀経』の講義を行い、光明寺を勅願寺となす綸旨や紫衣被着の勅許を賜わります。
 観誉祐崇上人は、戦乱の世にの念仏の教えを広めようと各地を巡行し、宮中・庶民を問わずに当時の多くの人々の帰依を受けた僧侶でした。
 天皇の尊信は篤く、同年10月に宮中・清涼殿において真如堂の僧と共に引声阿弥陀経・引声念佛による法要を厳修すると共に、阿弥陀経を講じて、宸筆の阿弥陀経を賜わりました。翌年には十夜執行の宸筆を賜わり、以後、光明寺でも十夜法要を行うようになって、お十夜が全国の浄土宗寺院に広まっていきます。

 貞国が合計10日10夜の念仏をしたということになったのは、この祐崇上人以後、光明寺から全国の浄土宗寺院にお十夜が広められていくときに、『無量寿経』を背景に付け加えられた宗教的創作かも知れないという仮説も成り立つのではないでしょうか。
 祐崇上人は、なぜ真如堂の僧侶と共に引声阿弥陀経による法要を修したのでしょうか?
 引声阿弥陀経は、慈覚大師円仁が中国・五台山から招来されたもので、現在も真如堂に伝わっていますが、これと十夜とは起源が別のもので、真如堂では両者が同時に修せられることはありません。
 上人は宮中で引声阿弥陀経会そのものを厳修したのであって、その時には「十夜」という考えはなかった。それが、後土御門天皇の命を受ける中で「十夜」として定義づけられ、全国の浄土宗寺院に広がっていったのではないか。しかし、引声そのものは大変難しいので、浄土宗では光明寺のみでおこなわれるようになっていった…想像は膨らみます。。
 ある資料では、祐崇上人は宮中で、『阿弥陀経』の講義と引声の法要をそれぞれ21日間を行ったとあります。「21」という数字は仏教ではよく使いますが、朝・昼・夜の1日3回のお勤めを1週間して、3×7=21 と使うこともよくあります。21日間というのは、ひょっとしたら7日間朝な夕なに勤めたということではないかという想像も可能ではないでしょうか。
 3日+7日で10日間という記述がないのに、いつのまにか10日間 → 十夜となっているのは、貞国の3日間と真如堂引声の7日間を合わせたものが起源であり、それに『無量寿経』を教義的裏付けとして持ってきたのではないか…想像たくましいと言われるでしょうか?
 しかし、今まで語り継がれてきた伝承があり、全国各地で十夜法要が行われていることは厳然たる事実です。史実の不明朗さをもって法要の意義が失われることは、少しもないと思います。念仏三昧あるのみ。

 参考までに、後土御門天皇は、明応元年(1492) 、真盛(天台真盛宗の祖)から受戒を受けられています。他にも、少し調べただけで、1474年一休宗純に大徳寺再建の勅命、1477年雪江宗深に妙心寺再興の綸旨、1492年泉涌寺再興の綸旨、1497年永観堂再興の勅命、日蓮宗の立本寺に勅願寺の綸旨(?年)などを下されるなど、今でいう宗派感覚するとかなりのブレがあります。当時人気のある僧侶の講義を聞くというのは、天皇としての教養を身につけるためだったのでしょうか? いろいろな寺の再興などの綸旨を出されたというのは、信仰というより、政治的な動きだったのかも知れません。調べてみたら面白いかも知れません
 この時期、永享年間から明応年間の間、真如堂では大きな出来事が続いていました。
 応仁元年(1467)応仁の乱開始(〜1477)。翌年、本尊は乱を避けて比叡山の青龍寺に、文明2年(1470)に大津穴太の宝光寺に移されています。堂宇もこの戦乱で打ち壊しにあったりする様子が縁起に描かれています。文明10年(1478)には、洛中一条町に遷座。文明16年(1484)には、義政が真如堂の神楽岡の旧地への再建を命じ、6月には遷座。義政は灯明料として花園田を寄進しています。翌年、本堂立柱。明応2年(1493)には本尊遷座の法要を修しています。(延徳2年14901月義政死去)
 一方、社会は、応仁の乱・享徳の乱という2大戦乱が終わった後も、各地で争いが続いていました。将軍家の中でも混乱が続きました。細川政元は日野富子と結んで11代将軍に義澄を擁立し、10代将軍義稙、畠山政長に攻撃を仕掛け、政長は敗死し、義稙も越中へと落ち延びます(明応の政変)。これにより将軍の権威は没落し、以後管領を独占した細川氏が幕府の実権を握ってゆく。明応9年(1500)、後土御門天皇が死去し、後柏原天皇が跡を継ぎますが、幕府は葬送・即位式の費用すら捻出できなかったといいます。

 お十夜(十夜粥、十夜婆)は、俳句などの季語にもなっています。
 虚子は、お十夜の解説として、「十夜念仏法要を略して十夜といふのである。浄土宗の寺院では古くは旧暦十月五日から十四日まで十日間、十夜の法要を修した。今では鎌倉の光明寺の如く陽暦になほして行っているところもあるが、十夜 に最も縁故深い今日十眞如堂は一月おくれの十一月 五日から十夜の間行ひ、田舎では今なほ陰暦で行つている。夜半 信徒のために寺から粥が出る。十夜粥 とも『ごこくの粥』ともいふ」
    眞如堂に知る僧のある十夜かな      虚子
    あなたうと茶もだぶだぶと十夜哉     蕪村
    十方十夜みほとけの前去りがたき     暁台

玉泉寺鉦張り
あきる野市 玉泉寺 鉦張り保存会奉納 太鼓も使う 99/11/15

 お十夜の句はにぎやかでコミカルなものが多いように感じますが、お十夜を10月勤める寺院も多く、ちょうど秋の収穫期にも頃に当たって、神社の秋のお祭り同様、自然の恵み(法恩)に感謝するという意味も込められて、にぎやかな雰囲気で行われるようになったと思われます。
 とりわけ、関東などのお十夜は、鉦だけではなく太鼓を交えたにぎやかなもので、収穫祭的な色合いが強い気がします。
 また、十夜粥は本尊に供えられた新米を接待したことに始まるのではないかという想像もできます。真偽のほどはわかりませんが、粥のことを「おじや」というのは、「おじゅうや」が語源であるという説もあります。???

    (注1): 「この世において善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏の国土において、善をなすこと千歳するに勝れり。所以はいかに。他方の仏国、善をなす者多く、悪をなす者少なく、福徳自然にして、造悪の地なければなり。ただこの世間のみ悪多く、福徳自然なることあることなし。ゆえに勤苦して求欲し、うたたた欺紿し、心労し形困しみ、苦を飲み毒を食ろう。かくのごとくソウ務して、いまだかつて寧息せず。(この世で10日10夜善いことをすれば、仏国土で千年善いことをしたことに勝る。なぜならば他の方角にある諸々の仏国土は善をなす者が多く、悪をなす者は少なく、自然に福徳が積まれ、悪を犯すことがない所なのだ。ところが、この世界だけは悪が多く、自然に善をなすなどということはなく、人々は苦しみを求めて次々偽り欺き、心も体も苦しんで、苦を飲み、毒を食している。このようにあわただしく生きるばかりで、安らかさというものは全くないのだ)」と記されている。