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  お 彼 岸  

 「お彼岸」と聞いて何を連想されるでしょう? 「おはぎ」「ぼた餅」? ちょっと食い意地がはっていませんか? 「彼岸花」、秋のお彼岸には、必ずきっちりと咲きます。

 さて、お彼岸が仏教の行事であることは皆さんご存じだと思いますが、お盆と同じように、お墓まいりをして先祖の霊を供養する行事だと思っておられる方が多いのではないでしょうか?

 「彼岸」は読んで字のごとしで、「彼の岸」、つまり「向こう岸」「かなたの岸」という意味です。私たちの住む欲望にまみれた迷いの世界「此岸(しがん)」に対しての「彼岸」で、悟りの境地ということです。  般若心経は「摩訶般若波羅蜜多心経」というのが正式な名前ですが、「波羅蜜(多)」というのは、サンスクリット語から音写したもので、「彼岸」の原語です(「到彼岸」などと訳されます)。  彼岸・此岸と考えると、その間に川があり、それを渡って向こう岸に行くようなイメージがしますね。彼岸は此岸は別の世界というよりは境目のない、自分の心の中の問題です。煩悩まみれの自分自身を、少しでも安らかな悟りの境地に近づけるように努力する期間、それがお彼岸だということができます。  「六波羅蜜」という言葉を聞かれたことがありませんか? 六波羅蜜の修行を実践して、悟り世界に近づけるように目指すのです(後述)。

 それではどうして、春分の日、秋分の日を中日とした前後3日間ずつ、それぞれ合計1週間が彼岸とされるかですが、これは太陽の動きと関係があります。
  鎌倉時代の歌人藤原為家(定家の子)は「彼岸」と題して次のような歌を残しています。

   夜ひるの ひとしきときと なりにけり 春のなかばを いまぞと思うに

   今日いずる 春の半ばの朝日こそ まさしき西の方はさすらめ

 歌としてはイマイチかも知れませんが、昼と夜の長さが同じになったこと、朝日が真西を指していることを歌っています。
 春分・秋分の日とは、「春の昼夜平分の日」「秋の昼夜平分の日」の略で、いずれも太陽が真東から出て真西に沈み、昼夜の時間は同じになる日です(実際は、太陽に見かけの大きさがあることなどもあって、同じにはならないそうです)。
 昼夜の長さが同じになるから、仏教の説く「中道」の教えにかなう、太陽が真西に沈む時期なので、西方極楽浄土におられる阿弥陀仏を礼拝するのにふさわしいといわれます。
 『観無量寿経』の中で、お釈迦さまは阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴えるイダイケ夫人に対して、西方極楽世界に往生するための16のイメージ法を授けられます。その最初が「日想観(にっそうかん)」という、真西に沈んでいく太陽を思い浮かべてしっかり頭の中に焼き付け、阿弥陀仏の国の方向を見定めるというものです。
 大阪の四天王寺西門には、「釈迦如来転法輪所 当所極楽東門中心」と2行に書いた額がかかげられています。「ここはお釈迦さまがお説法をされているところであり、この門は西方の阿弥陀さまの世界である極楽の東門にあたる」という意味です。夕日が四天王寺西門の正面に沈む春秋の彼岸の中日には、それを拝む法会が行われたといいます。あるいは、兵庫県の浄土寺はやはり彼岸の中日、西に沈む夕日が寺の回りにあるため池に反射して、本尊の阿弥陀如来を照らし出すように作られているといいます。このような例は他にもあり、太陽は仏教にとっては大切な役割を果たしているわけです。
 この、夕日を見て西方極楽浄土をイメージする「日想観」などから、春分・秋分の日に彼岸が行われるようになったと言われます。
 一方、彼岸の語源は「日願(ひがん)」であるという説もあるそうです。古来からの太陽信仰からいっても、太陽が真東から出て真西に沈み、昼夜の長さが同じこの日は、非常に大切な日でした。「日の願」が「日願」になったとも言われ、「日天願」と呼ぶ地方もあるそうです。
 お彼岸はインドや中国では行われていない、聖徳太子の頃から始まったといわれる日本独自の行事です。日本古来の太陽信仰や仏教の思想、西方極楽浄土を念じる教えなどが合わさって、彼岸として定着したのでしょう。

 最初に書いたように、お彼岸は亡くなった方を供養したり、お墓まいりをしてそれで終わりというのではありません。
 本当の幸福はどこか余所にあるのではなく、自分自身の中にあります。そこに至るのは、私たち自身が日常の生活を反省して、正しい方向へ向かって努力する一瞬一瞬の積み重ねによりますが、とりわけ特別な日を設けて心を新たに精進しよう、それも彼岸の大切な意味なのです。
 その具体的な努力項目が先ほどの「六波羅蜜」、「布施(ふせ)」「持戒(じかい)」「忍辱(にんにく)」「精進(しょうじん)」「禅定(ぜんじょう)」「智慧(ちえ)」です。
 少々こじつけっぽいのですが、これらを彼岸の7日間に割り振って、彼岸中の実践項目とする考え方もあります。

六波羅蜜
実践目標
説     明
彼岸入り
1日目
布 施  お坊さんへ「お布施」をしようという日ではありません。すべての生きとし生けるものに、限りない慈しみを施すことです。布施には、金銭や物品を他人に施すこと(財施)や仏教の教えを説いて迷う人を悟りへと導く(法施)、人のおそれを取り除いて安心を与える(無畏施)などがあるといわれます。いろいろな布施の方法がありますが、「無財の七施」というのが、身近で、わかりやすいかも知れません。
 「無財の七施」とは、眼施(げんせ)・ 和顔施(わげんせ)−やさしい思いやりの眼差しや穏やかな顔で接する  言辞施(ごんじせ)−やわらかい思いやりの言葉をかける 身施(しんせ)−自らの身をもって真心のこもった奉仕をする 心施(しんせ)−心の底から人を思いやる 牀座施(しょうざせ)−座席を譲る 房舎施(ぼうしゃせ)−困っている旅人を家に入れて休ませてあげる、です。
 いずれにしても、布施を行ったからといって見返りを期待してはいけませんし、受ける方も欲張ってはいけません。すべてが清らかな中で行われなければいけません。
2日目 持 戒  生活規律・規範を守る。正しい生活をして自分自身の完成に努めるということで、自ずから心が清らかになります。「五戒」ということをお聞きになったことがあると思いますが、それは「不殺生戒(ふせっしょうかい)」−みだりに生きものを殺したり傷つけたりしない 「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」−人のものを奪ったり盗んだりしない 「不妄語戒(ふもうごかい)」−ウソをつかない 「不邪淫戒(ふじゃいんかい)」−淫らな異性関係をもたない。不倫をしない 「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」−お酒を飲まないで、在家信者の人が守らなければならないこととされています。
3日目 忍 辱  寛容な心を持って、他からの侮辱や迫害を堪え忍び、心を穏やかに保つこと。辛い時を堪え忍べば、他人への思いやりもでき、自分の本当の目標に向って努力を積み重ねることができます。
4日目 (中日)  お寺やお墓のお参りをする。
5日目 精 進  正しい目標に向かって、一所懸命努力し続けること。お釈迦さまは亡くなるときも弟子に向かって「怠ることなく精進し続けなさい」とおっしゃいました。これで完成というのは決してなく、一瞬一瞬の努力の積み重ねが一生ということですね。
6日目 禅 定  心を動揺・散乱させることなく、安定・集中させること。心の動きを止めて、真理を洞察するということです。心が動転していると、本当のことが見えてきませんね。
7日目 智 慧  一般的な知識ではなく、「仏の智慧」。つまり、真実のすがたを見極めることです。「知恵」というのは、学問的知識や経験的知恵ということで、仏教では区別しています。意味で使われています。

 これらをすべて完璧に実践するのは、とても難しいことですね。
 でも、ただダラダラと毎日を過ごすのではなく、「今日はこれを目標にしよう」「少しでも実践しよう」と自分自身を律することで、少しでも清らかな時を過ごすことができるのではないでしょうか。
 あまり難しく考えて窮屈にならずに、でも少しでも「仏」に近づけるような日々を過ごしていきたいものですね。

 さて、話が難しくなったところで、お待ちかね?のぼた餅とおはぎの話題です。
 ぼた餅とおはぎの違いは何でしょう?
 ○春は牡丹の花に因んで「ぼた餅」、秋は萩に因んで「おはぎ」 ○こしあんが「おはぎ」で、粒あんが「ぼたもち」 ○大きなものを「ぼたもち」、小振りなものを「おはぎ」 ○おはぎは宮中奉仕の女官が用いた言葉 ○秋のお彼岸は小豆の収穫時期とほぼ重なり、 まだ皮の柔らかい小豆をあんにすることができるので、粒あん。春のお彼岸は、一冬越して堅くなった小豆を使うので、皮を取り除いて漉しあんにする。
 さて、皆さんはどうして区別されていますか?
 落語にこういう話があります。旅人がテクテク歩いているうちにすっかり日が暮れてしまった。どこかに宿はないかと探してみたが見あたらない。そこで、山の中の一軒家に頼んで泊めてもらうことにした。しばらくすると、襖の向こうから、主とおかみさんの声がしてきた。「半殺しにすべぇかぁ、皆殺しにすべぇかぁ…」。旅人は慌てて逃げ出した。 半殺しは、あんを半分つぶしたぼた餅、皆殺しはすっかりつぶしたおはぎ。実は、突然の客の食事代わりを、ぼた餅、おはぎ、どっちにしようかと相談していたのにという話です(半殺し=ぼた餅、手打ち=うどん、という話もあります)。
 私は「半殺し」の方が好きです。薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)の粒あんなんて、大好きです。おはぎは、黄粉の付いたのが一番好きですねぇ。

 脱線しましたが、お盆とはまたちょっと違ったお彼岸。おわかりいただけたでしょうか?
 ともあれ、祖先や親への感謝の気持ちをあらわし、自分自身もすっきり清らかな気持になるにも、お墓まいりは欠かせないでしょうね。